長良川の憂鬱

 五月の連休最終日、私は岐阜市内の長良川でルアーを投げていた。

 釣れない。昨年三月以来サツキマスに出会っていない。河口堰工事が始まってからめっきり確率が落ちてしまった。

 忠節橋を渡った対岸の堤防の向こうでは、大きな電光の宣伝塔が「長良川河口堰は治水・利水に貢献します」という行政の宣伝を流していた。これも税金を使ってやっているのかと思うと気分がわるくなった。

 私の他にもう一人ルアーマンがキャストしていて、私に「釣れた?」と聞いてきた。

 彼とは昨年も長良川で会っている。彼は大阪のルアーマンで、春になると毎週のように長良川へとやってくる。一昨年はシーズンで18匹のサツキマスを釣ったといっていたが、昨年はたったの1匹、そして今年はまだ1匹も釣っていないという。

 この日もサツキマスには出会えなかった。昨年三月以来、釣行日数は三十日に近づいていた。

 連休中は連日晴天が続いていたが、連休が終わると同時に天候が崩れ、久しぶりにまとまった雨が降った。サツキマスは雨後の増水に乗って川を遡上するという。私はこの増水に賭けてみようと決めた。

 雨による増水が収まりかけた五月十日、私は夜明け前の長良川に立った。案の定、川はやや増水が残り、ささ濁りであった。

 さっそく、今まで実績のあったスプーン・バイトやマスターアングラーを投げてみる。

 アタリはない。

 足元のたるみで小魚が水面をとんで逃げるのが見え、その後にやや大型魚のものらしい波が立った。サツキマスか?

 しかし、何も起こらないまま日が上がり、気がつくと私の他にも三人の釣り人がサツキマスを狙って竿を出していた。こんな平日の早朝に大の大人が釣り竿かついでやってくる…、これが長良川なのだ。

 今日もだめか…、そう思いながらルアーを重いクルセイダーの17gに交換した。重いクルセイダーは正面にある流れのヨレを越えて飛んだ。

 三投目、ルアーが流れのヨレを横切ったときだった。

 きた。

 ロッドに荒っぽいノッキングが伝わってきた。強引な引きだ。

 ロッドをあおってポンピングして寄せる。岸から10mほどの水中に白い魚体が光った。サツキマスだ。

 あと数mというところで右手の岸から張り出しているボサの方へ魚は走った。7フィートのロッドを反対に倒し、これをかわす。

 ついにサツキマスは足もとに姿を現した。カッと開いた口を見ながら一気に抜き上げた。

 35cmの立派なサツキマスだった。数枚写真を撮り、少し迷ったがリリースした。隣で釣っていた中年の男性が魚を見にきて、私がリリースしてしまったのを知って驚き、

「ええ趣味やナァ」

 とあきれていた。その人と少し話したら、その男性を含め、この日釣っているのはすべて常連で、仕事前のサラリーマンだということだった。そして話題は河口堰のことになった。

「もう少し(河口堰中止の)署名集まるかと思ったんやがナァ」

 と、その男性。

「ぼく、今の会社でその署名集めたんですけど、みんなひとごとみたいに思ってますね。海津の人なんか村八分にされるとかいって名前も書いてくれへんし、誰がいいふらしてるんか、河口堰で水がきれいになるなんて正反対のことを真面目にいう人までいるんですよ」

 と私。

「アカンなァ。宍道湖みたいに盛り上がるか思ったんやけど。岐阜人はアカンわ。情けないわ」

 昨年三月以来のサツキマスを釣った。なのに、この川のこと、この魚のこと、そして、それをとりまく人のことを考えると素直に喜ぶ気分にはなれなかった。

「関西のつり」1991年12月号より

(18年後の筆者の解説)

■岐阜に帰ってきて2年目に書いたものです。

■30日連続ボウズとはいかに河口堰工事で釣れなくなっていたとはいえひどいですが、長良川で投げられること自体に酔っていて、ポイントや釣り方をあまり考えていなかったからでしょう。

■それでも、堺にいたころは5月の連休に帰ってきて数日釣るだけなのに3年とも揖斐・長良のいずれかもしくは両方でサツキマスを釣っていたのですから、その3年が神がかり的だったのか、やはり釣れなくなっていたのか・・・。

■この時代の釣り雑誌はまだこういう問題を取り上げていましたね。この時代の関西のつりはエッセイ類も多く、古きよき時代の釣り雑誌のカラーを残していました。だから投稿先に選びました。

■90年にこちらに帰ってきたころは長良川で投げられるだけでうれしかったのですが、この文章にすでに出てくるように、この後どんどん自分のふるさとに失望していきます。このとき感じた印象は間違っていなかったようで、粛々と河口堰工事は進んで何の抵抗もなくゲートは下ろされ、さらに徳山ダムも完成、現在徳山ダムや長良川河口堰のアリバイ作りのための木曽川水系連絡導水路事業が進んでいます。