写楽の謎

 先日、東洲斎写楽の正体を探るという番組をテレビで放映していた。その番組では斎藤十郎兵衛を含む複数絵師という推測で、昭和18年に美術評論家の宗谷真爾氏が発表した「共同制作説」の変形とも言えるものだった。
 そもそも、東洲斎写楽が謎の絵師とされたのは、江戸末期に書かれた「浮世絵類考」という浮世絵研究の基本文献ともいえる本に書かれている「写楽、天明寛政年中の人。俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿州公の能役者なり」という記述に疑問が持たれ、阿波に斎藤十郎兵衛なる能役者は存在しなかったという可能性が出てきたからである。それで一気に疑問が噴き出した。もし無名絵師だとしたら、なぜ、無名の絵師がいきなり大判錦絵、それもコストの高い雲母摺りからという破格のデビューを果たすことができたのか、なぜ、一年足らずで作品の発表をやめたのかと。
 それからは写楽別人説があらわれ、30種類を越える説が出て、まさに百花繚乱といった有様になった。しかし昭和52年に九州大学教授の中野三敏氏が、古文書「諸家人名江戸方角分」に、八丁堀地蔵橋住の写楽斎という浮世絵師の名があったと発表し、その後、明石散人氏や浮世絵研究家の内田千鶴子氏の調査によって斎藤十郎兵衛の存在が確かなものになったのである。

 そうなると別人説はすべて崩壊する。斎藤十郎兵衛の存在が明らかならそれ以上に疑う理由がないからだ。また、写楽の同時代の浮世絵師である栄松斎長喜が、写楽は俗称斎藤十郎兵衛だと語ったという「浮世絵類考」の写本が天理大学図書館に存在しているということも明石氏の調査でわかっている。
 写楽=斎藤十郎兵衛として改めて検証すると、破格のデビューを果たしたのは版元の蔦屋が商売人
の勘で勝負をかけたということも考えられるし、1年足らずで筆を折ったのは、素人画家の悲しさで、一定のレベルの作品を発表し続けることができずに人気もなくなったからだとも考えられる。また、画家が本職でなければやめるのも簡単だろう。さらに明石氏は今まで定説となっている発表期間が間違っていて、黒雲母摺りの大首絵は実は最初の作品ではなかったという説を出している。これはさらなる調査が必要だと思うが、そうなると突然の抜擢の不思議もなくなってくることになる。

 写楽別人説から思うのは資料を扱うことの難しさである。例えば梅原龍三郎氏が出した写楽=豊国説の「写楽 仮名の悲劇」は、浮世絵画家を芸術家とした決めつけからくる推論が少し強引すぎるような感じはあるが、その推測の仕方は特別におかしいものであるとは思わない。他の別人説にしろ同様で、見方が変わるとこういう推測もありだなと思ってしまう。それが写楽という対象だけで30種類以上の説である。限られた資料から過去を推測するという難しさがよく表れていると言えるだろう。
 しかし、それがまた面白いところでもある。一つの資料から多くのがことが推理されるということは悪いことではない。この写楽の謎から浮世絵に関心が集まり、浮世絵研究が進んだということもあるだろう。結局振り出しに戻ったとはいえ、決して無駄なことではなかったと思う。またこれからもいろいろな視点で研究が進んでいくことになるのだろうから。

2004年.5月22日
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