前田慶次郎

         前田慶次郎(まえだけいじろう) 1541年?〜1605(1612)年?
戦国時代を代表する「傾奇(かぶき)者」といわれる。旧海東郡荒子(名古屋市中川区荒子)の生まれ。 幼名は宗兵衛。名はいくつもあるが、史料では利太、利貞の名が多く使われているようである。武勇、学識ともに人並み以上に優れた人物でもあったようだが、資料は少なく、謎の多い人物である。

      前田慶次は賀州利家卿のいとこ也。天性のいたずらものにて、一代の咄も色々あり

 冒頭の言葉は「可観小説」にあるものだが、その他にも、
「ひょうげ人にて、何事も人にかわり」(桑華字苑)
「世にいい伝える通りのかわり人なり」(重輯雑説)
などと伝えられ、前田慶次郎(または慶次)は早くから奇矯の士として知られていたが、単に変わり者というだけでなく、「武辺度々に及び、学問、歌道、乱舞に長じ、源氏物語の講釈、伊勢物語の秘伝つたへて文武の兵也」(武辺咄聞書)」という、文武両道に秀でた人物でもあった。

 この人物、面白い逸話が多いのだが、資料は少ない。しかしその数少ない資料をつなぎ合わせ、できた人物像は「奇人・怪人」というより、まるで「化け物」である。
 慶次郎が有名なのは「傾奇者」としてであろう。養父である前田利久(前田利家の兄)が存命中は比較的神妙であったといわれる。とはいえこの時期にも、戦場で前田利家の影武者を勤めたとき、「われこそは利家が影武者」と大声でわめきたてたという逸話が残っている。影武者が名乗っては元も子もないのだが。

 このように早くから奇矯の振る舞いがあったのだが、その行動が傾奇者として有名になるのは利久が病没してからである。このことによりしがらみのなくなった慶次郎は、それまで窮屈に感じていた利家との決別を決意した。そこである日、慶次郎が寒日に利家を茶の湯に招待し、欺いて水風呂に入れ、利家が悲鳴をあげている間に、利家自慢の名馬「谷風」に打ち乗って金沢を出奔したのである。その後京に上った慶次郎はたちまち洛中の有名人となり、後に秀吉から「向後、いずこなりとも、心のままにかぶいてよろしい」という、いわゆる「傾奇免許」を得たという話もある。

 その豊臣秀吉が亡くなり、天下は再び動き始めた。家康による上杉家討伐の話を聞くと慶次郎は朱塗りの槍を抱え上杉家に駆け参じた。上杉景勝は慶次郎が見込んだ唯一の戦国大名であり、その重臣の直江山城守兼続は慶次郎の文武の友である。自分が気に入った主と、莫逆の友と一緒に最大の実力者である徳川家康と、それに従う有力大名の連合軍と一戦を交える。決死の戦であるが、この男のことである。悲壮感などを感じるよりも、傾奇者としてこんな冥利があろうか。とでも思い、かえって喜んだのではないか。だが、相手の家康が上杉家を攻める軍勢を進めていたときに、西で石田三成が挙兵。家康は反転して西に向かった。すなわち後に関ヶ原の戦いと呼ばれる合戦にである。上杉軍としては兵法の常識として家康を追撃し、西の石田三成率いる西軍と呼応して挟撃すべきである。しかしそうはしなかった。なぜだかは正確にはわからない。上杉景勝なりの計算もあったのだろうが、そんなことよりも後ろを向いた敵を追うということが彼の美意識にそぐわなかったのではないか。ともあれ当面の相手を失った上杉家は隣の最上家の攻略に矛先を向ける。

 最上領を攻めていた上杉軍だが、関ヶ原の戦いは思いの外に短時間で終結。こうなれば家康がとって返してくるのは目に見えている。最上領を撤退して守りを固める他はない。味方を無事に退却させるために、上杉家の名軍師といわれ、世に知られた直江兼続が三千騎を率いて殿軍(しんがり)を勤め、退却戦を行うことになった。追う相手の最上軍は二万。圧倒的な兵力差である。瞬時に壊滅させられてもおかしくない。しかしこの殿軍は、類をみないほどの頑強な抵抗を示した。この9月29日の戦いは「北越耆談」によると、10時間の間、距離にしてわずか6キロの間で28回の戦闘が行われたという激烈なものであったという。

 しかし頑張ったとはいえ三千対二万の兵力差である。戦いに度に兵が減っていくと、さすがにどうにもならなくなった。兼続は自分が相手に討ち取られて味方の志気が落ちることを恐れ、切腹しようとした。それを止めたのが慶次郎である。「上杉将士書上」によれば
 「言語道断、左程の心弱くて、大将のなす事にてなし。心せはしき人かな。少し待□□(二字欠)我等に御任せ候」
と言い、わずか5人ばかりを引き連れて最上軍に突進した。このたった5人の猛烈な攻撃になんと最上軍は右往左往にまくりたてられ、ついに逃げだしたという。その間に兼続は堅固な陣を張ることができ、虎口を脱することができた。

 この話だけでもいい加減信じ難いのだが、さらに問題なのはこのときの慶次郎の年齢である。「米沢史談」によれば慶次郎が生まれたのは1541年となっている。とすると、このとき満年齢にして59歳。また「加賀藩史料」にあるように1605年に73歳で亡くなったということであれば、このときは67歳だったということになる。平均寿命が短く、40歳にもなると老兵と言われ、めったに戦場に赴くことなどなかったこの時代にである。どちらの年齢であったにしても、とても常人とは思えない。

 この後、慶次郎は京都に戻り、再び1601年に米沢に向かっている。この26日間にわたる旅は慶次郎自身によって「慶次道中日記」として今も残されている。それから後のことは二説あり。一つは「加賀藩史料」の、前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、1605年11月9日に73歳で亡くなったという話。または「米沢風土記」などにあるように、500石(300石とも)の禄で抱えられ、1612年6月4日に70歳前後で米沢で亡くなったという話などがあり一定しない。

 慶次郎が信濃善光寺に住んだときの作として伝えられる「無苦庵記」にはこう書かれている。
「抑も此の無苦庵(慶次郎のこと)は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し、心は墨に染ねども、髪結がむツかしさに頭(ツムリ)を剃り、足の駕籠かき小者雇はず七年の病なければ三年の灸(モグサ)も不用、雲無心にしてくきを出づるも亦可笑し、詩歌に心なければ月花も苦にならず、九品の蓮台に至らんと思ふ欲心なければ八万地獄に落る罪もなし、生きるだけ生きたらば死ぬるでもあらうかと思ふ」
 おそらく、その生涯において、悔いなどを残すことなどはなかったのではないか。


2003年3月17日

 

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