え 江 戸 町 奉 行
初代の江戸町奉行は、天正年間に板倉勝重の名が見られる。だが、テレビなどでおなじみのように、南北に分かれて職制が確立したのは、三代将軍家光の頃である。
さて、この江戸町奉行だが、職務は多忙で、江戸市中の民事、刑事、交通行政のすべてを取りしきり、また、寺社奉行などと一緒に、評定所の一員でもあった。それで録高は三千石。なんとなく重い職のわりには軽く思える。
江戸町奉行の中でも有名な、遠山の金さんという名で知られる遠山景元は、勘定奉行から、町奉行になり、大目付を経て、再び町奉行に就任している。江戸時代を通じて、二度町奉行に就任したのは、この景元ただ一人だけである。
さて、この金さんに本当に入れ墨があったのだろうかということであるが、実際にはなかったという説が多い。しかし一方では、放蕩していた時期と入れ墨の流行の時期が重なっていたため、あってもおかしくないという説もある。