安倍晴明

              安倍晴明(あべのせいめい) 921年?〜1005年
平安時代中期の陰陽家。賀茂保憲について陰陽天文学を学び、天文博士、大膳太夫、右京太夫、播磨守などを歴任した。式神を使役して怪異をなし、その占いは神のごとく優れていたと言われる。陰陽道の大家として貴族社会で重んじられ、その子孫である土御門家は、代々陰陽頭となった。

             恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森の恨み葛の葉

 晴明の出生について、古浄瑠璃の「信田妻(しのだづま)」では、摂津国の安倍野の武士である安倍保名が、和泉国の信田(信太)森(しのだのもり)で狐狩りのために殺されそうになった狐を助けてあげたところ、この狐が恩返しのために美しい女に化けて保名の妻になり、二人の間に生まれたのが晴明だという。上の歌は保名に正体を知られた母狐が去っていくときに残したものである。

 日本史上最も有名な呪術師であるが、以外に晴明の実像はわかってないところが多い。正確な記録は57歳から85歳の間に限られている。他は後の陰陽師が晴明を神格化するために作られた伝承が大半である。生没年も1005年に85歳で亡くなったという記録から逆算したもので、出生地も正確にはわかっていないが、大阪の阿倍野という説が有力だということである。

 伝説に彩られた晴明であるが、先祖にも右大臣にまで昇った安倍御主人(あべのみうし)という人がいて、この人もまた物語とは無縁ではない。この御主人、実はかぐや姫で有名な「竹取物語」に登場するのだ。この物語の中で御主人はかぐや姫に「火鼠の皮衣」というものが欲しいという難題をかけられる。この火にかけても燃えないという布を、手を尽くして部下に探し出させるが、手に入れたものを火にかけるたら燃えてしまい、大金をかけたのが水の泡になってしまったという人という設定である。

 その御主人から8代目が、物語では保名となっているが史実では益材(ますき)という晴明の父である。益材が朝廷で勤めた役職は「大膳太夫」、天皇が下賜する饗膳を司る役所の長である。御主人が勤めた右大臣に比べるとかなり格が落ちる。御主人の父の倉梯麻呂(くらはしまろ)は左大臣であったので、御主人以降は徐々に安倍家の力は弱ってきていたのであろう。

 晴明は賀茂(加茂)忠行、およびその子保憲(やすのり)に陰陽道を学んだとされる。賀茂家は当時陰陽師の頂点に立った一族で、特に忠行については「今昔物語集」において、陰陽道に関しては当時肩を並べる者なしと評されていた。
 陰陽寮という役所は天文博士と暦博士が各一人ずつ置かれているが、その両方を兼ねていた保憲が、晴明に天文道を伝え、息子の光栄(みつよし)に暦道を伝えたのである。天文博士と暦博士は共に同じ天を扱う職種ではあるが、保憲の時代は天文博士が殿上人の陰陽頭(おんみょうのかみ)であるのに対して、暦博士は地下人(じげびと)の陰陽助(おんみょうのすけ)である。つまり保憲は自分の子を晴明の下に置いたのである。安倍家は晴明までは陰陽道に無縁であった。晴明がここまで登りつめたのは、その能力がずば抜けて優れていたためであろう。


 晴明は「十二神将」あるいは「三十六禽」を用いて式神にしたという。式神というのは紙などで形代(かたしろ)と呼ばれる象徴物を呪文によって実体化させたものだ。「十二神将」とは薬師如来の眷属である夜叉の十二人の将、「三十六禽」とは36種類の禽獣となって現れ、人々を自滅に導く悪鬼のような存在だとされる。その式神を使用して自在に怪異を起こし、予言をなしたとされる晴明は、当時恐れうやまれる存在でもあったのだろう。今昔物語や、宇治拾遺物語、その他の伝承における晴明はさながらスーパーマンのようである。

 安倍家は後に土御門家と号した。賀茂家が戦国時代に家が絶えたこともあって、これ以降天文博士の他に暦博士も土御門家が兼務することになる。


2001年6月2日

 

わんだあらんどへ戻る


トップページヘ戻る

奇人・怪人伝に戻る