司馬江漢

              司馬江漢(しばこうかん) 1738年〜1818年
江戸時代の洋画家。江戸の生まれ。本名は安藤峻。無言道人・春波楼と号した。狩野派を学び、後に浮世絵師である鈴木春信門下となり、春重の号を与えられる。その後、宋紫石の門人となり、人物・風景・山水画に秀で画名を挙げたが、平賀源内の影響を受け、洋風画の道を志す。銅版画の制作に成功したのは有名。また自然科学に親しみ、地理・天文に関する書物も著した。

              喰ふてひるつるんて迷ふ世界虫上天子より下庶人まで

 ―広重の名作浮世絵版画、「東海道五十三次」は、司馬江漢作と言われる画帖をもとに描かれたものだった―
 伊豆高原美術館長の對中如雲氏は、その著書「広重『東海道五十三次』の秘密」で、こう書いている。
 細かい説明は省くとしても、僕はこの説の信憑性は高いと思う。画帖の方が写実としては確からしいということもあるが、なによりも55枚もの肉筆の偽物を作るということが信じられないからだ。複数の連作の偽物を作れば、その中の一つが偽物と判明しただけでも、残りの作品が全て偽物ということになる。それよりも一枚の作品で勝負した方が危険が少ないのは明らかだ。という理由からである。この画帖は伊豆高原美術館にあるそうだ。いつかは行って現物を見てみたいものである。

 さて、この「広重『東海道五十三次』の秘密」で、僕は江漢に興味を持ったのだが、この人物、なかなか面白い。
 それまでの知識では、江戸時代に銅版画の制作をしたこと、その前に春重という名で浮世絵の制作もし、また、師の鈴木春信の死後、春信の名を騙って作品を描いたが、誰も偽物というものがなかった。と自分の著書でうそぶいたということくらいである。まあ、しかし名を騙って偽物を描いたという事自体疑わしいらしく、名を騙ったという作品は、晴信という落款はついているものの、思い切った遠近法を取り入れたその作風は春重(江漢)らしいものであり、実際は2代を継承していたにもかかわらず、後になってその事実を否定しようとして、こんな事を書いたのではないかということなのだが。

 さて、平賀源内と出会った江漢は、源内と共に鉱山探索のための山歩きをなどもしたらしい。さらに数多くの大名とも会っており、時の老中松平定信を公然と批判している。また、絵の参考としてと言いながら使徒聖パウロ像を持ち歩いていた。簡単に書いたが、これらはある意味で重大な意味を持つ。松平定信を公然と批判したことにしても、江漢の周りの人物が弾圧を受けていたさなかである。定信が江漢を知らなかったわけではない。江漢は定信に自作の地球儀を送っているし、江漢の西洋画に対して定信は批評したりしているのである。それでも江漢は少しも弾圧を受けなかった。また、聖パウロ像の事にしてもそうである。よく知られていることであるが、当時はキリスト教は禁制であった。しかし、江漢は全くこのことに対して咎めを受けていない。

 その他にも、幕府の隠密と言われている間宮林蔵が樺太探検から戻ってすぐに江漢宅を訪れる。ロシアに漂着して帰国した大黒屋光太夫に会っている。外国に行った人間など、その当時は一種の軟禁状態にあり、普通の人間には会うことができないはずなのに、である。また、自分でコーヒー挽き器を工夫してコーヒーを飲み、地球儀や補聴器、老眼鏡も作った。自分の年齢を詐称し、途中から実年齢に9歳加算した年齢を作中に書くようになった。友人や知人に偽の死亡通知を送りつけ、知人が見つけ呼びかけると逃げだし、それを追いかけると、「死人荳、言を吐かんや(死人が口をきくか)」と怒鳴りつける。調べれば調べるほどわけの分からない人物である。

 紀州家や水戸家との繋がりもささやかれ、隠密説や、隠れキリシタン説、はったり屋と、色々評されている。司馬江漢という人物はあまり知られてはいないが、江戸時代を代表する奇人怪人と言っても過言ではないと思う。

 冒頭に書いた句は江漢作の狂歌で、上は天子から下は庶民までみんな同じだ。と、人間を人間そのものとして見ようという江漢の思想が読みとれる句となっている。



2001年6月16日


  【追記】
 司馬江漢作とされる「東海道五十三次画帖」には、広重の「東海道五十三次」とは全く構図の違う絵が三作存在する。「赤坂」「宮」「京都」である。そのなかの「宮」で、江漢作とされる画帖には熱田神宮が描かれていると對中如雲氏は述べ、江漢作が本物であるという有力な証拠だとしている。
 だが、熱田神宮が「東海道五十三次画帖」に描かれたような神明造となったのは、熱田神宮のホームページによれば、明治26年の事であるという。
 すなわち、「東海道五十三次画帖」に描かれている神社が熱田神宮を描いたものであれば、この画帖は明治26年以降に描かれたものとなり、江漢作のものではあり得ない。ということになる。
 また、「関」に描かれている「仙女香」の文字についても、制作年代に矛盾が生じてきていて、またその他にも矛盾する点が続々と指摘されてきた。

 これが、別々の作品であれば、価値を高めるために、足らない箇所に偽物を混ぜて一揃えにした。という事も、可能性としては低いもしれないが、考えられないことではない。だが、「画帖」であれば、一つが偽物となると、全ての作品が否定されることになる。
 「東海道五十三次画帖」が偽物だとすると、なぜこのような発覚の危険性の高い偽物を敢えて作ったのだろうか?という疑問がまだ残る。55枚もの絵を描くという手間の割に発覚の可能性も高くなる。それに、わざわざ3つの作品をオリジナルのものと変えて作ったのはなぜなのか?

 現在、作品があるとされる伊豆高原美術館は現在閉館中である。また、「東海道五十三次画帳」はすでに売却されたとの噂もあり、まだまだ謎に満ちた問題が多く、興味深い。


2001年9月5日

 

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