石川五右衛門

              石川五右衛門(いしかわごえもん) 1568年?〜1594年
安土桃山時代の盗賊の頭目。確かな経歴は不明だが、実在したことは確かなようである。出身地も定かではなく、盗賊であったことと、1594年に親子党類ともに京都三条河原で釜ゆでの極刑に処された、ということくらいで、あとは俗説と伝承が混在して、その実体はよくわかっていないというのが現状である。

               石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ

 この辞世の句と、「絶景かな、絶景かな・・・」と、南禅寺山門上で市中を眺めて言ったセリフが有名な並木五瓶作「金門五山桐」。石川五右衛門がの名が広まったのは1778年に初演となったこの歌舞伎狂言や、1737年初演の人形浄瑠璃「釜淵双級巴」に負うところが大きいといえるだろう。この他にも五右衛門を題材にした物語は多く、特に1802年に刊行された「絵本太閤記」は、人々が想像する五右衛門像を確定的にしたものである。その「絵本太閤記」には、おおよそこう書かれている。

 「五右衛門は河内国石川村で生まれた。、幼名は五郎吉。17歳の時に伊賀に渡り、臨寛という外人僧に忍術を習い、その後にはその忍術を使い悪事を重ねていく。
 そんなある日、関白秀次の家臣木村常陸介から、太閤秀吉の暗殺を依頼される。伏見城に潜入した五右衛門は秀吉が寝静まるのを待ち、丑三つ時に秀吉の部屋に忍び込んだ。鼾も高く寝入っている秀吉を見た五右衛門が飛びかかろうとしたまさにその時、その時、枕元に置かれた千鳥の香炉がチリリと鳴いた。
 見つかった五右衛門は数日間の拷問の末、手下を含め総勢20人と共に釜ゆでにされたのである」

 これらはあくまで創作であって実話ではない。このように事実よりも伝説のほうが多い人物なのだが、五右衛門という人物は果たして実在したのだろうか。
 五右衛門と思われる人物に関しての最も古い資料は、公家の山下言経の日記「言経縁記」である。そこには「文禄3年(1594年)8月、盗人スリ10人、子一人を釜にて煮る」と書かれている。
 その次には1642年に林羅山が、文禄の時代に石川五右衛門という盗賊が捕らえられ、母親と同類20人を煮殺したという記載を「豊臣秀吉譜」に記し、また、沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを書き記してはいるが、これらは共に処刑から年代が経ちすぎていて、今ひとつ信憑性が欠けるという研究者もいるようである。
 五右衛門の名前が出ている「豊臣秀吉譜」が信憑性に欠けるとなれば、「言経縁記」に書かれてある盗人が果たして本当に石川五右衛門という名前であるかという疑問が起こる。だが実は「言経縁記」と処刑の期日と方法が全く同じように書かれた文献が、意外にも外国に存在したのである。

 「日本王国記」というタイトルの本がローマのイエズス会文書館に所蔵されている。著者はアビラ・ロラン。
 アビラは16世紀から17世紀にかけて約20年ほど日本に滞在した貿易商で、1615年に長崎でこの本を書き上げているのだが、その文中に、かって都を荒らし回る盗賊の集団がいたが、集団の中で15人の頭目が捕らえられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られたという記述がある。だが、この記述にもまた石川五右衛門の名前は存在しない。
 ところが、である。
 この本にはペドロ・モレホンという宣教師が注釈を書いており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年のことである。油で煮られたのは「Ixicavagoyemon」とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのだ。このペドロという人は、処刑当時京都の修道院の院長をしていたという。

 こうして、石川五右衛門実在説は、2人の外国人によって裏付けられた。
 また、五右衛門を煮た釜というのが戦前まで東京の刑務所協会に保存されていたが、戦時中どこかに消失してしまったということである。



2001年6月7日

 

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