機体は徐々に減速し、高度を下げている。一方客室内では機内販売が行われている。キャビン前方で販売が始まったが、気の早い乗客は後方から出かけていってお目当ての品物を購入している。一番の人気商品はダイキャスト模型2機セットである。価格は10ポンド、2000円を少し切るくらいである。カタログの中で一番安い品ではあるが、一番思い出となる品でもある。右後に座る、搭乗直後に記念写真を撮った夫妻も購入したようだ。夫人が中身を取り出して眺めている。何か分からぬが、白い紙を持って席に帰る者が多い。減速に伴って何か面白い現象が起きるのを期待していたので、私は席に留まりワゴンが来るのを待つ。模型の購入を既に決めていた。
ワゴンが来る前に、通りがかった乗務員に隣人が声を掛ける。彼も模型セットを手に入れたいようだ。既に品切れと、彼女。(一番年嵩の女性。チーフであろう。紹介が遅れたが、今回の乗務員は皆ベテラン揃いで、一番若く見えたのは、先に紹介したブルース・ウイルス似の男性。他の女性陣も含め、皆気さくで陽気な紳士淑女であった。)彼とともに落胆する。しかし、ここで注文すれば後日郵送するとのこと。隣人は購入を諦めたが、私は注文した。すると、白い紙を渡される。注文書である。席に戻る連中が手にしていたのは、この注文書であったのか。これで謎が解けた。注文書を見ると、配達まで4週間ほどかかる旨が書かれている。乗務員にもそう念押しされる。必要事項を記入して乗務員に渡し、手続きが終了する。
英国夏時間(以下全ての時刻はこれで示す)20時21分(離陸後2時間48分)、ついに音速を下回る。同時に機内に響いていた、空気との摩擦音が消える。エンジン音が聞こえていたかの記憶はない。不思議な静寂だけが記憶に残っている。ついでに高度を記録しなかったのは、つくづく残念である。
隣人が再び窓に触れ、触ってみろと言う。触ってみると、既にほのかな熱は失われており、冷たくさえ感じる。多分マッハ2を下回った頃から、冷えていったのであろう。改めて減速したことを実感する。
20時30分(離陸後2時間57分)、ベルトサインが点灯する。すかさず機長からアナウンス。15分で着陸するとのこと。機内を見回すと、客室乗務員たちはまだ機内販売などで忙しそうだ。
先程告げられた着陸予定時間が刻々と近付いて来る。席を立つ乗客はさすがにいないが、客室乗務員たちはまだ忙しそうに動き回っていおり、着席する様子はない。大丈夫かと思いで、ハラハラしながら遠くから見守る。
20時41分(離陸後3時間08分)、再び機長からのアナウンス。空域が混んでいるため、8分ほど上空で待機するとのこと。客室乗務員についてはこれで一安心。こちらの心配を他所に、何やらまだ忙しそうだ。
これから述べることが起きた時刻と高度は、残念ながら記録していない。また、コンコルドならではの現象ではなく、どんな航空機ででも体験できると思う。しかし、私自身100回目の記念すべき着陸で初めて体験した現象である。ニューヨークを出発して以来、ずっと真昼の輝きを続けていた空が突然、あたかも電燈を消すかのように、漆黒の闇に包まれたのである。東へ向かうことと高度を下げることによって、地球の陰(つまり夜)に入っただけのことではあるが、夕焼けなど何の予兆もなくいきなり真っ暗になり驚いた。下にその概念図を示す。下方の半円が地球であり、青い部分は日光が届く領域、黒い部分は地球の陰である。太陽は左下遠方にあり、黄色い矢印が航跡である。
地上の日没時間近くにアプローチに入ったため、この現象を体験できた。迷惑を被った乗客諸氏には申し訳ないが、「遅れ」の賜物である。尚、この日のロンドンの日没時刻は20時半頃である。
20時52分(離陸後3時間19分)、外部から風を切る音が聞こえる。初めギア・ダウンかとも思ったが、どうやら違うようである。エレボンを操作したのか、はたまた機首を折り曲げたのか。いずれにせよ空気抵抗を伴う、操作が行われたのは確かである。着陸は近い。
20時55分(離陸後3時間22分)、機長が着陸まで後2分と告げる。客室乗務員はまだ忙しそうだ。
20時56分(離陸後3時間23分)、下方からガタンという音が響く。そして空気を切る音が轟く。ギア・ダウンである。座席からは見えないが、窓を覗けば地面が近付いているのが分かることだろう。客室乗務員たちは、仕事を切り上げ各自の席に向かう。
窓から地上の明かりが見えるようになる。夜の帳に点々と灯る白い灯火が、線となってに後方に流れて行く。いや、後方ではない。進行方向左側の窓を、左上がりにに横切っている。対角線方向に走っている感じである。(下の図)機体が大きく機首を上げていることが分かる。機首を折り曲げた着陸時の写真を思い起こす。
しかし、この迎角を目でこそ確認したが、実感は全くない。デジカメの紐を取ってぶら下げてみる。万が一の場合を考えると非常に危険な行為ではあるが、機体の傾きを確認したい誘惑には勝てない。短時間で済ませる。隣人が何をやっているのか尋ねるので説明すると、面白がってもう一度やれという。再度短時間、カメラをぶら下げる。2度ともカメラは傾いては見えなかった。しかし、天井の線とカメラの紐が作る角は直角ではなかった。私の目では天井のほうが傾いていた。これで、離陸の時にも、機体の傾きが感じられなかった理由がわかった。無意識のうちに、上半身を重力方向に合わせていたのである。(下の図)
ただ、上半身を起こしていたと気付いたものの、座席の背もたれに身を任せるとの発想は浮ばなかった。あの時座席にもたれかかってさえいれば、この貴重な体験をより実感ができたはずである。非常に悔やまれる。これから飛行機に乗るときには、意識的に座席にもたれかかるようにする。これが今回得た教訓である。
20時59分43秒(離陸後3時間26分32秒)、ついに空の旅に終止符が打たれる。接地である。ブレーキが掛けられ逆噴射がかかる。しかし、暫く機体は天を仰ぐような姿勢で走る。まるで空との別れを惜しむかのように。このときの滑走路は、後に操縦士から聞いたところによると、27Lである。
接地の軽い衝撃を受ける。機体は減速しており、慣性の法則に従って体が前のめりになるはずである。しかし、何故か座席に押しつけられる。ゴー・アラウンドするのだろうか。耳を澄ましてもエンジンの高鳴りは聞こえない。暫くすると今度は、前方下方向に押されるような力を受ける。勿論、前の座席にぶつかるほどの力ではない。初めて体験する不思議な現象に、暫し戸惑う。機体は長い滑走の後、誘導路へと曲がり、ターミナルへ向けての走行を続ける。
接地以後受けた「不思議な力」については、後日説明がついた。やはり慣性の法則は普遍である。当初座席に押し付けられたのは、コンコルド独特の大きな迎角による。接地以後機体は後ろ向きの制動の力と、機首を水平に戻す下向きの力を受ける。そして乗客の持つ慣性はそれぞれの逆方向に働く。その上向きの慣性が座席に身体を押し付けたのである。別の言い方をすれば、気体を水平に戻すとき、座席の背もたれが身体に向かってきたのである。この時無意識に身体が重力方向に合わせようとすれば、この力を一層感じることになるであろう。また、前輪が接地し機体の下向きの運動が止まると、今度は身体が下向きに動きつづけようとする。これが第二の力の正体であろう。ニュートンが生まれた国で得た結論である。
機体は飛行の余韻を残しながらゆっくり、しかも着実にターミナルへ向かう。気の早い乗客たちは、既に降りる準備を整えている。21時04分、第4ターミナルへスポット・イン。憧れのコンコルドでの旅はついに終わった。頭の中を、様々な場面が去来する。タイマイ叩いて乗った価値はあった。乗務員の方々に感謝。
(2003.09.02.記)