*  宝箱の中の指輪


 子供の頃、私は一人で本を読むのが好きな少女だったらしく、親は子供向けに書かれた絵本をいろいろ買ってくれた。中でも好きだったのが、アンデルセン童話だ。「マッチ売りの少女」「親指姫」「人魚姫」など、誰でも知っている童話ばかりだったが、何度も繰り返して読みながら、空想にふけっては、自分が主人公になったような気持ちになっていた。

 普通は、こうやって育っても、そのうちアンデルセンのことも忘れて、いつしか忙しい大人になっていく。実は、私もそうだった。
 ところが、あるとき、かつて子供のときに読んでいたものが急に取り戻したくなって、ひさしぶりに本を揃えてみようという気になった。これは、私だけだろうか。「昔話のあの話は、正確にはどういう話だっただろうか」、もう思い出せなくなっている自分に気づいて、ちょっとそのへんの記憶を取り戻したくなったのだ。
 アンデルセンの作品は、文庫にもなっているから、たやすく手に入るが、自分が子供のときに読んでいたものと同じだったかというと、そうではないかもしれない。しかし、あの話はこういうものだったのか、という懐かしくも新鮮な驚きがあって、これはこれで、とても楽しいものだった。

 たとえば、『絵のない絵本』の第二夜のめんどり小屋の話。これは、子供向けには、独立した話として読んでいたので、あとでそれが『絵のない絵本』という作品の一部だったと知ったときには、ちょっとした発見をしたような気分だった。

 一番面白かったのが、子供のときに読んだそのままの本を、古本屋の目録で見つけて手に入れたことだ。講談社から子供向けに発行されていた絵本で、『白鳥の王子』というタイトルがついている。
 昔、ある国で、11人の王子とエリザというひとりの王女がなかよく暮らしていたが、あるときおきさきが死に、新しく来た魔法使いのおきさきによって、11人の王子が白鳥の姿にされてしまい、帰ってこない王子たちをエリザが探しに出るという話だ。夜の間だけ王子たちは人間の姿にもどって、エリザを運ぶハンモックを作り、昼間白鳥の姿のときにそこにエリザを載せて、くちばしでそれをくわえながら飛ぶとか、海を飛んでいるうち夜が来て、人間に帰った王子たち11人とエリザが、小さな岩の上で嵐に耐えたとか、今思うと、とっぴな話なんだが、子供心には、はらはらさせられるものがあったのか、なぜかこの物語には、強い印象がある。夢に出てきた天使に、「王子たちを助けるには、いらくさという草で、11枚のかたびら(ベスト)を編みなさい。ただし編み終わるまで、口をきいてはいけない」と告げられたエリザは、そこからひたすらとげの痛みに耐えて、いらくさを編む。この「いらくさ」という言葉は、この話を読んで覚えたものだ。編んでいるうち、いらくさが足りなくなったが、それは、魔女が住むという墓場に行かなければ、手に入らない。こっそり夜にその場所を訪れていらくさをつんでいると、魔女に間違えられ、牢屋に入れられてしまった。それでもエリザは一言も語らずいらくさを編み続ける。明日はエリザの処刑の日というときに、やっとかたびらが完成して、処刑のため運ばれる車の中からそのかたびらを飛んできた11羽の白鳥の王子たちに投げかけると、ついに魔法が解けて、白鳥は王子の姿にもどり、エリザもやっと口をきいて、無実を伝えることができた。そういう話である。
 この古い絵本をよく見ると、「宇野千代先生」が書いたものとなっている。なんと、あの宇野千代さんの文で私は読んでいたのかと、ちょっとした驚きだった。記憶にない事実が浮かぶのもまた、面白い。

 これらの多くの童話は、今の自分の心にそのまま響くわけではない。懐かしさや、構成の面白さに興味はひかれても、その話自体が好きかというと、そうでもない。
 しかし中には、逆に、今読んでみて、かつて思っていたより一層大好きになった作品もある。それは、「錫(すず)の兵隊」という作品だ。私が読んだ岩波文庫では、「しっかり者の錫の兵隊」というタイトルになっていた。

 ある坊っちゃんの誕生日のプレゼントにと、古い錫の匙を溶かして作った25人の錫の兵隊さんが、テーブルに並んでいる。その中で、一人だけ皆とちがって一本しか足がない兵隊さんがいた。それは、一番最後に作られたので、型に流し込む錫の量が足りなくて、そうなってしまったのだ。しかし、その一本の足でも、皆に負けずにしっかりと立っていた。
 同じテーブルの上には、別のおもちゃもいろいろ並んでいて、一番目立っていたのが、紙でできた美しいお城だった。そのお城の入り口には、紙を切り抜いて作った一人の娘さんが立っていて、両手をひろげ、片足を上げていた。娘さんは踊り子だったのだ。明るい色のリンネルのスカートに、細い青いリボンを肩の上にひらひらさせ、そのリボンの真ん中には、金モールの飾りがきらきら光っている。
 一本足の兵隊さんは、自分と同じように片足で立っているその美しい娘さんに心ひかれ、ずっとそちらをみつめてばかりいた。夜、家の人が寝静まって、おもちゃたちが遊んで大騒ぎする時間にも、ふたりだけ、その場所をずっと動かずにいた。
 ところが、あくる朝、その兵隊さんは、なぜか窓ぎわに立たされ、窓が開いた拍子に、4階からまっさかさまに地面に落ちてしまった。そこから、その兵隊さんの奇妙な旅が始まる。
 わんぱく小僧に見つけられ、紙のボートに乗せられてどぶの中を流され、どぶ板の下でドブネズミに追いかけられ、今にも流れが滝にのみこまれようとする瞬間、沈むボートの中で、兵隊さんは、あの美しい娘さんのことを思い出した。するとこんな声が聴こえてきた。「さよなら、さよなら、兵隊さん!あなたは死なねばならないの?」
 その時、紙がまっぷたつに裂け、水の中に落ちたとたんに大きな魚がやってきて、がぶりと兵隊さんを飲み込んだ。しばらく泳ぎ回っていた魚が、そのうち大きくあばれまわったかと思うと、突然ピカッと稲妻のようなものがひらめき、明るい光がさした。「まあ、錫の兵隊さんだわ!」という声とともに、兵隊さんは、もといた家の台所に帰ってきていた。漁師にとらえられ、市場で買われた魚が、料理されて、腹を開かれたところだったのだ。
 もといた部屋にもどると、あの娘さんの姿もあった。おもわず涙がこぼれそうなくらいに心うたれた兵隊さんだったが、何を思ったか、その家の小さい子供の一人が、いきなり兵隊さんをつかんで、ストーブの中にほうり込んでしまった。なにも、そんなことをされるいわれはないのに。
 このあとの最後のところが、特に私の好きな部分だ。ここは、そのまま引用しておこう。
「錫の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれども、それが、ほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸の中に燃えている愛のためなのか、はっきりとはわかりませんでした。美しい色も、もうすっかりはげてしまいました。それが旅の途中ではげたのか、それとも悲しみのために消えたのか、それはだれにも言うことができません。兵隊さんは、可愛らしい娘さんを見つめていました。娘さんも兵隊さんを見つめていました。その時兵隊さんは、自分のからだがとけて行くのを感じました。それでもまだ、鉄砲をかついだまま、しっかり立っていました。その時、ふいにドアがあいて、風がさっとはいって来て、踊り子をさらいました。娘さんはまるで空気の精みたいに、ひらひらとストーブの中の錫の兵隊さんのところへ飛んで来ました。そして、めらめらと燃え上って消えてしまいました。錫の兵隊さんもその時は、もうすっかりとけて、小さなかたまりになっていました。」(注)
 あくる日、お手伝いさんがストーブの灰をかき出すと、灰の中には、ハート型をした小さな錫のかたまりがあった。一方、踊り子の方は、金モールの飾りだけが残っていて、それは真っ黒にこげていた。

 悲しい結末のようで、なぜか胸が痛くなるほどに、純粋な思いがいとおしく思わせられる終わり方だと思った。

 古い物語のもつ哀愁には、小さな宝箱の中の古いおもちゃの指輪のような懐かしさがある。
 皆さんも、機会があれば、ぜひそれを味わってみてはいかがだろう。


 注 : 『完訳アンデルセン童話集(一)』(大畑末吉訳)岩波文庫より引用



□ 2002年08月02日
(矢島瞳)