歌舞伎と浮世絵と

 ここにリンクを貼っている、ホームページ「八尾物語」の管理者のいとうさんと話をしていたら、歌舞伎や文楽についての話題が出た。今は何か特別な世界のように思われ勝ちだが、これらはもともと庶民の娯楽だったものである。本来は普通の生活に根ざしたものだったのが、現在からかけ離れたもののようになってしまっているというのは、日本という国が自分の国の文化を今まで大事にしていかなかったせいである。という話だった。同感である。

 浅学のために歌舞伎や文楽、特に文楽のことはよくわからないのだが、歌舞伎が庶民の間の娯楽であったことは浮世絵によっても明らかである。どういうことか話を進めよう。

 今は芸術品扱いとされているが、浮世絵も昔は庶民の楽しみだった。浮世絵が広まったのは、木版画によって大量生産ができ、値段が安くなったからである。最初は確かに多色刷りが発展したのは金持ちの道楽からである。暦が味気ないのをどうにかしようとした俳人や大商家の主人たちが飾っていて面白く、暦としての用を足し、ついでに知人に配って、自分の洒落っけを認めて貰おうとして金に糸目を付けずに作った遊びから、技術が進歩したものである。

 しかし技術が進歩していくと、どんなものでもそうだが、大量生産の可能なものは、例え最初に経費がかかったものも、だんだん安価なものになっていくものである。
 浮世絵というのは一般に、美人画と、役者絵と、風景画くらいしか普通の人は思い浮かばないだろうと思う。しかし、実際はもっと多様なものである。前述の絵暦の他に例を挙げていこう。

[掛け物絵]    今で言うポスター。あるいは安価な掛け軸。
[双六絵]      その名の通り双六に使う。今の少年雑誌の付録みたいなもの。
[羽子板絵]    羽子板に貼って使うためのもの
[組上絵]      切り抜いて、のりで貼って立体的に組み立てる。
[柱絵]       柱に貼って飾る。
[団扇絵]       団扇に貼るためのもの。

 他にもたくさんあるのだが、これらのものは全て普通に買えば、庶民には高くて手が届かないものが多い。絵師の肉筆の絵なんてものを買えないので掛け物絵を買う。飾り立てた羽子板には手が出ないので板に羽子板絵を切り取って貼る。団扇を次々と買い換えるとお金がかかるので、団扇絵を買って団扇の絵を張り替える。浮世絵とはそんなものだったのである。

 そして役者絵も芸術作品として作られたのではない。今で言うブロマイドとして作られた。
 東州斎写楽なんかの役者絵のタイトルには、例えば「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」とか、「嵐龍蔵の金貸し石部金吉」などというものが付いている。ところが絵にはそんなことは何も書いていない。なぜこんなタイトルが付いているのだろうか。
 答えを言うと、先ずは浮世絵に押してある極め印というもの。これは一種の検閲の印で、時代によって形が変わっている。これでおおざっぱな時代区分ができる。

 そしてこれから本題にはいるのだが、歌舞伎にはどんな役者がどんな役を演じたか、どんな服装だったかという微に入り細の渡っての資料が多く残っていて、それが整理されたものがあるのだ。
 役者は必ず決まった紋を使用しているので、着物に書かれた紋を見ればこの役者が誰だかすぐにわかる。後は服装でどんな役柄かはほぼ見当をつける。役者の名前がわかって、役柄の見当がついたら、後は歌舞伎の資料を見て、使用された極め印の時代の辺りを探してみればよい。と、こうやって特定されたものである。

 今はそうやって調べることになるが、江戸時代の人はどうだったのか。
 最初に書いたように浮世絵を買った当時の人は、ほとんどは庶民である。役者絵が大量に作られたのは、庶民に需要がそれだけあったからだ。あるいは売るときには誰の絵か書いていたのかもしれないが、説明も書いていない浮世絵を見ただけでも、当時の人はその絵に描いてあるのは誰で、どういう舞台の、どういう役柄かというのがわかったのだろう。資料が多く残されているのも、それだけ人々の関心が高かったからである。

 明治維新があって、人々は日本の古来の文化を否定してきた。廃仏毀釈などはその典型だが、明治からしばらくは日本的なものから目をそらしてきたのである。それを見直させたのは皮肉にも外国人によってである。写楽もユリウス・クルトがレンブラント、ベラスケスと並ぶ三大肖像画家と持ち上げなかったら、無名の浮世絵師として今も知られることはなかったかもしれない。いや、それどころか、浮世絵に限らず、日本画全てが、日本画の恩人と言われるフェノロサがいなければ滅びてしまっていたかもしれないのである。

 文化を次の世代に残しておくというのは、前に生きたものとしての一つの役目だと思う。一旦失われてしまったら、また取り戻すというのは困難になるからだ。他の民族のために文化が継承されなくなることは世界的にもあることだが、自ら消し去ってしまうというのは愚行ではないかと思うのだが・・・。

2001年6月10日

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