乗機は順調に加速・上昇を続けている。今最大の関心は、音速突破の瞬間である。ベルトサインが消えた時点で、マッハ計は0.7代を示していた。隣席のスコットランド人も、その瞬間を見たがっている。それにしても、前方に居る乗客の頭が邪魔である。首を伸ばしたり傾けたりしながらその瞬間を待つ。ちょうど良いストレッチになったのか、肩が軽くなる。
マッハ計は、20〜40秒で0.02ずつ位のペースで上がっている。加速のペースは一定しないようだ。これは風の影響であろうか。隣人とお互いの死角を補いながらマッハ計を読み上げる。
ついに0.8台が終わり、0.91を示す。現時点でも、我人生最速の飛行である。いよいよ音速突破が近い。決して見逃さないようにと、全身に緊張を走らせる。時計に目をやる頻度が増える。頭の中で刻む時間と、実際の時間を補正するためである。
マッハ0.93が示される。隣人もその瞬間を前に緊張しているのか、ほとんど無言である。他の乗客もマッハ計に注目しているのだろうか。機内は妙に静かである。全神経をマッハ計に集中しているため、周りの話し声が聞こえないだけかもしれないが・・・
マッハ0.95になる。隣人がコール・アウトする。私も確認。数字を見つめる。来るべき瞬間はそこまで来ている。目を離す訳にはゆかない。ここまで拘るのには訳がある。「知らないうちに音速を超えていた」と多くの搭乗記に記されている。そんなに見逃し易いものなら、絶対に見てやると心に決めていた。捻くれ者の意地である。
ここで異変が起きた。米東部夏時間12時44分05秒(離陸後10分56秒)、ついにその瞬間が来た。マッハ計が一足飛びに1.00を表示したのである。高度は26,000ftを示している。間髪をいれず、「マック・ワン」とコール・アウト。少し声が大きかったか。隣人は悔しそうに、「見逃してしまった」と告白する。これがデジタル表示の恐ろしさである。数値の変化が突然現れるのである。ベルトサインが消えた直後に取り出したデジカメで、表示を撮影。しかし、残念ながらブレてしまった。
音速突破の瞬間に、衝撃波が発生する音が聞こえるかと楽しみしていた。残念ながらそのような音は聞こえなかった。その代わり、「ザーッ」と言う音が大きく響き始めた。空気が機体を擦る音のようだ。摩擦熱が伝わっているか、窓を触ってみる。まだ冷たい。着陸まで、折に触れてこちらもモニターすることにした。
マッハ2まではまだ間がある。暫し緊張を緩めることとする。飲み物のサービスが始まった。初めに配られたつまみはピーナッツではなく、2cm角のカナッペが3切れ、木の葉型の陶器の皿に載せられて出された。暫くすると、シャンパンを勧められる。この間にも機体の加速は続いている。マッハ2を祝うために、今はシャンパンには手を付けないことにする。食事の準備などで傍を通りかかる乗務員は、飲み物に手をつけないのを不思議に思ったに違いない。
米東部夏時間13時01分45秒(離陸後28分34秒)、マッハ計が2.00を示す。高度は48,500ft。やっと祝杯をあげる。少しぬるくなり、多少気が抜けてしまっているが、仕方がない。それでも上等なシャンパンは美味である。
これ以降、減速するまでこの速度を維持する。遅れを取り戻すために、更に速度を上げるかも知れないとの期待は実現しなかった。技術的な制約があるかもしれないが、その後の食事サービスを見るとむしろ飛行時間は切り詰められないのかも知れない。実にゆったりと、しかも高密度でサービスが続いたのである。因みに、メニューを記すと、
オードブル パイナップルのカルパッチョ(生生地巻) ブルーベリー・ラズベリー添え アントレ デザート |
オードブルに果物が出てきたのには驚いた。ブルーベリーとラズベリーは冷凍物である。アントレはステーキを選択。英国式朝食が含まれているのは、定刻通りなら朝食になる乗客が居るためであろう。そう言えば、メニューには「ブランチ」と記されている。デザートは、甘いものが苦手なのでチーズを選択した。一緒にポートワインを勧められる。喜んで頂く。甘いものが苦手でも、これだけは別である。尚、フォーク・ナイフはプラスチック製であった。2年前の事件の影響はまだ尾を引いている。
食事の合間に、マッハ計・高度計を撮影するために席を立つ。席に戻ると、他の乗客も続いていた。写真撮影のために行列ができる。やはりこの便は、時間を惜しむビジネスマンよりも、超音速飛行を楽しむ(コンコルド退役を惜しむ)乗客の方が多いようである。このときの高度は、下記の写真のように52,500ftである。高度50,000ftに達したのは、米東部夏時間13時06分ちょうど(離陸後32分49秒)である。この日の最高高度(巡航高度)は55,000ftであった。
マッハ2を表示して4〜5分経った頃、隣人が肩を叩き、窓を触ってみろと言う。恐る恐る触ってみると、ほのかに暖かい。ぬるま湯くらいの温度だから、40℃位か。その後度々触れてみたが、やはりぬるま湯くらいの温度である。ずっと触っていられないくらい熱くなると何かで読んだ記憶があるが、そこまで熱くはならない。勿論外部では、目玉焼きが焼けるくらいの温度になっているだろうが・・・ 機内誌によれば、この熱で機体は6〜10インチ(15〜20cm)伸びるという。
巡航中の迎角は、他のジェット旅客機と比較すると小さいように感じた。例によって、グラスの赤ワインによる測定である。ただ、テーブルが少し傾いていたようなので(巡航中に水平になるようにしていた??)、実際のところは不明である。
米東部時間13時19分50秒(離陸後46分39秒)、数秒に渡ってかすかな揺れを感じる。震度2くらいであろうか。これがこの飛行でおきた唯一の揺れである。コンコルドは非常に安定性の高い機体であることが良く分る。たまたまこの日、離着陸時を含めて全行程に渡って気流が安定していただけなのだろうか。とにかく、今まで経験した中で、一番安定した飛行であった。
トイレに立つ。これも是非見たい場所の一つだ。席を立ち、後方へ向かう。しかし、あるのはギャレーだけ。「何か用か」という顔で乗務員が見つめる。「トイレがこっちにあると思った」と話して、Uターンする。2つの客室を分ける位置に左右に一つずつ、計2ヶ所ある。後日調べたら、前方搭乗口付近にもう一ヶ所あるようだが、その存在は気が付かなかった。満席の乗客100人と、乗員9名(この日は、操縦室に5名、客室に6名が乗務していた。)では、36人強に一箇所になる。飛行時間が短いので他の機種と比べて余裕があるのだろうか。
進行方向左側に入る。非常に狭い。1人が立つのがやっとの広さである。向かって立つと壁が目の前に立ちはだかる。昔懐かしい、青い水が出る水洗式である。洗面台も小さい。写真を撮ろうとカメラを持って来たのだが、身動きが取れそうもないので、諦める。
隣人も暫し席を立つ。その隙を突いて、窓際の席につく。下のほうを見ると雲が広がっている。通路側から見た空の色は他のジェット旅客機と変わりないように思えた。しかし窓から上方を見ると、多くの著作が述べるように濃い紺色をしており、飛行高度16,000m(55,000ft)を実感する。
ゆったりとした時の流れは、しかしあっという間に流れて行く。ふと気付くと、速度は既にマッハ2を下回っている。コンコルドと別れを告げる時は、刻一刻と迫っている。機体は徐々に減速しながら高度を下げて行く。
(2003.09.01. 記)