役小角

              役小角(えんのおづぬ) 生没年不詳(?〜701年?)
役行者(えんのぎょうじゃ)、役君小角(えのきみおづぬ)とも。修験者、呪術者。葛城山を拠点に活動していたが、文武天皇の時代に自分の弟子によって訴えられ、伊豆へ流された。その伝説は「日本霊異記」などで語られ、平安中期に密教が隆盛となってからは、修験道の開祖として神聖視された。

    小角能く鬼神を役使して、水をくみ薪を採らしむ。若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る

 役小角に関する記録の中で、正史とよべるものは平安時代初期の史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」の一つだけである。上はその「続日本紀」に書かれているもので、「役小角は、鬼神を使って水をくませたり、薪を取りに行かせたりした。そして、もし言うことを聞かないようなことがあれば呪縛した」と書いてある。「続日本紀」にあるその前の記述は、役小角は、初め葛城山に住んでいて、呪術で広く知られた存在であったが、自分の弟子の韓国連広足にその能力をねたまれて、人を怪しい言葉で惑わせるという讒言にあい、伊豆に流されたとある。正史としてはこれだけだ。

 後は伝説によって話を進めよう。
 伝説は9世紀の「日本霊異記」、12世紀の「今昔物語」などで語られる。

 役小角は,賀茂役公(えのきみ),のちの高賀茂朝臣の出で,大和国損木上郡茅原村の人という。小角の母に天から降ってきた独鈷という仏具が体内に入り、処女懐胎した。胎内にいるときから「異香」や「神光」を放ったという。頭に一本の角があり、また生まれながらに博学で,虚空を飛んで仙人と交わり,仙宮に行きたいと願った、岩窟にこもって修行を積んだ結果、孔雀明王の呪術を修得し、鬼神を駆使できるようになった。さらに五色の雲に乗り、自由に空を飛んだ。こうした小角の能力には神々さえも恐れたという。
 
 小角は神々に命じて、吉野の金峰山と葛城山との間に橋をかけさせようとした。それで神々は困惑し、一言主(ひとことぬし)神が人間に乗り移って、小角に反逆の意があると朝廷に訴えた。朝廷は小角を捕らえようとしたが容易に捕らえられない。そこで小角の母を縛った。母の苦痛を思った小角はみずから縛につき、伊豆に流された。しかし、流されたと言っても、昼間は伊豆にあったが、夜は駿河国の富士山に登って修行を重ねた。一方の一言主神は、配流だけでは飽きたらず、小角を処刑するように託宣した。そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとした。ところがそのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現れたため、これに驚き、言葉通りに赦免した。自由の身になった小角は一言主神を呪縛し、今に至るまで解かれないままでいるという。

 説話の中で役小角は、役行者と呼ばれて修験道と深く結びつけられるようになった。その修行地は生駒山、信貴山、熊野などにひろがり、やがて全国各地の修験道の山が、役行者の聖跡とされるようになった。そして修験道の開祖と崇められ、修験者(山伏)の間では、「神変大菩薩」の損傷で厚く信仰されている。

 なお、孔雀明王とは唯一の女性の明王である。梵名「マハーマユリ」の「マユリ」は、孔雀を意味する「マユラ」の女性形である。だが、日本では女性であることはそれほど重要視されなかったようである。
 その孔雀明王の御利益は凄まじいもので、中国の高僧である不空の訳した「仏母大孔雀明王経」によると、孔雀明王の呪文を唱えると、蛇の毒を含むあらゆる毒や病気、恐怖や災いを取り除き、安楽をえられるという。さらに天変地異をも止めるとも。
 ちなみに空海は、釈迦が人々に仏の教えをもたらすために孔雀明王になったとしている。孔雀明王はそれほどの大きな力を持つと考えられていたらしい。


2001年10月5日

 

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