大野弁吉

              大野弁吉(おおのべんきち) 1801年〜1870年
京都羽根細工師の子として生まれ、20歳頃長崎に出て、医学、天文学、理化学を学び、さらに対馬から朝鮮に渡り、馬術、砲術、算術を究めたという。30歳頃妻の実家である石川県大野村に移住し、没するまでこの山村で過ごした。数々のからくりを作っているほか、「八線算数表」、「測量三角法」、「応象寛暦」などの天文・暦数学の著作も残した。地球儀や工事用の測量機器も製作したという。

             知と銭と閑の三つのもの備わざれば、究理発明すること能わず

 「加賀の平賀源内」とも「加賀のダ・ヴィンチ」とも評される大野弁吉だが、その知識をどこで得たのかははっきりしていない。幼少の頃から四条派の画を描き、20歳で長崎に留学してオランダ人から医学や理化学、天文学など、西洋科学を習得。絵画や彫刻も学んだという。その後、対馬や朝鮮に渡り、帰国した後は紀伊国に出かけ、砲術、馬術、算術、暦学を究めた。エレキテルや万歩計、発火器(ライター)、ピストルまで制作し、また鶴の形をした模型飛行機を作って飛ばし、多くの人を唖然とさせたこともあるという。彫刻も巧みで、名工の域にまで達していた。ほかにもたった一枚の銀板写真を見てカメラを作ったという話さえある。製作年ははっきりしていないが、弁吉が撮った妻のうたの写真などが残っている。

 このように恐ろしく多種多様な才能を持っていた弁吉は、紀伊から京都に戻り、中村屋の婿養子となる。それから北陸の大野に移り住んだ。職業は指物師。家具や机、木箱などの生活用品を作る職人である。だが、現在では仕事の合間に作っていた、からくりの制作者としてよく知られている。からくりの新しいアイデアがひらめくと、食事もとらずに2日も3日も作業場にこもって妻を心配させたそうだ。そのなかでも有名なのは「茶運び人形」だろう。人形の上に茶碗をのせると、客に向かって運び、その茶碗を受け取るとお辞儀をし、くるっと向きを変えて帰っていくというものだ。そのほかにもゼンマイを回すと人形が太鼓をたたき、ネズミが穴からちょこちょこ出てきて、再び穴に入っていく「ねずみからくり」や「鯉の滝登り」「三番叟人形」「品玉人形」などの作品を作っている。

 そんな弁吉のよき理解者であったのが「銭五」とも呼ばれた加賀の豪商、銭屋五兵衛である。弁吉は富や名誉には全く無関心で、天才ににありがちな気まぐれもの。仕事は気が向かなければ頼まれてもやらない。そのせいで夫婦の生活は常に苦しかった。親交は深かった銭五からでさえ弁吉は生活の援助を受けようとしない。一度、貧しさを見かねた銭五が米を持ってきた時も、弁吉はひどく憤慨した。けれども銭五は、「俺はおまえに施しをするつもりはない。これは今から頼む指物の前払だ」とさらに味噌、醤油、野菜、魚、弁吉の大好きな酒、そしてうたの着物まで運び込んだという逸話が残っている。

 銭屋五兵衛との親交は20年以上にも及んだ。だが、五兵衛は河北潟埋め立てに関して疑いをかけられ、投獄されて無実を訴えながら非業の死を遂げる。三男の要蔵が潟に毒を投げ入れたという容疑だが、どうやらぬれぎぬらしい。加賀藩はそれまで銭五をさんざん利用して藩ぐるみで密貿易をしていた。その密貿易が幕府に知られ、嫌疑をかけられそうになったので、罪を五兵衛一人に背負わせて藩の責任を逃れようとしたのが真相のようである。よき友であり理解者だった銭五を失った弁吉の寂しさは人一倍だったに違いない。人を避ける性質はますます強くなったという。

 好奇心の固まりのような人物だったのだろう。器用貧乏のようにも見えるが、本人は富や名誉には全く関心がなかった。平賀源内に比べると無名であるが、才能、特に独創性は源内より優れているように思える。

 弁吉は、1870年(明治3年)70歳で生涯を終えた。弟子は多くはなかったが、米林八十八、朝倉長右衛門をはじめ和算、医術、彫刻、写真など多分野で活躍した人たちがいて、明治期に活躍した。


2006年6月12日

 

わんだあらんどへ戻る


トップページヘ戻る

奇人・怪人伝に戻る