平賀源内
平賀源内(ひらがげんない) 1728年?〜1779年 江戸中期の博物学者、戯作者、浄瑠璃作者。名は国倫(くにとも)、号は鳩渓、風来山人、福内鬼外(ふくうちきがい)、天竺(てんじく)浪人など。高松藩の足軽の子で、父と同じく薬園掛に取り立てられたれた。1752年長崎に留学、。1954年に職を辞し、56年に江戸に出て田村藍水について本草学を学ぶ。59年再び取り立てられ、薬坊主格となるが、61年再び職を辞し、その後は浪人として過ごす。一生独身で通したが、癇癖のため誤って人を殺し、獄中で死んだ。エレキテルを制作したことは有名。 |
ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる
非常の人とは、普通の人ではなく、凡人の域を遙かに超えた人、という意味である。非常の死とは、平賀源内が殺人の咎で入牢中に獄死したことを表している。これは源内の友人で、「解体新書」の翻訳で有名な杉田玄白が書いたものだそうだ。
平賀源内と言えば、エレキテルで有名である。その他に石綿や万歩計などを作った奇人の発明家として一般に知られている。また、もう少し知った人なら、土用の日にウナギを食べるようになったのは、平賀源内がウナギ屋の店先に「本日土用丑の日」というコピーを書いたかららしいと言うかもしれない。確かに多才な人ではあったようだ。ちょっと、どういうことをした人か書き並べてみよう。
【本草学】
本草学とは薬についての学問で、源内は元々はこちらが専門である。日本最初の物産会を5度開き、それを元に「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を著した。高松藩の薬坊主格という役職だったのはそのためである。
なお、高松藩の役職を辞したときに、源内は「仕官御構(おかまい)」という処置をされた。これはよそへ仕官することは認めないということである。これによって源内の出世の望みは絶たれたのである。
【発明】
こちらの方が有名である。エレキテル、寒暖計、石綿、磁針器、万歩計、など外国のものを見ただけで原理を理解し、作ってしまった。エレキテルが有名なのは見せ物にしたためである。また、革の装飾加工品に見えるようなものを安価な紙で作った金唐皮というものや、菅原櫛という櫛を考案する一方、日本で初めての油絵である「西洋婦人図」を描き、秋田蘭画の誕生に多大な影響を与えた。また、破魔矢の考案も源内である。かなり多才というか、興味の対象が落ち着かない人だったらしい。
【商売】
綿羊を飼育して毛織物を試作したり、輸出用の陶器制作を計画したり、鉱山の採掘にも手を出した。奇石、珍石のブローカーをしたこともあり、木炭の運送事業もしている。
【著作】
「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」の戯作で人気作家となった。源内の構想、行文を真似るものが後を絶たず、「作家の親玉」とまで称されるようになった。また狂文集の「風来六部集」というものを著し、浄瑠璃作家としても活躍した。
【コピーライター】
土用の丑の日のコピーを書いたという話が有名であるが、真偽のほどは定かではない。ただ、宣伝文を書いていたのは確かで、漱石香という歯磨き粉の宣伝文を書いたという事実が残っている。
まさに多才、奇才の人であった。そのためいろいろな伝説を生み、「平賀鳩渓実記」では、源内が幼少より天狗小僧とあだ名されたこと、遊女白糸を請け出して三井八郎右衛門に恩を売ったこと、飛行船の発明をしたこと、長崎で抜け荷をしたことが述べられている。
また、当時のうわさでは,彼は獄死せず,老中田沼意次に助けられて遠州相良にかくまわれたともいう。
2002年3月9日