ありったけの笑顔で

 

   4. *自転車と鈴虫*

「……どうして……?」
 自宅の門の前に一台の自転車と人影があるのを見つけて、独り言のように呟いた。
「なんとなく……かな?」
 そう言ってばつが悪そうに頭を掻いたなぎさは、えへへ、と笑ってみせた。
 ほのかは口を開けたまま、ぽかんとした表情でなぎさを見つめ、しばし言葉を失った。
「んっとぉー。えっと、その、……何かあった? なんとなく、ほのかの事が気になってさ。別にね、何でもなければいいんだけど、もし何かあるなら、…………ね」
「――なぎさはいっつも唐突メポ! それになぎさじゃ頼りにならないメポ!」
「ちょ……。何よ、メップル!」
 突然なぎさのウエストで、ストラップで下げたコミューンケースが踊り出す。
「そんな事ないミポ。なぎさはいつだってほのかの事考えてくてれいるミポ」
 ほのかの鞄に吊り下げられたミップルが珍しくメップルに反論している。
 彼女らのやり取りに止まっていたほのかの思考が働き始める。くすりと笑う仕種をしてみせ、なぎさを促した。
「とにかくこんな所で立ち話してちゃ風邪ひいちゃう。なぎさ、自転車は門の内側へ入れて」
「うん」
 なぎさが自転車を押す間、門扉を押さえてやりながら、気付かれないように重く冷えた溜息を吐き出した。ミップルとメップルがいてくれて良かった。彼女らがいてくれたからこそこんな時でも普段のままの自分でいられる。
 ――風よりも早く飛んで行っちゃうんだから!
 本当に。
 何も言わなくても、こうして彼女はいつも側にいてくれる。
 胸の前で、ぎゅっと拳を握る。
「……ありがとう」
 こんな事では、胸を締め付ける想いは抑えられないけれど。
「ん? 何か言った?」
「ううん。何でもない」
 ふたりの沈黙を埋めるように、庭のあちこちで鈴虫が鳴き始めていた。



   5. *誰がために鐘はなる*

 祖母のさなえが電話に向かって頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそいつも孫がお世話になっておりますから。……はいはい。今晩はうちで……。はい、お預かりいたします。はい、では御免下さい」
 そう話す声が廊下の先から漏れ聞こえて来るのに耳を傾けながら、ほのかとなぎさが分担し合い、盆から卓袱台へと食器を移していく。――こんな光景ももう初めてではない。ほのかに言われるまでもなく、なぎさはそれぞれの位置にきちんと配膳していく。
 ぼーんと柱時計が鳴った。最初は物珍しく感じていたその音にもいつの間にか慣れていた。ことりと最後の椀を置き、なぎさはそそくさと自分の定位置となった座布団に腰を据えた。
 やがて電話を終えたさなえが戻って来て、ふたりに促して、食事が始まった。
「さあさ、冷めないうちに、召し上がれ」
 はーい、と二人の声が重なったその時、八時を知らせる最後の鐘が鳴った。

◆  ◆

「はい。食後のお紅茶。ふたりともお夕飯の後片付け、ありがとう」
「どういたしまして!」
 さなえがほのかの部屋に持ってきた紅茶を受け取りながら、なぎさが元気良く頷く。ぱたりと障子が閉じられると、早速勉強机の椅子に腰掛け、紅茶を啜り始めた。
「ホント、おばあちゃんのご飯って美味しいよね。ほのかが料理上手なのも頷けるよ!」
「そう? 私なんてレパートリー少ないもの」
「ううん。ほのかの肉じゃが、私大好き!」
 彼女の言った何気ない言葉にドキリとしてしまう。手にした紅茶をこぼさないように、ほのかはベッドに腰掛けたまま身じろぎをした。
「そ、そう?」
「肉じゃがだけで、ご飯3杯はイケるね! もういつだってお嫁に行けちゃうよね」
「――もう、褒めすぎよ」
 あははは、となぎさが笑い、ほのかも笑う。
 やがて二人の笑い声が途切れると、ミップルがメップルを連れ出してくれているお陰で、直ぐにしんと静まり返る。屋敷自体が広いので、居間へと下がったさなえの気配すら分からない。
 ただ鈴虫の鳴き声が響いていた。
「……あのさ」
 ほのかがティーカップを机に戻したのを切っ掛けにして、切り出したのはなぎさだった。
「私じゃ頼りにならないけどさ。話くらい聞くしさ。前にアカネさんの事でほのかも言ってたじゃない? 人に言う事で気が楽になったりするって。だから……」
「やだ。本当に何でもないってば。なぎさの思い過ごしよ」
「……やっぱ、私じゃだめ?」
 彼女の神妙な声音に声が支えた。本音を隠している事に、胸がちくりと痛む。
「そ、そんなんじゃ……ないよ」
 声が震えないように気を使いながらそう言うと、なぎさははにかんだような困ったようなそんな笑顔を見せた。思わず言い訳を重ねようと口を開きかけた時、なぎさが口を開いた。
「ほのかさ。色々ウンチクとかいっぱい言うけどさ、でも案外悩んでる事とか愚痴とか言ったりしないじゃない? そういうのって強いなあって思うけど、でも人に頼っていい事は頼ったっていいと思うんだ。何て言うか、強くなるのも大切だけど、ほのかは十分強いし、でも……あの……、わ、私くらいには弱くったっていいし、弱くっても構わないっていうか、そういうほのかも嫌いじゃないっていうか……。あ――! 上手く言えないけど!」
 頭を掻きむしると、両腕を頭上に掲げてぐっと体を反らし、ふん、と気合いを入れる。
「ほのかが何も言わなくても、ほのかが困ってたら私の方から飛んで行こうって、ずっと思ってたの、私!」
 ――どんな時にでも側にいてくれるから。
「なぎ……!」
「私にはそのくらいしか出来ないけど、――ね!」
 どうして気持ちを隠したままでいさせてくれないのか。どんなに巧く気持ちを隠そうとしても、彼女の持つ太陽のような温かさだけで簡単に心が裸にされていく。
 ――まるで、『北風と太陽』みたい。
 目の前の笑顔が眩しくて。――つい、心が崩れてしまいそうになる。
「もう、……なぎさには敵わないなあ……」
 その笑顔に、気持ちに、惹かれてしまう。
 今直ぐこの想いを告げて彼女を抱き締めてしまえたらどんなにいいだろう。
 ――でも。
 そんな事出来なくて。
 ぎゅ、っとスカートを握りしめるしか出来なくて。
「……だめだよ」
 ぼそりと呟くと、なぎさがきょとんとした表情を見せた。多分何を言ったかは聞こえていない。
 ほのかは俯いて涙とそして想いの全てを飲み込んだ。そうする事が《正しい》のだ、と思っていたから。
 だから、ほのかには見えなかった。
 なぎさは下唇を噛んで、歯痒さに身体を震わせていた。目の前で《親友》が苦しんでいるのに何もしてあげられない事にまた彼女も苦しみ、ふがいなさに拳を握る。
「あのさ、」
 そう言った声が震えないように。
「あの――」
 ぐっと声を吐き出した。
「あのさ……ねえ、もしかしてほのか、好きな人とか、出来た?」
「ええっ!?」
 突然のあまりの事にほのかの身体が飛び上がる。あっという間にぐい、となぎさに両手を引き寄せられた。
「ほら、ほのか最近なんかすごく嬉しそうだったり、そうかと言えばなんかちょっぴり元気がなさそうだり……。誰か気になったりしてるのかなあって……」
「…………」
 その《すごく嬉しそう》なのが、自分と一緒にいるからだとは露程も思っていないらしい。
 ――当たり前だけど。
 そう思うとほのかは少し気持ちがほぐれたような気がして、笑う事が出来た。
「え? 何か言った?」
「ううん。びっくりしただけよ……」
 繋いだ指先が熱くなる。
「ね、ほのかなら上手くいくって! 可愛いし女の子らしいし、優しいし、もうどんな男の子だってメロメロだよ!」
「やだな。何言って……」
「どうなの? ってか、私の知ってる人!?」
 くるくる表情が変わる。
 いつだってなぎさには敵わない。分厚く着込んだ心の服をどんどん脱がされてしまって、けれどそんな感覚が心地よくて、一枚、二枚と彼女に差し出していってしまう。――あまりにも彼女が一生懸命だから。
 ――だから。
「……その人にはもうちゃあんと好きな人がいるから。それにどちらかって言うと、わたしがその人を応援しててあげたくて。このままずっと一番近くで……。ずっと離れちゃうなんてことなくて。――ね」
 隠してる事なんて出来なくて、本音が顔を覗かせた。
 そう言うと、きょとんとした表情になる。一瞬複雑そうに眉根を寄せると、堰を切ったように笑い出した。
「や、やっぱり好きな人が出来たんだね。よ……良かったよ! ほ、ほのかが好きになるなんて、きっと素敵な人なんだね! 前にほのか、好きになるなら尊敬出来る人がいいって言ってたもんね。ほのかが尊敬出来る人って、す、素敵な人なんだろうなあ!」
 一気に捲くし立て、ティーカップに残った紅茶を飲み干す。
「なぎさ、それ、私のだけど」
「え!? あ……こ、細かい事気にしない気にしない!」
 更に、自分のカップに手を伸ばすとそれさえも一気に飲み干すなぎさ。
「えっと……。そっか。えーっと、でも一番近くでって……? わ、私の知ってる人?」
 恐る恐るこちらを向き、上目遣いで見上げて来る。そんな姿が可愛らしくて、少し、噴き出してしまう。
「どうかしら?」
 意地悪く言うと、また表情が変わる。
「え……ほのかの近くでって…………。ふ、藤P先輩?」
 ある意味予想の範囲内の人に、苦笑する。それだけは、『ありえない』。
「ブー。藤村くんは、ずっとお兄ちゃんってカンジだったから。安心して」
「あ、安心って……。じゃ、じゃあ木俣さん?」
「やだ、違うわよ」
「え……? じゃあヒント! ベローネ学園の人? 他の学校の人?」
「うーん。ベローネではあるけど」
「キ……キリヤくん……?」
 ふるふると首を振る。
「男子科学部の人?」
「残念ながらあまり会った事ないし」
「ああ、もうじゃあ誰!?」
「私の目の前にいるよ」
「へ?」
 まるでネジの切れたネジ巻き人形のようだ。ぴたりと止まったまま、ただ瞳だけがぱちぱちと瞬かれる。
「目の前……?」
「そう」
 きょろきょろと辺りを見回し、もう一度確認する。
「目の前?」
「うん!」
「えっと……。……わ……私!?」
「うん」
「へ――――。ってわたし!? わ……私!?」
「うん。そう。正解は美墨なぎささんです!」
「え――――――――――――――――!? いや、美墨なぎささんです、って何かのクイズじゃないんだから。つか、マジ?」
 こくりと頷くと、いよいよ理解したのかみるみる顔が赤くなっていく。まるで熱湯に浸けた温度計のようだ。
「だって私ガサツだし頭悪いし、いっつもほのかに迷惑ばっかかけてるし、家のお手伝いもなーんにも出来ないし、出来ると言えばタコ焼きの早食いぐらいだし、全然ほのかの尊敬出来る人じゃないし! そ……それに、私、お……女の子だし……!?」
 机に片腕を掛け、前のめりになって興奮したように捲くし立てる。以前、雑談のついでにお互いに尊敬し合える関係が理想だと言ったのを覚えていてくれたらしい。
 そんななぎさに向かってほのかは静かに首を振って、やんわりと諭す。
「ううん。なぎさはとっても素敵な人よ。みんなが憧れちゃうくらいにね」
「えっと、あ……憧れ? ほ、ほのかも……だよね。でも、それって、つまり、その、す、好きって事だよね?」
 やはり真っ赤な顔をして、それでも懸命に理解してくれようとしている彼女。
「モチロン。恋愛の意味での、好き、よ」
「――――――!」
 まるで熱しきった薬缶だ。今にもピーっと泣き出しそうだ。
 すると椅子の上で所在なくもじもじとし始める。恋愛について奥手な彼女は告白するのも、告白されるのも精一杯だ。そんな姿が微笑ましくて、少し、複雑な心境になった。結局彼女を困らせてしまった事には違いない。
「……ホントはずっと言わないつもりだったんだけど、あんまりなぎさが一生懸命だったから、つい、ね」
「あ……いや。言ってくれて……良かったっていうか、嬉しいよ。ほのかがそんな風に思ってくれてたなんて。ちょっと恥ずかしいけど。なんか……まだ、よく分かんないんだけど、でも、ほのかが言ってくれて良かったよ」
 まだまだ随分と赤い顔のまましっかりと頷く彼女。
 そんな彼女らしい誠意が嬉しくてほのかも頷く。
「……でもね。だからってこれから何かが変わるとかじゃなくて、なぎさはなぎさのままでいて欲しいの。勿論、藤村くんの事を好きでいてくれて構わないし、寧ろね、そうでいて欲しいの」
「え……?」
 ほのかの言葉にきょとんとするなぎさ。
 それは素直な気持ちだった。嘘でも強がりでもない。
 そう。こんな気持ちを教えてくれたのは、ありのままの彼女だから。
「――私は多分、藤村くんに憧れているなぎさが好きなんだと思う。誰かの事をあんなにも一生懸命想っているなぎさが」
 そう言ってしまうと、心の支えが取れていくような気がした。その想いに嘘はない。
「ほ……ほのかは本当にそれでいいの? 私が……その、ほのか以外の人を好きでも」
「そりゃ、私を好きになってくれたら嬉しいけど。でもなぎさが好きなのは藤村くんでしょ?」
「…………」
 暫く無言のまま俯いていたが、迷った末に小さく頷く。分かってはいたものの、それを見てやはり打ちのめされる。
「でも……私分かんないよ。今までこんな事一度も考えた事なかったし、やっぱりほのかの事が好きだもん! 藤P先輩とどっちが好きかなんて分かんない」
「うん。そうだと思う。だから今までとおんなじ。何にも変わらないよ。私の隣になぎさがいて、なぎさの隣には私がいる。……ね?」
「ほのか……」
 やがてなぎさがこくりと頷いた。
 そして、極当たり前のように手を握られた。
 何度も何度も、繋いできた手を。
「ありがとう、ほのか」
「うん……。ありがとう、なぎさ」
 そう言うとやがてなぎさの手が離れた。温かなその指先を名残惜しく追う。
 ――と、ふわりと風を感じた。
「え……?」
 あたたかい風を。
「なぎ――――、」
 気が付くとなぎさに抱き締められていた。
「私……うまく言えないけどさ、私はほのかが……だいすき」
 呼吸が、
 止まる。
「…………」
「ずっとこのままがいいとか、このままでいられるのかとか、未来の事とかわかんないけどさ。……わかんないけど、だいすきだから」
 ぎゅう、と腕に力が込められた。
 あったかい。
 温かくて――
 優しい。

「うん。……ありがとう」
 こんなにも優しい気持ちでありがとうと言わせてくれるから。

 だから。

 ありったけの笑顔で。

「わたしも。なぎさが、だぁいすき!」

 いつだって、どんな時だって、そばに、
 いてくれるから。
 いるから。

 だから、私はありったけの笑顔で。
 あなたのそばにいる。







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