木漏れ日のキス

 

 見慣れた景色がゆっくりと窓の外を流れていく。

 通い慣れた湾岸署から本庁への帰り道。

 管轄内で起きた強盗殺人事件も犯人の出頭により解決し、その後の裏付け捜査もようやく

終わった今日。室井にとっては実に一ヶ月ぶりの定時帰宅であった。 

 事件解決までの張り詰めた日常。少しのミスも許されない常に緊張を強いられていた毎日は、

室井の神経を限界まで高ぶらせ、過剰なまでの仕事に対する充実感を与えたと同時に、本人の

気付かない精神的な疲労をも与えていた。

 事件解決の達成感と同時に感じる虚脱感。神経の高揚と疲労。満足な睡眠すら与えられなかった

体は、本人の意思を離れ、手にした書類を捲る事さえ放棄しようとする。

 整然と並んだ字を追う目も頭脳も満足に機能せず、先程から同じページの同じ行を何度も

機械的に追っているだけであった。

 溜息をついて書類を閉じ、車の後部座席に身を沈めたとたん、初めて自覚する。

―疲れた・・・な。

 流れる景色を視界の端に捉えながら、ゆっくりと瞳を閉じる。

 心の疲労を自覚した時から始まった肉体の疲労。体の奥から鉛のように重い疲労が全身を侵略

して行くのを感じる。

 このまま目を閉じて眠れば多少なりとも回復するのであろうが、中途半端に高揚したままの

神経は眠ることさえ許してはくれない。

 眠ることも休むことも出来ない。

 余裕をなくした心が体を弱らせ、疲れきった体が心から余裕を無くしていく。

 終わることの無い悪循環。

―本当に・・・疲れた。

 室井は眠れぬまま、静かに瞳を閉じた。

 

 

 腕を組み眉間にしわを寄せ瞑目する室井を乗せ走りつづける自動車。と、そのエンジンが

止まった。

「・・・?」

 無意識のうちに体が覚えた湾岸署と本庁の距離はまだまだ先のはずである。不審に思った

室井が眼を開け窓の外に目をやると、案の定そこは見覚えの無い場所であった。

「・・・おい、一体どうし・・・」

「すみませ〜ん。エンジン壊れちゃったみたいです」

 室井の問いかけを遮ったのは、本日の運転手を勤める青島の、明るく暢気な声だった。

「まいっちゃったなぁ。ここのところ聞き込みだ裏付けだって、散々働かせてたから、

すっかり旋毛曲げちゃったみたいなんですよ。あ、でもちょっと休ませればまた元に戻ると

思いますから・・・」

 と、まるで口をはさむ隙を与えずに一気に捲し立てる。そうして呆気に取られたままの

室井を余所に、さっさとパーキングエリアに車を止めそのまま降りてしまった。

「・・・お、おい!あおし・・・」

「室井さんも、降りてきませんか?外、すっごく気持ちいいですよ!」

 長い手足を思いっきり伸ばしながら、明るい太陽の下で大きく伸びをする。大型の猫科動物の

ようなしなやかなその姿に思わず見惚れてしまう。

 何気なく振り向いた琥珀の瞳と室井の視線が絡まった。

 頭上から降り注ぐ太陽の光を凝縮したかのようなその瞳。

 初めて目にした瞬間より、室井を捕らえて離さないその瞳が笑う。

「ね、降りてきませんか?少し一緒に、歩きましょう」

 降り注ぐ陽射しと鮮やかな笑顔に誘われるまま、室井は外へと踏み出した。

 静かな公園の散策路。背の高い広葉樹の下を、青島と二人歩く。

 仕事のこと。趣味のこと。日常のこと。

 他愛も無い話をしながら木漏れ日の下を一緒に歩く。

 時には室井の前を、時には室井と肩を並べて歩きながら、楽しそうに語る青島の姿に室井の

顔にも笑顔が浮かぶ。

 気を許した相手との何気ない会話と愛する者の笑顔。穏やかな時間が室井のささくれ立って

いた神経をゆっくりと癒していく。

「座りませんか?」

 少し先を歩いていた青島が振り向く。彼が指差した先にあったのは、古い木製のベンチ。 

一際大きな楡の木の下で、大人二人が座れば一杯になってしまうような小さな小さなベンチが

ひっそりと佇んでいる。

 小さく頷いた室井を見て、嬉しそうにベンチに駆けて行く青島。たどり着いた木の下で、

室井に向かって手を振っている。そんな幾つになっても子供のような彼に笑顔がこぼれた。

「でもホント、良い天気っすよね。梅雨入りしたなんて嘘みたいですよね!」

「梅雨入り?」

「そうですよ・・・って、室井さん知らなかったんですか?」

 肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に並んで座った青島が、不思議そうな顔で室井を見る。

「・・・知らなかったな」

 厚い壁に閉ざされた空間で、数々の捜査資料と報告書と格闘していた毎日。日々移り変わる

季節や窓の外に広がる景色を見るゆとりすら失っていた。

「そんな余裕、無かった・・・な」

 楡の葉越しに広がる青空を見る。一ヶ月・・・いや、それ以上、久しぶりに見上げる青空。

 かすかな湿度を含んだ風が、夏の色に変わった空を渡っていく。

 風に誘われるままにベンチを立ち、木の周りをゆっくりと歩く。

 微かに湿った木肌に触れ、硬い樹皮の下に流れる命を感じる。

 風に鳴る葉擦れの音。鳥の声。木々に集う小さな虫達。

 四角い箱の中では、決して見ることが出来ないもの達。

 忘れていた遠い昔。幼い子供の頃、故郷で何時も身近にあった風景の欠片。

「偶には良いでしょ?こういうのも」

 楡の木に凭れ、空を見上げている室井に青島が声をかける。

 体を捻り、ベンチの背凭れ越しに室井を見上て来る無邪気な瞳と目が合う。

「ああ。・・・なかなか良いもんだな」

「元気・・・出ました?」

「え?」

 どこか心配そうな上目遣いの瞳。そして悟る。

 ああ、そうか。だから彼は・・・。

「室井さん・・・?」

「ああ、少し元気になったかな」

「・・・少し、ですか・・・」

 室井を見上げていた瞳に、微かに混じった不満。だがそれもほんの一瞬のことで。

 次に室井を見詰めていたのは、まるで悪戯を思いついた子供のような・・・。

「どうした?」

 室井の問いに、にっこり微笑んだ青島がちょいちょいと手招きする。

「・・・?」

 首を傾げながらも、誘われるまま青島のもとに行く。

 背凭れに組んだ両腕を乗せ、その上に顎を乗せた子供のような姿勢で室井を待つ青島。

「一体どうしたんだ?・・・あおし・・・ぅわっ?!」

 室井が青島のそばに立ったそのとき、ふいに伸ばされた彼の手が、室井のネクタイを

思い切り引っ張った。

 思わずバランスを崩し前に倒れこむ室井。

「おいっ!何を・・・!」

 何とかベンチに手をつき転倒を免れた室井が抗議の声を上げようとしたが、その声は青島に

よって阻止された。

「・・・!!」

 倒れこんだ室井の頭をさらに抱きこむように伸ばされた腕。抗議を上げかけた唇をそっと

塞ぐ彼の唇。

 木漏れ日の下で、交わされる口付け。

「・・・・・・」

 重ね合わされただけの口付けではあるが、それは室井のすべてを受け止め、しっとりと

包み込むような優しく甘い口付けだった。

 どれくらいそうしていたのだろうか。やがて、名残惜しげに離れるお互いの唇。

 瞳を開けた室井が見たものは、にっこりと微笑を浮かべた青島の顔。

「元気、出ました?」

「あおしま・・・?」

「前にね、すみれさんが『青島君が居るだけでみんな元気になるようなきがする』って

言ったことがあったんですよ。俺がみんなに元気を与えてるって。だからね、室井さん

にも俺の元気分けてあげようと思って。・・・どうです?元気出たでしょ?」

 まるで悪戯っ子のようにそういって笑う。

「この、ほんじなすが・・・!」

 くすくす笑う青島の額を人差指で、軽く弾く。

「痛いっすよ!もう!!」

 抗議を上げる青島の唇を、今度は室井の唇がそっと塞ぐ。

「・・・むろいさん?」

「でも、おかげで元気が出た。・・・有難う」

「・・・!」

 室井の柔らかな微笑みと言葉に、青島の顔が一気に赤くなる。

「そ、それじゃ、そろそろ行きましょうか!」

 真っ赤になったまま、あたふたと慌てて歩き出す彼が可笑しくて可愛くて。

「もう!なに笑ってんですか!!置いて行きますよ!」

「ああ、済まん済まん」

「ああもう!まだ笑ってるし!!」

 室井は、久しぶりに声を上げて笑った。

 

 

 ここに来た道をもう一度二人並んで歩いて帰る。

 来る時には気付かなかった道の両脇の紫陽花が、薄緑の花を淡い青へと変え始めている。

 二人の目の前を一羽のツバメが通り過ぎていく。

「もうすぐ、夏なんだな」

「・・・はい」

 二人でもう一度空を見上げる。

 青い空に浮かぶ白い雲。

 何処までも果てしなく広がる空。

 いつまでも、二人並んで見つづける。

 いつまでも。

 ずっと、ずっと・・・。

 

 暑い夏が、もうそこまで来ているー。

おわり

如何でした?すぐにみつかったでしょ?(^_^;)

なかなか見つけられなくて苦労された方は

ごめんなさい。

イラストのイメージがぶっ壊れたという方も

済みません;;

わはははははは。

……。

に、逃げよう…≫≫≫≫