薄暗い部屋の中に響く壮麗な音色。

     与えられた題名に相応しい曲が、狭い空間に鳴り響く。

     自分好みにチューニングされた音楽を、自分の一番好きな空間で一人聞く。それが彼の贅沢だった。

     曲のラスト。全ての楽器の様々な音色を引き連れて、大きく強く響き渡った後、曲は静かに終わりを告げた。

     満たされた時間が終わりを告げ、再び沈黙が狭い部屋を支配する。

     立ち上がった男の手が、役目を終えた中古のCDコンポを操作し、中から一枚のCDを取り出しケースに仕舞いこむ。

     そして更にその脇に置いてある一台のパソコンへと手を伸ばした。

     彼の指がキーに触れたとたん、シンプルなスクリーンセーバーの画面が消え、まったく別のものが姿を現した。

     男の指が更にキーを操作する度、現れる様々な画面。

     数字の羅列。

     人名の一覧。 

     何かの薬品らしき名前の数々。

     それらは、全て彼が集めたものだった。

     映し出されていた画面が消え、パソコンから一枚のCD−Rが取り出される。

     これが、彼が持つ切り札の全て。

     これを明日、あの人に見せる。

     このデータ―を見せて、あの人の過ちを正し、昔のあの人に戻ってもらう為に。

     尊敬するあの人の為に…。

     

     使っていたパソコンの電源を落とす。

     部屋が闇に包まれた。

     そして彼は部屋をあとにする。

     向かった先は…。

     

     

     数日後。

     彼は冷たい水底で眠りについた。

     眠りにつく前の最後の瞬間、彼の脳裏に浮かんだものは何だったのだろう。

     愛しい女性の姿か。

     まだ見ぬ子供の姿か。

     弟同然の少年の姿か。

     それとも…。

     

     答えはもう、誰にも判らない。

     

      パートナー 〜共に歩む者達〜

             第八章 過去からの『幻想曲』

     

     藤咲に誘われるまま車に乗り、走りつづける。

     行く先のわからない二人だけのドライブは青島を不安にさせたが、それ以上に青島の感情を支配していたのは、彼の隣で鼻歌混じりに車を運転している男に対する怒りだった。

     青島の気持ちを知ってか知らずか、能天気な男はにこにこと楽しそうな笑顔を貼り付けていた。

     そんな藤咲にちらりと横に目をやり、苛立ちも顕に睨みつける。

     青島の不穏な視線に気がついたのか、藤咲の鼻歌がぴたりと止んだ。

    「どうしたの?僕の顔に何かついてる?」

    「いーえっ、何にも」

    「そう?それにしても不機嫌な顔して如何したの?せっかくのドライブだもん、楽しまなきゃ駄目だよ」

     一体誰のせいだと、怒鳴りつけたくなるのを何とか堪える。

     車道のど真ん中に車を止め、大声で人の事をナンパしてくれた挙句、無視して立ち去ろうとすれば『青島君の白状者』だとか『乗ってくれなきゃ泣いてやる』とか喚いて嘘泣きし、何事かと立ち止まった通行人やら、後ろに連なる他の乗用車に向かって『みなさーん、聞いてくださ―――い!この人ったら、警察官のくせに困ってる市民を救おうともしない極悪人で…』などと、ある事無い事言ってくれたのはどこのどいつだというのか。

     しかも、根負けして乗り込んだものの、行く先は不明。どこに行くのか尋ねてみても『内緒♪』の一言ではぐらされてしまう。

     これで不機嫌にならない人間がいるとすれば、聖人クラスの人格者か、逆に破滅寸前の性格破綻者かのどちらかだろう。

    「まぁ、もう直ぐ目的地だから我慢してよ」

     青島の気持ちを余所に藤咲は勝手に車を進めていく。

     青島にとって拷問に近い時間が永遠に続くかと思われた時だった。

     身体を伝わる軽い衝動とブレーキ音。

    「着いたよ」

     藤咲に促されるまま自動車を降りる。

     自動車が止められたのは、都会の真中にありながら昔ながらの下町風景を残す古い住宅街にある駐車場だった。

     

     

     舗装もラインも引いていない、砂利が敷かれただけの駐車場を歩きながら周囲を見渡す。

    「藤咲さん、ここって…」

    「青島君、こっちこっち」

     青島がぼーっと周囲を見渡している間、何時の間にか先に進んでいた藤咲が通りの向こうから声をかけた。

     いくつもの道が複雑に入り組んだ住宅街。地理に疎い場所で置いてきぼりを食らっては…と、細い路地を走り抜け、藤咲の元に急いで向かう。

     走りながら、もう一度辺りを見回す。

     建ち並ぶ古い家屋。

     軒下に並べられた雑多な植木鉢。

     明るく挨拶を交わしながら行き交う住人たち。

     一昔前、何処にでもあった穏やかな光景。

     懐かしき日本の源風景。

     流れていく景色は、その風景を知らないはずの青島にも、どこかに置き忘れてしまった懐かしさを思い出させて。

    「それじゃあ、行こうか」

    「はい」

     ゆったりと歩く藤咲の歩調に合わせ歩いているうち、青島の心の中にあった焦りや憤りは、いつのまにか綺麗に消えていた。

     

     

    「ここだよ」

     先行していた藤咲の足が一軒の家の前で立ち止まる。

     細い路地。他の家々に挟まれるように建った木造住宅。

     小さな庭に植えられた大きな木々と、年季の入った古い門柱がこの家が建ってからの年月を示していた。

     ふと、周囲を見渡していた青島の目が止まる。

     くすんだ手書きの表札に書かれていた名前は…。

    「…八幡?」

     青島の脳裏に刻まれていた名前。

     五年前に死亡した男と同じ苗字に、思わず藤咲の顔を見る。

     藤咲は静かに笑っていた。

     

     

     門をくぐり、呼び鈴を押す。

     短い待ち時間の後、玄関に現れたのは、60歳に手が届くか届かないかの女性だった。

    「こんにちは」

    「まあまあ!藤咲君よく来てくれたわね」

    「ご無沙汰しております」

    「元気だった?ああ、挨拶は良いから早く上がってちょうだい。主人も歓ぶわ」

    「あ、これつまらないものですけど」

    「もう、気を使わなくても良いっていつも言ってるのに…。とにかく早く上がって!…お父さん!!藤咲君が来てくれたわよ!」

     藤咲はバタバタと忙しなく奥へと消えていく婦人の姿を苦笑しつつ、家へと上がる。

     今のやり取りに完全に取り残された青島だけが、何も出来ないまま玄関に突っ立っていた。

    「青島君、君も早く上がったら?」

    「で、でも…」

    「いいから、いいから」

     まるで勝手知ったるわが家のように上がりこむ藤咲につられ、青島も家に上がる。

     狭い縁側を抜け、八畳の仏間に通された。

    「おう、藤咲君。よく来てくれたなぁ」

     綺麗な花の飾られた仏壇の前に居たのは、先程の女性より更に年上の男性。よく見るとその右手には肘から先が無い。

    「おじさん、こんにちは。ご無沙汰しててすみません」

    「いやいや、来てくれただけで嬉しいや。…ところでそちらは?」

     男の穏やかな笑顔が青島を捉える。

    「お、俺は…」

    「おじさん、こちらは青島君といって昭彦の大学時代の後輩です。卒業してからずっと、北海道の方に勤めていたんですが、今度東京に戻ってくる事になりまして。…青島君、こちらが昭彦のお父さんだよ」

     澱みなく、もっともらしい嘘を並べる藤崎に呆れつつも、神妙な顔をして挨拶を返す。

    「…あ、青島です。八幡…先輩には、昔、よくお世話になりました」

    「そうでしたか。よく来てくれたね。昭彦も歓んでるよ」

    「は、はい…」

     嘘を吐いている後ろめたさから、返す返事もどうしても小声になってしまう。

    「でも、本当によく来てくれたわね。毎年毎年、仕事も忙しいでしょうに…」

     人数分のお茶を入れた婦人が会話に加わる。

     おそらくこの婦人が八幡昭彦の母親なのだろう。

    「仕事のほうは一日ぐらいサボっても構いませんよ。それよりも今日…昭彦の命日ぐらいちゃんと顔を出さなきゃ、あいつに怒られちゃいますからね」

     おどけた調子で語られた藤咲の言葉に、驚く青島。

     内心の動揺を隠しつつ手繰り寄せた記憶の中で、八幡昭彦の死亡日と今日の日付が一致する。

     五年前の今日。

     八幡昭彦が海で死んだ、日。

    「そういえば、健司君はまだ…?」

    「今日は平日だからね。多分学校が終わってからになるんじゃないかな?」

     壁に掛けられた古い掛け時計を見ながら父親が言う。

    「……逢坂君も毎年ここに来ているんですか?」

     懐かしむような表情で、掛け時計を見ている父親と傍にいる母親に聞こえないように小声で藤咲に話し掛ける。

    「ああ。健司君にとってここはもう一つの家みたいなもんだからね。命日だけじゃなくて他の日にも遊びにきているみたいだよ」

     早くからから祖父母を亡くした逢坂少年にとって、八幡の両親は祖父母の変わりのようなものだと、傍らの二人に聞こえないように小声で答える。

     そういえば…と、今朝逢坂と交わした会話の中を思い出す。

     学校に行くには早すぎる時間に家を出た彼。どうせサボるつもりだったといっていたが、もしかすると最初からここに来るつもりだったのかもしれない。

     

     

    「もしよかったら、昭彦の部屋に上がらせてもらっても良いですか?」

     藤咲の声に思考を中断され、顔を上げる。

     突然の申し出にもかかわらず、父親は二つ返事で了承してくれた。

    「ああ、構わんよ。青島君と一緒に昭彦の思い出話でもしてくれれば、あいつの良い供養になるだろうし…」

     そういって位牌を見詰める父親の顔が、青島の目に焼きついた。

     親よりも早く逝ってしまった息子。しかも、犯罪者の肩書きをつけられた一人息子の死に対する親の気持ちはいかなるものだろう。

     掛ける言葉も見つからないまま、深く頭を下げて部屋を辞する。

     やりきれない気持ちを抱えたまま昇る階段。

     たどり着いた六畳の和室は、五年前から時間が止まったままだった。

     壁際の棚に所狭しと並べられたCD。

     法律関係の本が並べられた書棚と、その横に設置された古いオーディオセットとパソコン。

     窓際に置かれた机の上には、八幡が使っていたものと見られる文房具が無造作に置かれ、部屋の隅に置かれたベッドも、今すぐにでも使えるようにきちんと整えられていた。

    「…埃一つ無いですよね」

    「おばさんが毎日掃除してるからね」

     何もかもが五年前のまま。

     ただ違うのは、部屋の主が二度と戻ってこないという事だけだった。

     

     

    「さて、と。色々聴きたいことがあるって顔だよね」

    「はい。聴きたいことが有り過ぎちゃって、何から聞こうか迷ってます」

     遠慮呵責の無い青島の言葉に藤咲の笑顔が更に深くなる。

    「そうだねぇ…何から話したらいいのかな?」

    「最初から。あなたと死んだ八幡さんの関係を教えていただけませんか?」

     この家に何度も来ているという藤咲。藤咲に対する両親の態度も、単なる顔見知りにしては親しすぎた。

     藤咲は青島の顔を暫く見詰めると、棚の上に置いてあった写真立てを差し出す。

    「これは…?」

    「僕達が大学生の時だったかな?皆で軽井沢に遊びに行った時の写真だよ」

     そこに写っていたのは、五人の男女。大学生の男と女が二人ずつと、小学生低学年の小さな男の子が一人。

     ふと少年の顔に既視感を感じる。

     無邪気に微笑む少年の顔に、もう一人の少年の顔が重なった。

    「この男の子は…逢坂君?」

    「そうだよ」

     四人の大人に囲まれて楽しそうに笑っている少年。無表情な今の顔とはまるで正反対の無邪気な笑顔だが、確かに本人の面影が残っている。

    「もう知ってるかもしれないけど、八幡家っていうのは代々逢坂家に仕えてきた家でね。昭彦の父親も健司君の祖父の代から専属運転手を勤めていたんだ」

     昨夜、中村に見せてもらった資料と、肘から先を失った父親の右手を思い出す。

     事故で引退するまで逢坂家の運転手を勤めていたという父親。

    「そのせいもあって、昭彦と健司君は生まれた時から兄弟同然に育ったんだ」

     氏素性よりも、能力重視だった祖父の性格もあって、家柄など関係なく二人は育てられた。

     特に、幼い頃から学力に秀でていた八幡を、逢坂の祖父は実の孫同様に可愛がり、彼が一流の学校に通えるように資金面全てを無償で援助していたという。

    「あの二人は本当に仲がよくってね、どこに遊びに行くにもいつも一緒だったよ。大学時代初めて昭彦と知り合った時は、最初本当の兄弟だとばかり思ってた」

    「あなたと八幡さんは大学の同級生だったんですか?」

    「うん、僕と昭彦と、昭彦の婚約者だった夏泊真琴。それから真琴ちゃんの親友だった殿村恵梨。…よく四人でつるんで遊んでたね」

     名前を言いながら順番に指を刺していく。その指が最後の女性の上で止まった時、青島の顔に戸惑いの色が浮かんだ。

     殿村恵梨。

     髪型は違えど、その顔は室井の見合い相手そのもので。

     青島の表情に気がついたのか、藤咲が意味ありげに笑う。

    「大学を卒業して、昭彦が能力をかわれて逢坂氏の秘書に、僕が警察官の道に進んでも四人はずっと一緒だったよ」

     流石に忙しくなって滅多にあえなくなったが、四人の友情は変わらなかった。

    「五年前のあの日もそうだった。昭彦が死ぬ前の日に、どうしても会いたいからって電話があったんだ」

    「前日に?」

    「ああ、相談したい事があるって言っていたけど、約束の時間になってもあいつは現れなかった」

     二人が待ち合わせしていた、まさにその時間。八幡昭彦は冷たい海の中で永年の眠りについた…。

    「昭彦が、自殺なんかする奴じゃないって言う事は、この僕が一番よく知っていた。だから必ず裏があるはずだからと必死の思いで調べたんだよ。だけど…」

    「…証拠は挙がらず、事件は未解決のまま封印された」

     青島の言葉に苦々しく頷く。

    「事件の背後に、逢坂氏が絡んでいる事も突き止めた。でもそこまでだった」

     結局何も出来ないまま五年という歳月が流れていった。

    「この五年間、事件の事を諦めたわけじゃないんだよ。僕は僕なりに少しずつだけど証拠になるようなものが無いか調べていたんだ」

     だが、相手はそう簡単に尻尾を掴ませるような輩ではなかった。

     行き詰まる捜査。

     さり気無く掛けられる上からの圧力。

     これ以上はもう無理なのかと諦めかけた時、一つの転機が訪れた。

    「新薬の許可申請を巡って、鳳翔製薬と逢坂氏の間で賄賂がやり取りされたって言うタレコミがあったんだ」

     最後のチャンスだと思った。

     今度こそ必ず尻尾を掴み逮捕する。そしてそれをきっかけとし、五年前の事件の全てを明らかにするつもりだった。

    「正攻法で攻めても無駄だって事は判っていたからね。丁度その頃持ち上がっていた恵梨ちゃんと室井さんの見合い話を利用したんだ」

    「…え?」

     青島の顔を見ていた藤咲の顔に悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。

    「恵梨ちゃんが厚生省に勤めていた事は知っていたし、逢坂氏とは健司君を通じた顔見知りだったんで、その立場を利用して彼の周囲を探ってもらってたんだよ」

    「じゃあ室井さんは…?」

    「室井さんが五年前、昭彦の事件の担当だった事は?」

    「知っています」

    「じゃあ話は早い。彼がその事件の事をいまだに悔やんでいる事を知ってね、彼に協力を頼んだんだ」

     室井は藤咲の計画を聞き、自分から協力を申し出たという。

    「いくら知り合いとはいえ、警察キャリアの僕と、厚生省役人の恵梨ちゃんが頻繁に会ってたんじゃちょっと不味いだろ?だけど、見合い相手の二人ならしょっちゅう会ってても何の問題も無いし、不自然じゃない」

    「だから、室井さんに殿村さんとの連絡係を頼んだ…?」

    「ご名答!」

     にこやかに答える藤咲に、青島の全身の力が抜ける。

     突然持ち上がった室井の見合い話。

     何も言わなかった室井。

     全ては事件の捜査の為だったのだ。

    「だからね、あの二人の事は気にしなくてもいいんだよ。噂になっているような事も全部、嘘。恵梨ちゃんも室井さんも事件の事が無ければ見合いなんかしなかったって言ってたしね」

    「……」

    「室井さんが君に何も言わなかったのは、君を巻き込みたくなかったからなんだ。上手く尻尾を掴めればいい。だけど万が一にも失敗した時は、無事に済むはずはないからね」

     逢坂少年の捜査を止めろといったのも、下手に周りで騒がれて計画が失敗する事を避けるためと、青島をこれ以上事件に関わらせない為。

     五年前、上役によって揉消された経緯のある事件。今度も何が起こるのか判らない。下手に巻き込めばどうなるか。結果は火を見るより明らかだ。

    「室井さんは、君の事を本当に大切に思っているんだ」

     青島を守りたいといった室井。

     藤咲の話がすべて本当なら、その言葉に嘘はないだろう。しかし…。

    「でも、俺は…室井さんに守ってほしいなんて思った事は一度もなかった」

    「……」

     大切に思われているのは嬉しい。

     だけど、ただ守られるだけ、相手の負担になるだけ。そんな立場にいるのは青島には耐えられない。

    「俺は、室井さんを支えられるような、一緒に戦える対等な立場でいたかったんだ…」

     たった一人で警察機構と戦う室井の支えになりたかった。

     室井が苦しんでいる時に、一緒に苦しめるような相手でいたかった。

    「……そのことを室井さんに伝えたことは?」

    「……」

     青島は少し考えた末、ゆっくりと首を横に振った。

     彼と一緒に並んでいたいという思い。

     役に立ちたいと思うと同時に、重荷にもなりたくないという思い。

     公表できない二人の関係が心に拍車をかけ、様々な思いは自己の我侭だという認識へと代わっていった。

     あの人の負担になりたくなくて。

     枷から解き放ちたくて。

     自分の思いを全て封じ込めた。

    「君たちはお互いを大切に思い過ぎて、一番伝えなきゃいけないことがちゃんと伝えれていないんだね」

    「……そんな」

    「言いたい事はちゃんと言葉でいわなきゃ通じないよ?この事件が解決したら、室井さんときちんと話し合いなさい」

    「でも…俺はもう…」

    「一生後悔したくなければ、そうする事だよ。第一、一方的に別れられたんじゃ、室井さんだって納得できないよね」

     優しいが、有無を言わせない口調にしぶしぶ頷く。

     子供のような拗ねた顔で俯く青島を見て、藤咲が声を立てて笑った。

    「そんな顔をしても駄目だって。既婚者の言う事は素直に聞いたほうが身のためだって」

    「既婚者?藤咲さん結婚してんですか?」

     自慢そうに笑って頷く藤咲。

     確かに彼の年代なら結婚していてもおかしくはないと思うのだが、どうも目の前の恍けた男と『結婚』の二文字が結びつかない。

    「小学四年生の男の子もいるよ」

    「えええええっ!?だって藤咲さん今…」

    「うん、三二歳。あ、僕学生結婚だったんだ♪僕の奥さんすっっごく綺麗な人でね…」

     頬を染めながら、蕩けるような笑顔で愛妻と愛息子の自慢を延々とはじめた藤咲を見て。

     青島は今度こそばったりと床に倒れこんだ。

     

     

     それから暫くして、漸く終わった藤崎の惚気話から開放された復活した青島は、藤咲と共に部屋をあとにする事にする。

     片付け損ねた写真を片付けようと、写真立てを元の棚に置いた時だった。

     写真を置いた青島の肘が、傍に重ねてあったCDケースにぶつかり、置いてあったCD全部をうっかり下に落としてしまった。

    「あちゃ〜〜」

    「割れてないから大丈夫だよ」

     藤咲と共に落としたCDを集めていた青島の手が止まる。

    「どうしたの?」

     怪訝そうに覗き込んだ青島の手に握られていたのは、一枚の吹奏楽曲のCD。

     表題名は。

    「『エル・カミーノ・レアル』か…アルフレッド・リードだね。昭彦が一番好きだった曲だよ」

    「そう…なんだ」

     曲のタイトルは室井と殿村が共に食事をしていた店と同じものだった。

     二人を目の前にして逃げ出した店と同じ名前だったので、ついつい見詰めてしまっていたのだが、まさか死んだ八幡が一番好きな曲だとは思わなかった。

    「確か、スペイン語で『王道』っていう意味だよ。…聞いてみる?」

     あまりにも熱心にCDを見ていた青島に、興味があると勘違いしたのか、藤咲がCDを手にとりながら聞いてきた。

    「あー…はい」

     元々クラシックなどに興味のない青島である。藤咲の申し出を一度は断ろうとしたのだが、曲そのものよりも題名に好奇心を覚え、聞いてみる事にする。

     青島が頷いたのを見た藤咲が長い間使われていなかったオーディオセットの電源を入れた。

     長い間使われていなかった割に、スムーズに作動するプレーヤー。

     CDをセットされたプレーヤーが、記録されている曲を再生し始めた。

     スピーカーを通じて流れてきた曲。それは…。

    「うわあああ!?」

    「ちょっ、ちょっとストップ!ストップ!!」

     流れてきたのは荘厳な木管楽器の音でも、華麗な金管楽器の音でもなく、耳を劈く破壊的なノイズ。

    「壊れてんじゃないの!?これっ!」

    「え〜、そんなはずないと思うけど…」

     慌てて停止ボタンを押した藤咲が、CDを取り出す。

     どこか異常がないか調べていた藤咲が、ふと何かに気がついた。

    「如何したんですか?」

    「…青島君。これ音楽CDじゃない」

    「え?」

     差し出されたCDを見る。一瞬見ただけでは解からなかった。だがよく見てみれば、貼ってあるラベルは明らかに手作りのもので。

     青島が弾かれたようにパソコンのスイッチを入れる。

     立ち上がるまでの短い時間をもどかしく待ちながらCDをセットする。

     マウスを操作して開いたファイルの中にあったものは…。

    「………あった」

     藤咲の掠れた声を聞きながら、青島は画面一杯に表示されたデータ―を凝視していた。

     数字の羅列。

     人名の一覧。

     何かの薬品らしき名前の数々。

     そこに逢坂本人の名前はなかったものの、それは確かに五年前、八幡昭彦が自分の命を賭けて集めた証拠の数々だった。

     

     

     名残惜しそうに見送る八幡の両親に頭を下げながら彼の家を後にする。

     駐車場までの道のりを歩きながら、青島と藤咲は手に入れた証拠について話をしていた。

    「これで、逮捕起訴できますか?」

    「うーん、逢坂直哉自身の名前がないのがちょっと痛いけど、少なくとも逮捕の突破口になるのは確実だね」

    「でも、まさかあんなところに隠してあったなんて…」

    「その事なんだけどね…」

     藤咲の浮かない顔に、青島の足が止まる。

    「…?」

    「昭彦が死んだ時、あの部屋にあったものは隅から隅まで全部調べたんだ。しかも穴が開くほど念入りに。…なのに何で気がつかなかったのかなぁ?」

    「なんでって、俺に聞かれても困るけど…」

    「そうだよねぇ…」

     いずれにせよ、あそこに証拠のCDがあったのは確かな事で。

     納得しきれない事は幾つかあるものの、今はとにかく一刻も早く本庁に帰ることが先決だという事になった。

     目的の駐車場まで後一歩だという頃になって、藤咲の足がぴたりと止まる。

    「ところで、青島君。先程から僕達の後をつけてきている殺気たっぷりの人たちがいるんだけど、君の知り合いかい?」

    「いーえ。てっきり俺は、藤咲さんの知り合いだとばかり思っていました」

     そういって二人で不穏な顔で笑い会う。

    「どうします?車まで後少しですけど」

    「でもなんか、このまま車に乗っても無事に帰れそうにないよねぇ」

    「エンジンに細工がしてあるとか?」

    「ブレーキオイルが抜いてあるとか。どっちにしても無事に帰れそうにないね」

    「拳銃も持ってますかね?」

    「持ってるだろねぇ」

    「じゃあ…決まりですね」

    「そうだね。墓穴を得らずんば墓地を得ずっていうし、ここは思いきって相手の懐に飛び込んでみるのも良いかもね」

    「………それを言うなら『虎穴』でしょう」

    「あれ?君の場合は虎穴というより墓穴の方が似合いそうな気がしたんだけど…」

    「その冗談、笑えませんって」

     二人がくだらない言い合いをしている間にも、男たちは確実に距離を詰めていた。

     そしてその姿が完全に確認できる距離まで近付くと。

     青島と、藤咲は揃って男たちに向かって両手を挙げた。

     

     

     下町が夕飯の支度で賑わい始める時刻。

     二人の刑事が姿を消した。

     乗ってきた車にはエンジンに細工がしてあり、エンジンが始動すると爆発炎上するようになっていた。

     買い物に行き交う人々は誰も気がつかなかった。

     それほどに鮮やかな手口だった。

     ただ一人、二人の刑事がグレーのバンに押し込まれていたのを見ていた人間がいた。

     目撃者は少年。

     知人の家に行く途中の出来事だった。

     少年の名は逢坂健司。

     

     

     そして事件は大きく動き始める。

    続く

    さぁて、いよいよクライマックスです!

    ということで(文章に脈絡なし)。次章から書き下ろしが入る予定です。本として発行した時に書ききれなかった部分が結構ありまして…。その部分の補正を、ということなんですが、丸々一章分ぐらい追加になるかも(汗)

    あ、でも話の筋そのものは変わりませんので!(当たり前だって…大汗)

    それでは次回をお楽しみに〜〜。

    今回の蛇足の草鞋。

    名前の読み方の追加。

    『夏泊真琴』は『ナツドマリ マコト』

    『殿村恵梨』は『トノムラ エリ』です。

    え?そんなことわかってた?

    どうも失礼致しました〜。