エピソード
夜になるとホテルの船着場にはマンタがやって来た。海中で照らされる船着場のライトにはプランクトンが集まっていて、マンタはプランクトンを食べに来ているのだ。
ボラボラに来てから3日目の夜、私はまるで日課のようにディナーの後に船着場へ向かった。
そこには数人の先客がいた。珍しくないことだった。ホテルの泊り客以外に、マンタ目当てにボートで乗り付ける外国人もいたほどだ。ただ、その日違っていたことは、その数人の先客の中に、見知った顔があったことだった。
暗闇の中の桟橋で、ぎりぎりの端の方にしゃがんでマンタのいる海を見下ろしている。真っ黒に日に焼けてはいるが日本人だ。彼だろうか?
やがて見つめる私の視線に気付いたのか、彼は顔を上げて振り返り、腕をゆっくり伸ばして水面を指差した。「マンタ」と呟いた。じっと見つめる私と目が合って幾分戸惑っているようにも見えた。暗闇で私がわからないのか、それとも別人なのか。
一度私は彼から目を逸らし、マンタの姿を追った。しかし、顔立ちだけでなく体つきの特徴だってやっぱり彼だ。私はもう一度彼の方に顔を向けた。彼もまた私を振り返った。
「あ、もしかして」
彼が言った。
「“バナナの身は食べるけど、皮は食べない”を共有した・・・」
「そうです、そうです」
しゃがんでいた彼は立ち上がり、私達はどちらからともなく手を差し伸べ握手をした。
彼とはその日三度出会った。
一度目はジープサファリのツアーで。彼は現地のガイドだったのだ。二度目はホテルのレセプションの前で、私がヴァイタペまでのサイクリングに出掛けようとしている時だった。「またお呼びが掛かっちゃって」と彼は言った。
そして三度目は夜の船着場だった。
ジープサファリのツアーの最終ポイントは黒真珠の店だった。彼は真珠の色について少しだけ私に説明したが、私が興味が無さそうなのを見ると、店内にあるボラボラの写真集や絵葉書について話してくれた。被写体のポリネシアの女性のこと、写真家のこと・・・。
その黒真珠の店は海のすぐ目の前にあった。私達は外へ出て蒼い海を見た。軒先にバナナがなっていた。
「もしもあなたがボラボラで友達の家に行ってテーブルの上にバナナが置いてあったら、そのバナナは食べてもいいんです」
彼はそう言った。
「なっているバナナをもぎって食べたことがありますか」
もちろんない。私は首を横に振った。
「もぎってみて下さい。ねじるようにすると簡単に取れます。甘いですよ」
私はなっている沢山のバナナの中から、よく熟していそうな下の方の一本を選んでもぎった。私達は並んでもぎたてのバナナを食べた。
彼が自分の食べていたバナナの身の部分を小さくちぎって目の前の海に投げた。熱帯魚がそれに群がった。今度は皮の部分をちぎって投げた。魚達は見向きもしなかった。
「皮は食べないですね」私は言った。
「でも蟹が食べます」
彼はバナナの身の部分を全部食べてしまってから「こっちへ」と言って近くの木陰へ私を連れて行った。
「砂に開いてる穴は蟹のいる穴です。今は警戒して出てきませんが」
彼は手に持ったバナナの皮をその穴に投げ入れた。
「こうしておくといつの間にかなくなります。蟹がバナナの皮を食べるんです」
私達は夜の船着場で色んな話をした。マンタのこと、南十字星のこと、あらゆることについて。
「この仕事をしていると色んな人に会います。その殆どがいい人達です。結婚や、夫婦の関係を大切にしていて、自然が好きな人。そういう人たちに悪い人はいませんよ」
色々な人たちと色々な話をする。色々な体験をする。彼の仕事はそんな仕事だ。一度限りの出会いや体験。
「そういうのを集めてるんです」
例えばバナナの話。確かに私達はある短い体験を共有した。
「いつか本にしようと思って」
私達は笑った。宝箱をひっくり返したような星空の下、マンタがゆっくりと海の水をかき回していた。
そういうのを集めてるんです。私もそうかも知れない。そういうものを集める旅をしているのかも知れない。
本にする日は来ないだろうけれど。
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