彼岸桜
「…そうか、自供したか!…いや、御苦労だったなあ…。これでやっと…。ん?何でもねぇや。………ああ、しばらくはのんびり隠居じじぃでもやってるよ。…おう!お前ぇもな。…じゃあ、またな」
深呼吸をひとつして受話器を置く。
自分と同じく、長年働いてきた黒電話がたてたベルの音も、いつもより心なしか弾んで聞こえた。
縁側に出て、閉めていたガラス戸を開ける。吹き込んでくる風もここ2、3日でずいぶん暖かくなった。東京の空の下にも確実に春の気配が漂ってきているようだ。
そろそろ庭に並べた盆栽の手入れをしてやらねぇと。この1ヶ月殆どほったらかしだったから姿勢が悪くなっちまってる。後、ばぁさんに頼まれた納戸の修理も…。
これじゃあ、ほんとに隠居じじぃだな。
しばらく縁側に腰掛けてぼんやりしていたが、先程の電話を思い出して苦笑する。
受話器の向こう側から聞こえてきた、活気に溢れた雑多な音。
賑やかというより、騒がしいというほうが相応しいかも知れねぇが。
こうやって、時折通る車の音以外ない縁側にいると、あの騒音の中に身を置いていたのがずいぶん遠い昔の様に思えてきた。
だが実際は、ほんの数日前の事だ。
ほんの数日前までは確かにあの中に居て、毎日を過ごしていた。
なのに、なんでこんなに懐かしいのかねぇ…。
「…出掛けるか」
ひとつ息をついて立上がる。
このまま1日隠居じじぃをやっているのも悪くはなかったが、何もせずに1日過ごすのは、やはり勿体無ねぇ。それに。
あいつに報告してやらねぇとな…。
春の風が、庭木の梢を渡って行く。
忘れられない心の痛みが微かに痛んだ。
…あれから6年。
長いようで、それでいてあっという間の6年だった。
振り返ればその思い出はいつも鮮やかによみがえり、俺の胸の中から決して消える事はなかった。
通いなれた道。あの日から一体何度ここに通ったか忘れちまった。
途中の花屋で適当に買った花を手向け、持参した線香に火をつける。
立ち上る煙は、雲ひとつない彼岸の空へと吸い込こまれて行く。
煙の向こうにはあいつが眠る、墓。
「すっかり遅くなっちまったなぁ…」
灰色の御影石を見つめながら眠るあいつに語り掛ける。
「ずいぶん待たせたが、ようやく終ったよ。…今日あの男がすべて自供したってさ。お前を殺ったことも、何もかも全部、な」
語りかけながら、脇においていた包みに手をかける。包みの中には、上質の和紙に包まれた大吟醸の4合瓶。
「おめぇは、どっちかってぇと酒は苦手な方だったが、まぁ今日ぐらいは付合えや」
そう言って栓を開け、そのまま墓石にかけてやる。酒は灰色の墓石を黒く濡らし、風に乗って辺りに芳醇な香りを振り撒いた。
酒をすべてかけ終わり、再びあいつに向かって手を合わす。
執念で追い続けた犯人を逮捕したあの日、俺の刑事人生も終った。正直、少々疲れた。ずっと張り詰めていた糸がぷっつりと切れちまった感じだ。退職後の仕事について、友人がいろいろと便宜を図っているようだが、今はまだ何もする気が起こらない。
今の俺はまるで抜け殻みたいなもんだ。一杯に詰まっていた中味は全部、あそこにおいて来ちまった…。
「…すみませんが、お身内の方ですか?」
思考に沈み込んでいた俺に誰かが声を掛けてきた。
振り返ると、俺と同じぐらいの年齢の男。
どちらかといえば小柄な体格。少々薄くなった白髪頭に飾り気のない服装。銀縁眼鏡の奥の瞳は、年齢と経験を重ねた者だけが持つ穏やかではあるが強い瞳。初めて見る顔だった。
「いや。俺は昔、彼とは職場の同僚だった…」
「ああ!じゃあ刑事さん?」
「え、ええまぁ。刑事、だったというのが正しいんですがね」
「だった?」
「ついこの前退職したばかりで。今はしがない隠居じじぃですわ」
「そうでしたか。私も去年、長年勤めていた教職を退職しまして、今は八王子の児童相談所でケースワーカーの仕事をしております」
元教師、ということは…?
「…彼は高校の教え子でした」
「…そうでしたか」
元教師の男は俺と同じように持参した花を墓前に捧げ、線香に火をつける。
並べて立てられた線香の煙は、風によって一つに縒られ、空へと運ばれて行く。
「…ニュースで犯人が捕まったって聞いたよ。良かったなぁ。これでやっとお前も静かに眠れるなぁ」
ここにもずっと事件を引き摺っていた人間がいた。
犯人が逮捕され事件が解決しても、あいつはもう帰ってこない。
事件の記憶も消えることはないだろう。
だが、静かに語り掛けるその声を聞きながら、今確かに長かったもう一つの6年間が終ったことを知った。
墓参りを終え、二人で肩を並べて歩く。話題は自然とあいつの事になる。
刑事になったばかりの頃の事。はじめて一緒に捜査した時の事。
人は良いが要領が悪くて、恋人が出来ないとぼやいていた事等々。
「…学生時代はいつも無茶な事ばかりして、いつも誰かに怒られてましたよ。正義感が強く て、ケンカの仲裁に入ったのはいいが逆に相手を殴り倒して補導されたりとか。とにかく手の掛かるやつでした」
「あいつらしいや」
「だから、進路指導の時彼が『警察官になる』と言い出した時、最初は驚いたものの『ああ、やっぱり』と、納得したりしました。こいつならきっと立派な警官になるんじゃないかってね。だから反対していた両親の説得も引きうけて、できる限り彼の夢に協力したんです」
「……」
だが結果として、あいつの夢は、人生と共に半ばにして終りを告げてしまった。
「…彼の殉職の知らせを聞いた時、正直後悔しました。何故反対しなかったんだろうか、彼を死なせてしまったのは自分じゃないのかって。このまま教師という仕事も辞めてしまおうかと思いました」
あの時の事を思い出す。
―逮捕の時は気をつけろ。
刑事にとって何が一番危険なのか。そのことを教えなかったばかりにあいつは死んだ。
…俺の目の前で。
俺もあの時同じ事を考えた。あいつは俺のせいで死んだ。そんな俺に刑事をやっている資格はないと。
だが、俺は刑事を辞めなかった。あいつを殺した犯人を逮捕するまで辞められなかった。
それが刑事として、あいつに対する詫びの仕方だと思ったから。
「でも、先生は教師を続けられた。それがあいつの死に報いる事だと考えたからでしょう?」
「…ええ、そうです。もしここで私が辞めてしまったら、今までの彼の人生を否定する事になると。彼が正しいと思い追い求めた夢を否定する事になると思いました」
初めてあいつに会ったとき、子供みたいな顔をして「俺、皆の役に立つそんな警察官になりたいっすよ」といっていた。現実を知ってからもへこたれず、いつも理想の為に頑張っていた。
「いま私は、児童相談所に勤めています」
「ああ、先程ケースワーカーのお仕事をされているとか」
「はい。すこしでも彼の役に立てられればと…」
「あいつの?」
「犯罪が起こったとき、その危険な現場に立つのは警察官の仕事です。だからせめて、その犯罪が起こらないような社会を作るのが私たちの務めではないかと考えたんです」
なんて、ちょっとおこがましいですね、と照れた様に頭を掻く姿があいつと重なった。
「しかし、大変なお仕事なんでしょうなぁ」
「ええ。でも、やりがいのある仕事です。それに、最近少年犯罪が増加して、近頃の子供はわからないとか、いまの子供は昔とは違うという言葉をよく耳にしますが、私は子供というものは今も昔も変わっていないと思います。泣いて怒って些細な事にも大笑いしたり。子供の本質は変わっていません。…変わったのは世の中の方です。古い価値観が否定され、新しいものにとってかわり、その新しいものもあっという間に古いものになってく。そんな世の中に子供たちは振回されているだけなんです。何が正しくて間違っているのか大人ですら困惑する世の中で、子供たちは戸惑って自分を見失っているのではないかと。そんな子供たちを時代に流される事なく自分の足で歩けるように育てて行くこと、それがわれわれ大人の務めではないでしょうか」
強く曇りのない瞳。小柄な体が大きく見える。圧倒された。
現役を退いてもなお、最前線に立つ男がここに居る。
「…確かにそのとおりですな。俺も隠居している場合じゃなさそうだ。」
「そうですよ。まだまだ人生これからです。若い奴等にはまだまだ負けていられませんよ」
その笑顔が再びあいつと重なる。
―抜け殻になるのは、まだまだはやいっすよ―。
ふと、懐かしい声を聞いたような気がした。
「どうしました?」
「いや。なんでも…」
背後を振り返っても勿論、誰も居ない。だが、さっきの声はけっして空耳なんかじゃなかった。
墓地の入り口で先生と別れてから、寺の境内を散策してすると、淡紅色に染まった木が目に飛び込んできた。
春まだ早いこの時期に咲く小さな花。
「…彼岸桜、か」
木漏れ日に透ける淡紅色の花びらを眺めながら、先程の出会いを思い返してみた。
もしかすると、あいつが逢わせてくれたのかもしれねぇな。
気の抜けちまった俺に活を入れるために。
家に帰ったら、友人に電話してみよう。誘いのあった警察学校の件はまだ空きがあるだろうか。もし空きがなくても、他に何か俺に出来る事があるかもしれない。
これから何があるかは判れねぇが、人生諦めるのはまだ早すぎる。
そうだよな?
帰り際、もう一度振り向いて見た彼岸桜の木の下。
笑っているあいつの姿がみえた。
『知ってます?警察官は子供たちのヒーローなんですよ…』
終
和久さん編です。
「火サス」の長さんがあまりにも渋くてカッコ良かったので、突発的に書き出したものの、あまりの難産に途中で投げ出したくなりました;;;
やっぱ、年齢を重ねた大人を書くのは難しいっす(溜息)
人生薄っぺらなでんでんむしでした。