特別展「河鍋暁斎の世界 ゴールドマン コレクション」(美術史チャンネルより)
この文書は、解説!特別展「河鍋暁斎の世界 ゴールドマン コレクション」―かわいい動物猫から恐ろしい鬼まで、多彩なモチーフを描いた幕末・明治期の実力派絵師の名作展!を文字起こししたものです。内容に影響しない範囲で、一部表現を変えたりしています。また[ ]内は私のための補足です。河鍋暁斎についてはたまに名前を聞くことはありましたがぼんやりとした印象しかありませんでした。今回のYoutubeチャンネルを聴いて、暁斎の全体的なイメージを少しつかめたように思います。
はじめに
猫や蛙といったかわいい動物たちの絵から、酒と肴が大好きな鬼たち、そして、神様や仏様まで多種多様なモチーフを描いた、幕末・明治 期の実力者 河鍋暁斎。その暁斎の名品の数々を観ることができる特別展「ゴールドマンコレクション 河鍋暁斎の世界」。この特別展は東京のサントリー美術館で2026年の4月22日から6月21日まで、神戸市立博物館で7月11日から9月23日まで、静岡県立美術館で10月10日から12月6日まで開催される。
河鍋暁斎は、天保2年(1831年)に下総の国に生まれ、その後家族とともに江戸に出た。そして、天保8年(1837年)に浮世絵師の歌川国芳に弟子入りし、さらに天保11年(1840年)には室町時代から続く日本史上最大の画派狩野派の門下に入った。このようにして修業を積み力をつけた暁斎は、独特の画風が人目を引くユニークな作品を描いて人気を博するようになった。その暁斎が明治22年(1889年)に世を去るまでに制作した多様な作品のうち、イギリス在住のイスラエル・ゴールドマンが所蔵する作品約110点を今日本で見ることができる。その出品作のうち、代表的な22点について解説する。
[イスラエル・ゴールドマン(Israel Goldman)氏は、ロンドンを拠点に活動するアメリカ出身の浮世絵・日本絵画の美術商(ディーラー)であり、幕末から明治時代に活躍した絵師・河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)の世界的なコレクターとして知られています。]
①《閻魔大王浄玻璃鏡図》明治4-22年(1871-89年)(明治20/1887か) 絹本着彩
最初に紹介するのは、暁斎が得意とした宗教主題の絵。閻魔大王と地獄の浄玻璃の鏡が登場するこの作品の画面を見ると、左側から茶色の鬼が、右手には刀を取って、左手には女性の髪の毛をまとめてつかんでいる。この女性は肌が暗い色を呈しており、口を開けて苦しそうな表情を見せている。対照的に、画面の右側には、色白の若い女性がいる。彼女の前には、浄玻璃の鏡が据えられている。この鏡には、地獄の亡者たちの生前の行いが悪行もふくめて余さず映し出される。しかし、現在のところ、鏡には彼女が生きていた時に手をそめた好ましくない行為はいっさい示されることがなく、若い女性の美しい姿がそのままに映し出されている。これを見て、冠を戴く閻魔大王は、そんな清い人間がいるものなのかと、驚きの表情を隠せない。
②《地獄太夫と一休》明治4-22年(1871-89年) 絹本着彩
地獄と言えば、地獄太夫の名前で知られる遊女が登場する暁斎の描いた作品が、今回の特別展には出品されている。この《地獄太夫と一休》の図の画面の右側の屏風の前には、室町時代の堺の遊女地獄太夫が、立ち姿で登場している。地獄太夫は、赤や橙色が鮮やかな着物に青い色が目を引く帯を締めて豪華に装っている。彼女の左上を見ると、禅僧の一休が両腕を上げて踊っている。一休は、地獄太夫の師匠で、彼女を看取った人物だと伝えられる。その下では、死を象徴すると考えられる骸骨が、胴体部分に皮を張っていない抜けた三味線を演奏し、小さな骸骨は踊って、不気味なシーンをおかしく演出している。
③《月下唐美人図》安政2-3年頃(1855-57年頃) 絹本着彩
そして、この絵の地獄太夫のような美人の図も暁斎は特意としており、中国の若い女性が月夜に姿を見せる絵を制作している。この《月下唐美人図》の上の箇所を見ると、まん丸の月の出る夜の空があらわされている。その下に立つ女性は、日本の着物を身に着ける代わりに中国の衣装をまとっている。そして、手に持っている道具も、枠に薄布を張った中国の内輪となっている。このように本作は、中国の文物についてもよく知っていた暁斎の教養の高さを思わせる絵となっている。
④《月下骸骨宴会図》明治4-22年(1871-89年) 紙本淡彩
暁斎の絵の中では、夜空の月の下には、美人だけでなく骸骨も姿をあらわしている。それがこの《月下骸骨宴会図》。画面を見ると、こちらに背中を向けて座る骸骨は三味線を演奏している。その楽器の音に合わせて、立ち姿の骸骨が自分と同じく骨だけの扇子を手にして踊りに興じている。その下の地面には、骨だけの魚が青い色の器の中におさまっていて、骨尽しの画面となっている。
⑤《三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪》明治4-12年(1871-79年) 紙本淡彩
暁斎の絵では、他にも三味線を演奏する骸骨が登場する作品がある。この《三味線を弾く洋装の骸骨と踊る妖怪》の絵では、同じく座って三味線を弾く骸骨がこちらの絵では正面向きの姿で描かれている。この骸骨は、後ろにはさやに収めた刀を横たえているが、西洋風のファッションで身を包んでいて、洋服をまといシルクハットをかぶっている。この骸骨の洋装は、明治時代の文明開化を象徴しているようだ。そして、三味線の音に合わせて踊る妖怪は、大きく口を開けて舌を出して、なんだか楽しそうに見える。
⑥《百鬼夜行図屏風》明治4-22年(1871-89年) 紙本着彩
妖怪と言えば、夜の闇の中を様々な姿をとる化け物たちが並んで進む百鬼夜行をあらわす屏風が出展されている。この屏風を見ると、画面の右の方には、赤い袴を着けて扇子を振って踊る女性の妖怪の姿が確認される。そこから左にいくと、赤い盃を背に負って大きな口をのぞかせる、筆を手にした妖怪も歩みを進めている。笠を背に負った妖怪の手にぶら下がっている小型の小さな提灯のお化けは、なんだかかわいらしさも感じさせる。
⑦《猫又図》明治4-22年(1871-89年) 紙本淡彩
化け物の仲間では、同じく夜に活躍する猫の妖怪。この猫又の図では、墨で表現された三日月の浮かぶ夜空の下が絵の舞台となっている。その夜の空の下に、尻尾の先が二つに分かれた猫の妖怪猫又が姿をあらわしている。猫又は、手拭いを首にかけて、両手を上に、片足を上げながら、墨で描かれた石の灯篭の上で踊っている。この猫の回りで、輪郭を繰り返す墨の面を細く白く抜いてあらわした表現が、踊りの揺れる動きを強調しているようだ。
⑧《猫の月見》明治13-22年頃(1880年代) 大判錦絵
同じく三日月が浮かぶ夜空の下に、猫と、それからネズミを描写する絵も、暁斎は制作している。猫の月見の図では、全体に墨の黒が施された画面の下の部分で、こちらに背中を見せる茶色と白の毛の猫が主人公。大きな耳の猫の顔は、墨の黒い色を白く抜いてあらわした月に向かっているようだ。その月をながめながら、お団子の代わりに真っ黒なネズミを手にする猫らしいお月見の絵。
⑨《蝶と菊に猫》明治4-22年(1871-89年) 絹本着彩
また別の絵では、猫が見上げるのは菊の傍らを舞う蝶となっている。蝶と菊と猫をあらわすこの図では、画面の下の箇所に尻尾の先が黒い白猫が座っている。ひげや毛も細かくあらわされた顔を上げて、黄色の目で見上げる先には、黒、赤、青、白に彩られた羽を広げた蝶が宙を舞っている。この見上げる猫の傍らに、墨であらわされた植木鉢から上に向けて高く背を伸ばす菊の黄色い花には、もう1匹の蝶がとまっている。こちらの蝶の羽は白と黒に彩られており、下にあらわされた猫のものに対応する色彩を呈している。
⑩《動物の曲芸》明治4-22年(1871-89年) 紙本着彩
他にも河鍋暁斎は動物のモチーフを複数の作品に描いている。この動物の曲芸をあらわす図では、猫の上でネズミたちが扇を開いてポーズを決めている。その左でも、猫が支える梯子の上で、ネズミたちが梯子乗りの技を見せている。加えて、三味線が奏でられているその上では、コウモリが綱渡りをして、にぎやかな画面がつくられている。
⑪《蛙の学校》明治零年代中頃(1870年代初めから中頃) 紙本着彩
動物モチーフでは、他に暁斎は蛙も好んで描いている。蛙の学校をあらわしたこの絵では、水墨の技法であらわされた竹の下の傍らで、先生の蛙が立ち上がって、細くて長い枝を振っている。そして、大きな口から出た先生の声は墨の線であらわされている。さらに、蓮の大きな緑の葉の下で、生徒の蛙も先生に合わせて声を出している。そして彼らは蓮根に腰かけているが、これは水辺の蛙の教室に相応しい表現だと言える。[この「蛙の学校」は、当時導入されたばかりの西洋式の小学校教育(1人の先生が多くの生徒たちに一斉指導する)の様子を反映しているようだ。先生は長い棒で、掛け図ないし黒板に見立てた大きな蓮の葉を指し示し、生徒たちは蓮根を椅子代わりにして腰かけて、大きな声で教える先生にたいして生徒たちも声を出している。]
⑫《蛙の射的場》明治4-9年頃(1871-76年頃) 絹本着彩
暁斎の作品では、蛙たちが射的に励むシーンも描かれている。蛙の射的場をあらわしたこの図では、射的場の主人の蛙がキセルをくわえて座っている。蓮の茎を用いてつくられた柵のこちら側には、同じく蓮の茎でできた鉄砲を構えている蛙たちが見える。そして、彼らが狙う先には、蓮の茎に蓮の花托=はちすの的が取り付けられている。その近くに吊るされた小さな蛙は、射的の賞品にされてしまっているのかも知れない。[「はちす(蜂巣)」は蓮の花托の形が蜂の巣に似ていることからついた古い呼び名で、それが縮んで現在の「はす(蓮)」の語源になっている。]
⑬《風流蛙大合戦之図》元治元年7月(1864年7月) 大判錦絵三枚続
また、蛙が合戦の場に出陣する様子をあらわす絵も描いている。この「風流蛙(かわづ)大合戦の図」では、蒲の穂の槍を掲げ、葉っぱの鎧を着けた兵たちが、画面の右上から勢揃いしている。その下の箇所で、水鉄砲の援護射撃を受けながら、騎馬武者は蛙に乗って突撃している。葉っぱの船が浮かぶ川の向こうでは、水鉄砲から打ち出された水流が命中している。これにより、水は放射状に大きく跳ね散っており、動きを感じさせる迫力の描写が目を引く。
⑭《天竺渡来大評判 象の遊戯》文久3年4月(1863年4月) 大判錦絵
動物モチーフに関しては、小さな蛙とは対照的な大きな象も描いている。「天竺渡来大評判 象の遊戯」では、象が鼻で盾を貫いたり重い鼎を吊り上げたりしている。さらには、器用に扇を取りながら、鼻で桶を差し上げたり、鼻から水を吹き出したりもしている。これらの象の芸を見て、西洋風の衣服を着けた男女はびっくりしたり、指をさしたりしている。実際に江戸では、文久3年(1863年)に西両国で象の見せ物が催された。象の来日は久しぶりだったため、多くの見物人が押しかけたようだ。ただし、この時に象が曲芸をしたという記録はない。そのため、器用な象の姿をあらわしたのは、絵を面白くするための工夫だったのかも知れない。[1862年、アメリカ船で横浜港に象が連れてこられた。翌年から江戸の両国などで見世物として公開されて人気を博した。この象は明治時代に入ってからも全国を巡回し、長く人々に親しまれた。]
⑮《鍾馗騎象図》明治零年代後半(1870年代中頃)紙本着彩
象と言えば、道教の神である鍾馗が象に乗る図を暁斎は制作している。それがこの「鍾馗騎象図」。この絵では、鍾馗が火をつけた枝を掲げながら巨大な象に乗っている。この象の傍らには、小さな2人の鬼たちが従えられている。さて、この絵では、瞳のような小さな部分だけが墨の黒色だけで強調されている。そして、人物と動物のモチーフは、ほとんどの箇所を赤色だけであらわされている。江戸時代の浮世絵には、赤い色だけで図をあらわした疱瘡絵というジャンルがあった。この象に乗る鍾馗の図にも、病気を退散させる効能が期待されていたと考えられる。
⑯《鍾馗図》元治元年3月(1864年3月) 大判錦絵
鍾馗に関しては、自然な色でフルカラーで画面に大きくあらわされた作品も描いている。こちらの鍾馗図では、黒髪に黒ひげ、黒装束の鍾馗が画面いっぱいに全身を表現されている。鍾馗は、毛の生えた腕に、右の腕には武器として剣を握り、左の手には小鬼をつかまえて力の程を見せつけている。鍾馗図には魔除けの効能が備わると信じられていた。そのため、江戸時代には子どもの健やかな成長を祈願して、端午の節句には鍾馗が飾られていた。本作のそのような機会に展示され、役立てられていたのかも知れない。
⑰《鬼に酒肴図》明治4-22年(1871-89年) 絹本淡彩
鍾馗の図ではやっつけられていた鬼だが、単体で描かれる時には好物の酒と一緒に登場している。「鬼に酒肴(しゅこう)図」では、まるい月が浮かんでいる夜空の下に、頭に2本の角を生やした鬼が、両足を踏ん張った立ち姿で登場している。筋骨隆々たる半裸の肉体を示す鬼は、その左手に酒の入った角樽[上に角のような大きな柄(持ち手)をつけ、胴を朱または黒の漆で塗り、祝儀のときの進物として酒を贈るのに用いた]を握っている。反たいの右手に握った黒い金棒の先にぶら下がる鳥は、酒の肴になるようだ。この絵を見ると、恐ろしい風貌の鬼もお酒が大好きであることがよく分かる。
⑱《酒のツマミに鰹を準備する鬼》慶応元年頃-明治3年(1865-70年頃) 紙本淡彩
酒好きの鬼は、自ら手に包丁を奮って酒の肴をつくることもあったようだ。「酒のツマミに鰹を準備する鬼」の図は、着物を羽織った鬼が、足のついた俎板の上に左手で鰹を据えて、右手に取った包丁を使ってさばこうとしている。その傍らでは、お酒が温められていて、徳利の口から立ち上る湯気が、ゆるやかにカーブする墨の筋によってあらわされている。美味しそうに表現された酒の肴を鬼と一緒に頂きたくなるような絵だ。
⑲《大津絵 夕立図》文久2年(1862年) 絹本着彩
暁斎の描く鬼の絵の中には、酒を飲むだけでなく、人間に親切なものもいる。この「大津絵 夕立図」のタイトルにある大津絵とは、東海道の大津の宿場の名産で、江戸時代の前期から土産物として売られた絵画作品。本作では、鷹を携えた青い着物の男性と赤い着物の女性の若いカップルが、夕立に降られたところ、赤鬼が笠をさしかけて助ける。恐ろしい風貌の鬼が、しかし親切にふるまうといった、外見と行動にギャップのある描写は大津絵の定番の表現だ。暁斎はその表現を取り入れながら、細部や形状の描写を一般の大津絵よりも丁寧におこない、独自の大津絵に仕上げている。
⑳《恵比寿を描く大黒》明治4-22年(1871-89年) 絹本淡彩
神秘的な存在のほほえましい行動を描写する作品としては、他に「恵比寿を描く大黒」の図が出品されている。この絵では、七福神のうち大黒さまが、持ち物の大きな袋を後ろにおいて、筆を奮って七福神の仲間の恵比寿さまの姿を大きな紙に描いている。この絵を描くための道具を用意するのは、灰色のネズミたち。すなわち、右下に見える丸めた紙を手にした2匹のネズミたちとその左上に硯に墨をするネズミが、神様の日常をかわいらしく飾っている。
㉑《竜頭観音図》明治4-22年(1871-89年) 絹本着彩
宗教関連の絵画作品では、伝統的な仏画のモチーフである観音菩薩の姿をあらわす絵も、今回の特別展では見ることができる。この「竜頭観音図」では、大きな円光を頭から肩の後ろに従えた観音菩薩が、竜の頭に乗る姿で登場している。画面の下部に、竜は鋭い爪の生えた手に岩を捕えて、丸い両目を輝かせている。竜の体は墨を多目に使って暗くあらわされている。これに対し、その頭の上に立つ観音菩薩は、衣装、そして肌も、明るい色彩で表現されて、際立っている。菩薩が身に着けている翻る衣装も、細い線で描かれた襞が細かく刻まれて、やわらかな生地の質感をよくあらわしている。
㉒《達磨図》明治21年(1888年) 紙本墨画
最後に、同じく仏教関連の作品のうち禅宗絵画を紹介する。「達磨図」には、禅宗の開祖の腰から上の姿が画面に大きくあらわされている。はだけた胸元と、瞳が黒く強調された丸い両目を示す顔には毛やひげ、額の皺や輪郭が、薄墨と細い線を用いて描写されている。これにたいし、衣装は濃い墨を用い、太い線を勢いよく引いて表現されている。以上のように、この絵は禅宗絵画の特徴的な手法も見事に使いこなす河鍋暁斎の技量の高さを確認できる作品となっている。
[達磨は、6世紀ころ南インドから中国(北魏)に渡り、それまでの経典中心の仏教とは異なる、座禅を主体とした修行法を伝えた。面壁九年(壁に向かって9年間も座禅を組み続けた)という言い伝えがあり、この不屈の精神が、禅宗の「ひたすら座禅に打ち込む(只管打坐)」の象徴となっている。達磨が伝えた禅の神髄は後に「四聖句(ししょうく)」という次の4つの短い句に集約され、禅宗の根本方針になった。教外別伝(きょうげべつでん): 言葉や文字の教え(経典)のほかに、体験によって直接伝わる大切な教えがある。不立文字(ふりゅうもんじ): 文字や言葉に囚われず、自らの実践(座禅)を重視する。直指人心(じきしにんしん): 自分の心(人間の本質)をまっすぐに見つめるす。見性成仏(けんしょうじょうぶつ): 誰もが生まれ持つ仏としての本性に気づき、悟りを開くことを目指す。]
おわりに
今回の特別点は、河鍋暁斎がそれぞれのジャンルの作品で示す独特の画風をじっくり鑑賞できる貴重な機会となっている。
(2026年9月22日)