2003年8月11日、英国航空のビジネスクラス「クラブ・ワールド」を利用する機会に恵まれた。フルフラットになるシートの周りは、広々とした空間が広がっていた。隣のシ−トとの間には大きな扇子のような仕切りがあり、プライバシーが保たれるように工夫されている。その広い空間を独り占めできるのである。食事と飲み物も素晴らしい。乗務員は一人一人の乗客を名前で呼ぶ。至れり尽せりのサーヴィス内容である。成田からロンドンまでの長いフライトも快適に過せた。
航空券は正規割引の往復エコノミー・クラスで、予約はBA008便であった。しかし、搭乗する飛行機が少し遅れて到着した。ロンドン経由でニューヨークへの最終便に乗り継ぐため、成田のカウンターで相談したところ、ご厚意で早く出発するBA006便に変更していただいた。元々006便を望んでいたのだが、満席とのことで予約を入れたのが008便である。カウンターでは、座席は窓側か通路側かと尋ねられた。満席なのに希望を訊くのかと訝りながらも、窓側を頼む。チェックインを済ませたのが出発の50分程前で、キャンセルがでたものと思っていた。搭乗券に記された座席番号は61A。そのまま真直ぐ出国手続きに向かう。
出国手続きを並ばずに終え、免税店でタバコを購入後搭乗口に向かう。ロビーで待つこと暫し。出発予定時刻の7分前に搭乗が始まる。長い列が搭乗口にできるが、並ばず椅子に座り続け列が短くなるのを待つ。最後の方で機内に足を踏み入れ、いつものようにドア付近に佇む乗務員に搭乗券を示す。そのまま真直ぐ後方キャビンへ向かおうすると、乗務員に呼び止められる。何と、座席は2階席にあるとのこと。階段を昇ってビックリ。広い客室には、シートが疎らにあるだけである。ここで初めて、指定された座席がビジネスクラスであることに気付く。それまでは、ずっとエコノミーだと思い込んでいた。
割引航空券の上、搭乗便まで変えてもらったのだ。「これではいけない。分不相応だ。」と思う。エコノミークラスでなければいけないのだ。早速乗務員に「何かの間違いではないか」と尋ねる。すると、「今日はエコノミーは満席です。どうぞご遠慮なく。」と微笑まれる。どう説得するかと思いを巡らせていると、「間もなく出発です。」と物腰柔らかく言われる。この厚意を受けるしかなくなった。
指定された窓際の席を見てまたビックリ。何と後ろ向きなのだ。キャビンを見渡すと、通路を挟んで横4列並ぶ座席は、通路側は前方を向いているが、窓側は後ろ向きである。しかも背もたれが互い違いになっている。一人一人の空間を広く取るための、素晴らしい工夫である。当然のように、窓側に座る乗客は少ないようだ。若干ある空席は全て窓側であった。2階席に乗るのも初めてなら、後ろ向きに飛ぶのも初めてである。この得難い経験に、一人喜ぶ。
座席に着くと、背もたれは45度位倒れている。離陸に備えて垂直にする。リクライニングは電動式になっており、試行錯誤の末、何とか動かすことが出来た。暫くすると乗務員がベルト確認に来る。シートを離陸位置に直すと言って、シートのボタンを押す。すると、はじめの45度倒した位置に戻る。離陸の時は垂直にするのではないかと尋ねると、この倒した位置が正しいのだと言う。ついでに前方に収納された小型TV画面を引き出してくれた。これから非常時対策ビデオが流されるのだ。プッシュバックされてから暫くすると、ビデオが放映される。放映中に機体は自力走行を始めた。ビデオによると、後ろ向きの座席では非常時には座席に身を委ね、腕は胸の上で交差させるとのこと。なるほど、理に適っている。改めて後ろ向き座席の特殊性を認識する。
機体は誘導路をゆっくり走行し、滑走路へと向かう。滑走路端に着くと、そのまま正対し停止する。着陸機はないようだ。暫しの静寂の後、エンジンが唸りを上げる。心が最も高揚する時である。ブレーキが放され、機体はゆっくりと動き出す。そして徐々に加速して行く。円曲した窓の左下にエンジンが歪んで見える。最大推力で回転しているはずである。しかし、いつもの加速感が全くない。窓の外を景色が流れて行かない。と言って、機体に異状があった訳ではない。後ろ向きに座っているのだ。後方に流れて行く景色が、いつまでも視界に残っているだけである。離陸後、いつもと違う光景を楽しんだ。
機体が浮き上がると、シートの背もたれを傾けていなければならない理由が分かった。機首上げによって機体が傾くと、背もたれはほぼ鉛直方向になるのである。地上で背もたれを真直ぐにすると、離陸上昇中は体が下向きになり、シートは身体の上から覆い被さるようになってしまう。気付けば簡単なことだが、実際に体験しないと分からなかった。己の不明を恥じるのみである。
背もたれを傾けておくと |
離陸時の傾きでも、楽な姿勢を保てる |
真直ぐのままだと |
離陸時は、かなり厳しい |
巡航中は、何の違和感もなく後ろ向きに飛び続けた。滑走路09Lに向かう機窓をウィンザー城がゆっくりと流れ、搭乗機は晴天のロンドン・ヒースロー空港に着陸。11時間16分の空の旅であった。貴重な体験の機会を与えてくれた英国航空のご厚意に、心よりの感謝を申し上げたい。
(2003.09.22. 記)