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| <hikkiの森>宇多田ヒカルの世界 * Deep River 「Deep River」は、サードアルバム収録曲の中で一番最後に完成した。 「自分らしく」生きていく強い決意を歌った、重要な曲だ。 サードアルバム『DEEP RIVER』の本人解説で、宇多田ヒカル自身はこう語っている。「コテコテのバラードだけど、タイトルにも決まるぐらいとても入魂の一作で、いちばん最後に出来た曲なんだ。すごく頑張った歌詞で、ギリギリの、ほんと崖っぷち、端っこで頑張ったんだけど、そのぶん良い歌になったと思うから、聴いた人が、いろいろ思える歌だと、いいな」(注1) アルバムタイトルにもなった「Deep River」という言葉のイメージについては、「誰でも入れるような太い川」で、「それが収録されている曲の幅でもあり、私自身の幅でもあったり」するような「デカイ川」だと話していた(注1)。 多くの人に愛され、しかもどのジャンルにも属さない「自分」の音楽を追求したのが、サードアルバム『DEEP RIVER』なのである。 アルバム制作途中の2002年4月上旬には、宇多田ヒカルが体調不良を訴えるというアクシデントに見舞われた。4月10日に急遽手術をおこない、その一週間後にはレコーディングに復帰するというハードなスケジュールの中、アルバム制作は続けられていた。アルバム曲のうち「プレイ・ボール」と「Deep River」は、手術後レコーディングされたものである。 2002年4月18日のオフィシャルHPのメッセージで、彼女はこのように書いていた。「アルバム作りねえ、まじで佳境です。22日にレコーディング全部終わらせないと、アウトです、間に合わなくなります。」しかし、22日の段階ではまだ完成しておらず、父親の照實氏がスタッフダイアリーで、レコード会社関係者に心配をかけていることを気づかったコメントを出している。 このあと、4月26日にアルバムタイトルが『Deep River』(当初はこの表記だった)と発表され、4月27日のオフィシャルHPのメッセージで、やっと歌詞と歌入れが完了したことの報告があった。この日のメッセージでは、「なんか体内から言葉を出し切ってしまったみたいで、言うこと全て言い放った、ようで、、、最後にタイトルソングの"Deep River"を書き上げたあとから、もうわしゃあ空っぽじゃ。私の言葉の森から動物が皆、巣立ってしまったようじゃ。」と語り、すべての力を出し切ったことを伝えていた。 今までならアルバムの歌詞カードの最後に“Special Thanks”というクレジットを入れるが、サードアルバムには、それがない。ディレクターの沖田英宣氏によると、「今回は歌詞で全部言い切ったし、やりきったから、あえて書かなくていい」と彼女は言ったそうである(注2)。 しかし、作品が完成しても、仕事はまだ終わったわけではない。作品の完成がずれこんだために、休養期間を置くことができず、レコーディングを終えたと同時にアルバムのプロモーションが始まった。28日には「HEY!HEY!HEY!」のテレビ収録、29日には、早朝から森山大道氏によるポスター撮影、夜までかかって雑誌二誌分の撮影取材、30日には「CDTV」と「うたばん」の収録・・・。その他ラジオ番組の収録などをこなしたものの、手術後の治療薬の関係で体調が整わず、5月5日、すべてのプロモーションのキャンセルを決定することになった。 このとき不本意にも仕事を休まなければならなくなったことの悔しさや、それに付随して起きた心理的な苦しみについては、宇多田ヒカル本人がのちにいろいろなところで語っている。プロのアーティストとしての自分の位置付けと、一人の女性としてのプライベートな時間のありかたについて、とことん考えさせられることになったようである。 こういった苦しい時期は、しかし、マイナスな面ばかりではなかったはずだ。このことが、彼女の人間性を深める助けになり、のちにまた次の作品を生み出すエネルギーへと変化していくことになったであろう。 実は、彼女の中では、この「Deep River」という曲自体が、そういった人生の様々な変遷の意味を追求した作品なのであった。雑誌(注3)の取材で、彼女はこんなことを語っていた。「この曲は最初からけっこう確信があって。途中で・・・これはアルバム全体としてもいえることなんだけれども、私の実生活でも、“これってやばくない?失敗になることじゃない?”とか、アクシデントとかハプニングみたいな、“えっ!?”と思う・・・悪いと思ったようなことが実はいいことに繋がって最終的に、“あぁ、なんだ。じゃ、最後にここで全部がうまくいくように逆にあの悪いことがあったんじゃないの?”と思えるくらい全部がきれいな流れのなかで出来てきて。びっくりというよりむしろ、“あぁ、やっぱりね”(笑)。そんな感じの曲で」 サードアルバムのスタート地点とも言える「FINAL DISTANCE」の時期にも、「色々ハプニングや失敗もあって、ほんとに完成させられるかすごく心配だったんだよね。でもなんとなんと!そういうことも全部、逆に歌がもっと良くなるきっかけとなっちゃってさ!」(注4)という同様のコメントを書いていた。同じ頃行われた作家の中上紀氏との対談(注5)でも「運命」や、「振り返って、辛い経験してよかったと思える強さ」について語っていて、興味深い。 締め切りぎりぎりにやっと間に合った形になったことについても、「その崖っぷちにいたからこそ「Deep River」が書けたし。のんびり、アルバム出来るまでいくらでも時間かけて、出来たら出せばいいじゃんみたいなノリだったら絶対これ出来てなかったな」(注1)と言う。順調にいかなかったことですら、自然ななりゆきの中で、最後には価値あるものとして意味をもつことになるというのである。 川の流れは、淀んだり急流になったりしながら、すべて海に注ぎ、その水が蒸発して雲になり、雨になって大地に降り注ぎ、また川の流れとなる・・・そういう大きな時間の流れの中で人生を考えてみた時、どのできごとにも意味があり、すべてが一つに結びついている感覚へとつながる。 自分ひとりの人生だけでなく、すべての生きもの、すべての存在が同じような流れの中に生きていて、その「ぶっとい川」の流れの中で他者とひととき同じ感覚を共有することが、彼女の願いだったのではないか。その一つに結びつく感覚こそ、「愛」というものであろう。「Deep River」の歌詞の中の「受け入れなくていい」と言った言葉のやさしさは、この愛の表現であるようにも思える。 シングルクリップ集『UH3+』におさめられた紀里谷和明監督によるPVは、「Deep River+」というタイトルになっていて、冒頭に宇多田ヒカル自作の散文詩の朗読が挿入されている。 監督が考えたこの作品のテーマは、「人の営み」であったという(注6)。それまでの監督のPVでも追求してきた「楽園」や「美しいもの」といったテーマを「人と人」とで表わしてみたらどうなるか・・・。その受け止め方は見る人それぞれのものだが、どの人にとってもそこで感じたものを心にとどめ、自分のものにしていくことで、「Deep River」という作品の世界につながっていける。 「FINAL DISTANCE」でアレンジの世界に目覚め、「自分」をより前面に出した形で制作されていったサードアルバムの一番最後に完成した「Deep River」が、「自分らしさ」をテーマにしていたことは、何よりも大切なところではなかったか。 サードアルバムの本人解説(注1)で彼女は、「Deep River」の歌詞の最後に考えた一行がなかなか出なかったことも明かしている。「コーラスのメイン部分の3行目」がこのアルバム全部の一番最後に出来た部分だというが、それが具体的にどこを指すかというと、宇多田ヒカルのオフィシャルライターをつとめる松浦靖恵氏によれば、・・・「与えられた名前とともに」という部分だということである(注7)。 「名前」というものは、すべての人が持つ。その一人一人が、存在価値を持ち、「自分らしさ」をみつけるべくこの世に送りだされた。 しかし、実際には、何者にも左右されずひたすら自分を追求するというのは、誰にとっても困難なことだ。それは、人生というのは、多くの人々とのかかわりの中で展開されていくものだからである。 自分と周囲との関係に注意をはらい、調和を保ち、よい影響を得ながら、「自分」を内側から開拓していくこと・・・それこそが、人生へのチャレンジであり、自分を生かす道なのだ。 「宇多田ヒカル」という、マーケットでの巨大なシステムとなった「名前」を背負いつつ、どのジャンルでもない「自分」の音楽を追求し続けることの重さ。そのことを思う時、この「Deep River」の歌詞の中の「名前」と「自分らしさ」という言葉に、格別の深い意味を感じずにはいられない。 2002年2月にアイランドデフジャムとの専属契約を果たし、今後は東芝EMIの邦楽アーティスト「宇多田ヒカル」とデフジャムの洋楽アーティスト「Hikaru Utada」の「共働き」の形となる。彼女は、つねに新しい自分の可能性を求めていけるよう、両者の間を「Sの字みたいに」(注8)活動していけたらと語っていた。 2002年度を締めくくる「第17回 日本ゴールドディスク大賞」の授賞式(注9)で、彼女はビデオ出演し、「Deep River」を歌った。その一年プライベートでいろいろあったことや、アメリカでの新しい活動にかける意気込み、そして、揺れ動く世界情勢への願い・・・そこにこめられた思いは、本人にしかわからないことだけれども、私たちは、その日彼女がその曲を選んだということの中に、何かを見ることができるのではないか。 その日のその歌を聴いた多くの人たちが感じたものは、まぎれもなく純粋なものに触れた感動であった。 注1:「WHAT's IN?」」2002年6月号 注2:「ザ・テレビジョン」2002 No.24 6.8−6.14 注3:「Gb」2002年8月号 注4:オフィシャルHPの2001年6月21日付けメッセージ 注5:「an an」No.1278 2001年8/17−24合併号 注6:オフィシャルHPの「UH3+」特設ページ掲載の紀里谷和明監督インタビュー(現在はGalleryのページのバックナンバーにある)参照 注7:「PATi PATi」第18巻第7号 2002年7月9日発行 注8:2002年7月15日付けでオフィシャルHPのNEWSのページに掲載のロングインタビュー(現在はGalleryのページのバックナンバーにある)参照 注9:2003年3月12日に発表・授賞式が行われ、宇多田ヒカルがアーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞した。 □ 2003年07月27日 (矢島瞳) |
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