<hikkiの森>宇多田ヒカルの世界

* 光  - 2 -


 今回は、「光」という作品を、歌詞、および言葉の面から見ていこう。

 「光」の歌詞は、とにかくストレートな表現が特徴的だ。「きっとうまくいくよ」「未来はずっと先だよ」など、会話口調になっている部分は、これまでのどの宇多田ヒカルの歌詞よりも、やさしく、直接ハートに飛び込んでくる。ここは、光のぬくもりを感じさせる。一方で、「暗闇に光を撃て」「運命の仮面をとれ」など、強い命令口調の部分もあって、ここは、鋭く差し込む光線を思わせる。

 歌詞については、「光」のプロモーション時の雑誌のインタビューで、次のように話している。少し長くなるが、重要な部分なので、引用しておく。

 「歌詞はね、「traveling」のときも『平家物語』からの抜粋があったりしていろいろやってるんだけど、「光」のほうが冒険的というか・・・実験的というか。今の時代ってそういう詩的なものとか、くさいこととかを言っちゃえる時代じゃない?ポップスっていうか、音楽でしか今みんなに届く言葉の発信地がないような感じがして。本来なら政治家の言葉がとか親の言ってることとか学校の先生とかいろいろあるはずなんだけど、なんか今ちょっとそのへんの電波がイマイチ悪くて。(苦笑)で、そういう言葉の発信地でいうと、昔みたいに詩人がいて詩を詠むっていうのもあんまりないし、小説もエッセーっぽいものはたくさん売れるけど、昔みたいに純文学でホントに言葉だけで伝えるっていうのも、今はそんなに売れないのかなぁとか、そういうことをいろいろ考えていたら・・・。以前は私も歌詞なんだしとか自分で歌うんだし、照れくさいしとか思って、じゃあここは、語尾を濁そうとか、あんまりくさいことを言うのはよそうなんてやってたんだけど、逆に今はそういうのが気取りに思えて・・・。で、ストレートにシンプルでまっすぐ強く提示してもいいんじゃないか、と。それが劇的でもドラマティックでも、恥ずかしくないじゃん別に、逆に歌詞なんだからできるんだしと思って・・・。「光」のコーラスの部分なんて、単純にまっすぐだけど、ま、普通に語ったらさ、“く、くせえ”みたいな感じだけど、いいかと思ったのね。で、逆にほかの部分では日常的な“家族に紹介するよ”とか“今日はおいしいものを食べようよ”とか、そういうことを言ってみたいなぁって・・・。」(注1)

 かつての自分について、彼女はこう語っていたものだった。「今までは日本語の歌詞の歌い方ってのがよくわからなくて。それまで日本語の歌をあんまり聴いてなかったから。日本語で深〜い話を書くとすごいしんみりする気がして。」(注2) 今、歌詞でしか言えないことを、照れくさいとは思わずに言ってみよう、ごく日常的な言葉も取り入れてみよう、と考えるようになっているとしたら、それは、彼女が時間の流れの中で、「日本語」というものへの理解と愛着を、自然と感じられるようになっていることのあらわれであろう。そして、それは、かつては英語でしか歌を作ったことのなかった少女が、日本人としての自分と向き合う時間でもあっただろう。

 「だからクサイ部分にせよ、日常的なところにせよ、全部、会話でも言えるような口調でもいいや、そのほうがこの歌にはあってるなと思って・・・。句読点も初めて使ったんだよね。」(注3)
 「光」では、5行目の「突然の光の中、目が覚める」のところで、初めて歌詞に句読点を使っている。CDの歌詞カードの表記は、縦書きで、フォントも明朝体になっている。日本語という言葉への親しみと関心が、このようなところにもあらわれているようで、興味深い。

 さて、「光」は、2ndアルバムおよび「FINAL DISTANCE」とは、どうつながっているだろうか。
 2ndアルバムの『Distance』では、あえて、他者との距離を大事にしながら、「自分」というものを確認する視点があった。その意味では、2ndアルバムの果たした役割は大きい。「光」は、影の部分がなければ存在し得ない。つまり、2ndアルバムでの「孤独」と向き合う作業がなければ、「光」以降につながる流れは、決して出来なかったにちがいない。過去に孤独と向き合ってきたからこそ、今、「光」において、ストレートに自己を表現できるのである。

 「実は「traveling」と「FINAL DISTANCE」の間にあったミッシングリンクが「光」なんですよ。」「この「光」の始まりの部分って、主人公の私は熟睡してるのね、真夜中に一人で。で、次のシーンでは目覚めて起き上がって動き出してる・・・。だから、「traveling」に繋がっていったのかなあって。」(注1)
 ミッシングリンクとは、進化論でいう、類人猿と人間の中間にあったと想像される生物のことらしいが、「光」が、2ndアルバムの流れを完成させた「FINAL DISTANCE」とその後の新しい作品「traveling」をつなぐ存在だということは、重要なポイントである。3rdアルバムに「FINAL DISTANCE」が収録されているのも、2ndアルバムから引き続いての自分というものを、出発点として強く意識してのことであろう。
 3rdアルバムでは、「FINAL DISTANCE」と「光」との間に1stアルバムからスタイルを変えてずっと引き続いてアルバムに収録されている「Interlude」によって“橋”が架けられている。この橋の意味を考えながら聴く時、感動はさらに深まる気がする。

 「冒頭の部分は、映画とか小説でいったら、序章というかんじで考えて」(注6)と語るとおり、「光」には、物語性がより強く感じられる。「君」「私」「僕」など何人かの登場人物の思いが登場するが、どのキャラクターも、「みんながそれぞれお互いにとっての“光”」(注6)という関係になるのだという。それぞれが照らしあう存在であるという考え方は、恋人同士に限らず、世界中のあらゆる関係についても言える。
 「一対一のつながりをできるだけたくさん持てればいいなって思ってる。」(注7)と考える彼女にとって、互いに光によって照らし合う関係が、今世界に広がりつつある闇を解きほぐす鍵にも見えているかもしれない。

 「光」という作品は、宇多田ヒカルのどんな部分が出たと思う?と聞かれて、彼女は「私・・・。私そのもの。」(注1)と答えている。

 今回、「自分」というものを強く意識したことは、ジャケット写真や、ビデオクリップの撮影にも生かされていて、その撮影に使われた場所は、どちらも、彼女が実際に曲を作るときに利用しているプライベートルームだ。「ジャケットの左側に後ろのほうにガラス越しに機材がちらっと見えてる部屋が映ってて。私がいつも曲を作ってる部屋がそこなんだよね」(注4)

 「光」は、彼女の本名の「光(ひかる)」と同じ漢字一文字をタイトルに与えられているが、それは最初から狙ったものではないという。歌詞の中の「光」という単語も自然と出てきた言葉だったらしい。「歌詞をほとんど書き終わったときだったかな、出来上がった歌詞を客観的に見たら、タイトルとしてピックアップできる言葉だったんだよね」(注4)
 「本当にやりたいことを自然に、まず出てきたものを、まんま実現させちゃったのね。どこでもブレーキもかけず、ストップもかけず、で」(注6)
 そうやって作り上げた作品に自身の「名前」を与えたことの意味は、実に大きいものだったにちがいない。  この曲からうける、純粋な感動は、このような作品の成り立ちからくるものでもあるだろう。ここでは、「素の自分」がそのままメロディーや言葉となって輝いているかのように思える。

 注1 : 「Gb」2002年5月号
 注2 : 「WHAT's IN?」2001年4月号
 注3 : 「TVガイド」2002年3月16日―3月22日
 注4 : 「PATi PATi」2002年5月号
 注5 : 「WHAT's IN?」2001年12月号
 注6 : 「MUSIC CREATOR」2002 april・may
 注7 : 「non-no」2002 February No2・3



□ 2002年06月15日
(矢島瞳)