機上の空論

飛行機に込めた思い ― 「カサブランカ」と「独裁者」

 

ライト兄弟による人類初の「有人動力飛行」から100年以上過ぎ、今日では航空機は非常に身近なものになった。数多くの人々がこの瞬間にも大地から離れて大空に浮んでおり、それは極々日常的なこととなっている。これは言い換えれば、幾ばくかの時間的・金銭的余裕があれば誰でも乗客として気軽に飛べるようになった、ということである。

そのせいか、近年航空に関して経済の文脈で語られることが多い。民間航空が企業として存在し、乗客が運賃の対価として輸送サーヴィスの提供を受けるのだから、経済の文脈で語られるのは当然であり、重要なことではある。しかしそれに反比例するように、空を飛ぶことの「夢」や「希望」が語られることが少なくなってきているように見える。そこに一抹の寂しさを感じるのは、筆者のみであろうか。

ここでは、60年以上前に作られた2本の映画で描かれた飛行機に懸けた熱い思いを見てみよう。共に非常に特殊な時代背景の下、非常に特殊な目的(政治的目的)で制作されたものではあるが、その思いは時代を超越するものと思う。

1本目はご存知「カサブランカ」である。ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン主演のメロドラマであるが、米国での戦意高揚とドイツ占領下のフランス・レジスタンス支援を意図した作品である。余談ではあるが、この作品はかなり慌しく制作されたようで、ほとんど準備無く撮られたらしい。後に米大統領となるロナルド・レーガンが当初主演することになっていたそうだ。

大詰めのカサブランカ空港のシーン。自由の地リスボン(第二次大戦では、ポルトガルは中立国)への便が出発する。使用されるのは、ロッキード14「スーパー・エレクトラ」か同18「ロードスター」だったと思う。垂直尾翼が2枚ある単葉低翼、尾輪式の双発機である。その機首には、*「タツノオトシゴ」のマークが入っている。エールフランス機なのだ。筆者自身が確認したのではないが、F-AMPJとフランス籍のレジまで入っているとの事。尚、これは実機ではなく模型を使って撮影されたそうで、当時(戦前)エールフランスが実際にこの機材を使ったことは無かったようである。

*筆者自身ずっと「ペガサス」がモチーフだと思っていたが、今回調べたところ「タツノオトシゴ(sea horse)」だと判明した。元々はエール・オリアン(Air Orient: 1930年東洋路線を運航していた2社が合併して設立。)が使用していたもので、1933年に「最初のエールフランス」が数社を統合して設立された後も、シンボルマークとして使用され続けている。

ここで注目したいのは、ポルトガル航空(あるいはパンナム)など他の航空会社ではなくエールフランスだというところである。フランスの誇り・文化・独立(あるいは国そのもの)などを、一航空会社(国営ではあるが)に象徴させている。そして紆余曲折を経ての離陸は、自由・解放を意味していると思う。

映画の文脈からすれば、それは特殊な状況下での特定の国について語られてはいるが、その思いは広く普遍性を持っている。どの国の航空会社といえども誇りや文化を象徴することができるし、乗客もその誇りや文化を楽しむ余裕が欲しいものである。そして飛ぶことは、地上に生きるものの宿命である重力の束縛から解放され、自由を謳歌することなのである。そんなことを感じされる、一場面であった。

さてもう一本の映画は、こちらも有名なチャップリンの独裁者 (The Great Dictator) である。この映画には飛行機に関する場面が三度ある。

先ずは冒頭に複葉単発のオープン・コックピット機(戦闘機?)が登場し、そこでチャップリン扮する「ユダヤ人の床屋」が後に独裁者排除の同志となるシュルツ司令官と出会う。この機はあえなく墜落し負傷したチャップリンは長く入院生活を送ることになってしまう。傷が癒えて帰郷しら、故国トマニアでは独裁者ヒンケルが君臨しユダヤ人迫害が始まっていた・・・

この場面は、トマニア(ドイツ)の、そしてユダヤ人をはじめとするそこに住む人々の悲しい運命を表しているのではないだろうか。即ち、飛行機はカイザーが君臨する帝国を、病院生活は高福祉のワイマール共和国を暗喩しているように思える。飛行機は非人間的「帝国」の象徴ではあるが、反面自由を愛するものの出会いの場としても描かれている。チャップリンは飛行機が持つこの二面性、軍用的側面と民事的側面を鋭く見抜いていた。それは、残る二つの場面でくっきりとした対照をなしている。

飛行機に関する第二の場面は、映画の中程、ヒンケルがバクテリア(イタリア)の独裁者ナパローニ(ムッソリーニ)と会見し、共に軍事パレードを閲兵する場面である。2人の独裁者は、如何に自国の軍備が優れているか互いに競いあう。そこに飛行機も登場するのだが、画面では2人の独裁者の姿だけが映し出され、飛行機は音だけで表現されている。

音だけで表現することで、チャップリンは軍拡競争の愚かさ・虚しさを暴き立てている。「あんなものはただ喧しいだけで、実体は無いのだ」と訴えかけたかったのだろう。それはただ兵器そのものだけではなく、独裁者や果ては人間一人一人の心に潜む強欲へ向けられた皮肉である。

そのメッセージは、映画を締め括る名演説に集約される。ヒンケルに瓜二つの「ユダヤ人の床屋」(チャップリンの一人二役)が独裁者と入れ替わり、一大演説をぶつ。この演説をしたいがために、チャップリンはこの映画をサイレンとではなくトーキーにしたのは有名なエピソードである。ユダヤ人の床屋は、独裁者の威勢の良い言葉を期待する人々に人間性の復権と連帯による明るい未来像を説く。その中に、飛行機についての言及が以下のようにある。これが第三の飛行機に関する場面である。

"The aeroplane and the radio have brought us closer together. The very nature of these inventions cries out for the goodness in men, cries out for universal brotherhood for the unity of us all." (飛行機とラジオは人類を緊密にしてきた。これら発明の本質は、声高に人々の善良さを、我々全ての連帯のための普遍的な友愛関係を哀願している。)

第一の場面であったように飛行機は人々結びつける道具であると、チャップリンは見ている。そしてその道具を有効に活用するには人類の良心が必要であると訴えている。山を越え海を越え空を飛ぶ航空機は他のどの交通機関も結び得なかった土地を結び、様々な文化的背景を持った人々の出会いを促す。そこに理想への一歩を感じ取り、期待したのであろう。今日の発達した航空網が人々の善意に支えられ、その役目を一歩ずつ果たしてゆくことを見守りたい。

この演説は次のように、飛ぶことをモチーフに締め括られる。ここでも飛ぶことは自由の象徴である。

"The soul of man has been given wings - and at last he is beginning to fly. He is flying into the rainbow - into the light of hope - into the future, that glorious future that belongs to you, to me and to all of us. Look up. Look up." (人間の魂には翼が備えられている。そしてついに今飛び立とうとしている。虹に向かって、希望の光に向かって、貴方のものであり、私のものであり、我々全員のものである輝ける未来に向かって。うな垂れないで。うな垂れないで。)

輝く未来へと繋がるあらたな出会いを求めて飛び立とう!そして大空を舞う自由を満喫しようではないか!たとえ長時間狭いエコノミークラスに縛り付けられたとしても・・・。

(2004.03.06. 記))

 

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