フェニックスと鳳凰

 フェニックスについて最初に語った作家はヘロドトス(B.C484?〜B.C430)だが、彼によれば「フェニックスはめったに姿を現さない鳥で、へリオポリスの住民によれば、500年ごとにエジプトに現れる」と言っており、また「私はその姿を絵でしか見たことはないが、その絵のとおりだとすると、その羽毛は金色の部分と赤の部分とがあり、その輪郭と大きさは鷲に最もよく似ている」と書いている。
 
 フェニックスの外見だが、ヘロドトスは猛禽類をイメージしているが、一般にはエジプトの青鷺ベンヌがモデルであったとされている。ベンヌは聖なる鳥で、太陽神ラーの魂の象徴とされ、昇っては沈むことを繰り返す太陽と同じく死後の復活をあらわす鳥であった。ただ、古代においてはフェニックスのイメージは一定しておらず、猛禽類であったり、孔雀であったり、紅鶴であったり、またはアジア産の錦鶏鳥であったりする。また、フェニックスが自らを火で燃やしてその灰からよみがえるという話も後年になってからのことであり、一世紀ローマの地理学者ポムボニウス・メラの「地誌」に書かれているのが今のところ最も古い文献だろうと言われている。

 おそらく古代においても、フェニックスが実在の存在だと信じていた人は少なかったようである。生息地であるアラビアにおいてもその伝承がないことから全くの架空の鳥と考えられてきた。最初の記述者ヘロドトスでさえ半信半疑であったし、「博物誌」の著者プリニウスも架空の動物であろうと言っている。実在かどうかということよりも、再生のシンボルとしての役割が重要視されたようだ。

 また、ヨーロッパではフェニックスと訳される中国の伝説的な鳥である鳳凰との関係を考える学者もいるようだが、もとより直接的な関係はない。鳳凰は神鳥であるからフェニックスと同じく不死の鳥かもしれないが、再生と復活については述べられてはいない。鳳凰についてはどんな姿をしていたのかを示す文献は戦国末期まではほとんど見あたらず、ただ立派な鳥として漠然と考えられていたらしい。「山海経」という中国の地理書になっと、やや具体的なイメージが描かれていて、
 「(渤海には)鳥がいる。鶏のようだが五采(青・白・赤・黒・黄の五色)で文(あや)どられ、鳳凰と名付けられている。首の文を徳といい、翼の文を義といい、背の文を礼といい、胸の文を仁といい、腹の文を信という。この鳥は、飲食は自ずから然(しか)あるままにし、自ずから歌い自ずから舞い、これが現れれば天下は安寧となる」
とされている。

 日本に鳳凰が登場するのは古墳時代の末期である。ちなみに日本では鳳凰を描くときに白桐を添えている。悟桐が中国にしかないために描き換えられたのだろう。

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