機上の空論

何でこうなるの   入国

 

 国際線の場合着陸の後待ち受けているのが入国手続きです。大概の国では手続きは簡単で、訪問を歓迎してくれるのですが、中には結構めんどくさい手続きやちょっとしたことに過敏に反応する国もあるようです。そんなトラブルを集めてみました。

 外国人の入国に過敏になっている国といえば、私が訪れた中では旧ソ連が筆頭に挙げられます。3回入国していますが、初めの2回にスッタモンダがありました。初めてソ連に入国したのは1986年3月で、ストックホルムからコペンハーゲン経由で当時のレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)に着陸しました。機内のアナウンスによると外気温は−2℃でストックホルムよりやや低い位でした。タラップを降り、狭いターミナルの中に入ると到着した他の便の乗客も含めごった返しています。胴体の断面が真円のTu−154で、窮屈な窓際に座っていたためやや疲れていた所為か、その人ごみを見て神経が苛立って来ました。同行のアメリカ人の友人に「ここは東京か」とぼやいたのを覚えています。このイライラが良くなかった!税関で挙動不審とみなされ、別室へ案内されました。目の前に制服を着た審査官が座り、尋問が始まりました。制服の襟章を見ると緑色です。旧ソ連軍の制服は海軍を除き皆同じようなので一見して区別はつきにくいのですが、襟章や帽子の縁取りの色で所属が判別できます。赤は陸軍、青は空軍、そして緑は悪名高い「国家保安委員会」略称KGBです。KGBは国境警備も担当しており、空港などでの出入国管理もやっていたようです。このKGB氏、流暢な英語で、やれ「武器を持っているのか」、やれ「麻薬を持っているのか」としつこく訊いてきます。何もやましい事はないのですが、ひょっとするとシベリアへの転居届を出さなければいけないのか、などとの考えが頭を過ぎります。手荷物検査と身体検査を念入りにされた後、5〜6分で無事釈放されました。別れ際、KGB氏に「何故引っ張られたのか」と尋ねたところ、「震えていたので怪しいと思った」とのこと。「人ごみを見て苛立った」と応えるのも癪だったので、「レニングラードは寒い」と言うと、「今日は−3℃で暖かいよ。スウェーデンでもそんなもんだろう?」と、かのKGB氏。この騒ぎでの収穫は、滅多に話す機会などないKGBと少し話ができたことと、当日の気温が機内アナウンスより1℃低いと分ったことぐらいでしょうか。

 2度目の災難は同年6月、スウェーデン遊学からSASで帰国する際に起こりました。当時は北極回りが日欧間の主流でしたが、週一便、モスクワ経由の便がコペンハーゲン−成田を結んでいました。ストックホルムからモスクワへ飛び、2泊してその便に乗り継ぐという荒業(?)を使ったのです。入国の際、また税関で捕まりました。今度の「容疑」は、所持金が多すぎるとのことです。奨学金を受けていたので、いざという時のために日本から持っていった全財産、50万円ほどを円、ドル、マルク等で持っていました。確かに学生が観光目的に持っている額としては過分です。何故こんなに多額の金を持っているのかと執拗に訊かれました。「スウェーデンに住んでいて、国に帰る途中だから全財産ある」と応ずると、同じ質問が繰り返されます。こちらも同じ答を繰り返す、これが5〜6回続きました。そうこうしている内に荷物が検査され、刃渡り25cmほどの包丁がスーツケースから出てきました。するといきなり、「これは武器ではないか?」などと訊いてくる始末です。「クッキングナイフで、生活必需品だ。引越しするんだから持っていても当然ではないか」と応ずれば、また「何故こんな大金を持っているのか」と訊いてきます。今度は、金額と武器(包丁)の繰り返しになりました。15分程こんなやり取りした後に、この税官吏のおばちゃんも疲れたのか、やっと解放されました。何のための問答だったのか、何故突然解放されたのかは不明ですが、忍耐強くしたこちらの説明が一貫していたのが良かったのかと思います。入国の際はトラブル続きでしたが、出国の際はいつもあっけない位あっさりと出してくれました。

 社会主義体制が崩壊した直後(1990年9月)のチェコスロヴァキア(当時)でも入国の際面倒な手続きが必要でした。プラハ空港に到着後、税関で、一定額の現地通貨への両替が入国条件であるとゴネられ、両替所に向かったのですが、場所がなかなかわからず、見つかってもそこは長蛇の列でかなり待たされました。ここまで30分以上を浪費したでしょうか。両替証明書をもって再び入国手続きをし、預けた荷物を取りに行くと既に乗ってきた便の荷物は全て取り去られた後でした。荷物までなくなったのかとあたりを見回すと、私のスーツケースがぽつねんと片隅に置かれていました。

 最後にちょっと得をしたお話を。1986年7月まだ英国の統治下にあった香港でのことです。ノースウエスト・オリエント航空(当時)で到着後、越境審査に長蛇の列ができていました。日本からノースウエストとキャセイがほぼ同時に到着したのです。暫くすると私が並んだ列が動かなくなりました。前方を窺うと、審査官が何やら質問を繰り返している様子ですが、どうやらその日本人旅客は英語を解さないようです。ちょっと模様を眺めていましたが、埒があかないようです。そこで私が前に進み通訳を買って出ました。無事彼の越境が認められると、審査官のおばちゃんが私に「パスポートを見せろ」と命じました。お蔭でもう待つことなく入境できました。

 官憲が絡むと何処の国でも、面倒な手続きを必要としますが、いちいち頭に来ていたら身がもちません。平常心で対処するのが一番であるというのがこれらの経験からの教訓です。

 

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