増田神社
もとはこの丘陵の下方にあった立坂神社に祀られていた増田(益田)大明神が、天正年間にこの地の南方100mほどの地(現在広場になっている)に祀られるようになり、明治末に太神楽の太夫としてこの地区で代々続いている山本源太夫氏の私邸内神社として独立して祀られるようになりました。
立坂神社の神事であった太神楽が伊勢太神楽として現在も続けられ、毎年12月24日にはこの神社に奉納され、そのあと全国へ巡業します。
社宝に獅子頭があり、室町時代初期の作と推定されています。また天正4年(1576)及び天正18年(1590)の棟札が残っています。
増田神社社殿 社殿全体が鉄骨造りの大きな覆い屋で覆われ、 雨天でも神楽が奉納できるようになっています。 |
伊勢太神楽 (伊勢太神楽講社絵はがきより) 太神楽は代神楽とも書き、各地を巡業し、伊勢神宮に参拝 できない人たちのために、神楽奉納の代役を勤めたものと 思われます。 起源は明らかではありませんが江戸時代から盛んに行われ ました。現在6組の講があり、国の重要無形民俗文化財に 指定されています。 |
神宮遙拝所の碑 増田神社の社頭に掲げられた社伝には、壬申の乱の際、大海人皇子が登保利川にて禊祓、増田庄霞ヶ岡にて神宮を御遙拝、御休息の御霊夢に星降りて忽ち忿怒の猛獣現われて、西南に飛び去った。その星の落下した地に一つの石が現われ、・・・禊せし川を星川(現町屋川)、遙拝の地を(現太夫)と改め、その地に石占頓宮(現増田神社)を奉斎された。さらに、現われた忿怒の猛獣(天木綿筒命)の画像を彫刻し、獅子舞神事を奏することになったと、伊勢太神楽の由緒が記されています。 現在境内に建つこの石柱はこの地の南方約100mの増田神社旧跡地に建てられていたものです。 |
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太夫の大樟(おおくす) 増田神社西南方役100mのところにあります。 この地はもとの増田神社の境内地で、六本樟と称して6本あったといい、天正年間(1573〜92)に三河の武士がその樹に隠れて一命をとりとめた。のちその樟が枯れたので、その母親がお礼に植えたのが現在の樟と伝えられます。 幹周りは地上約60cmのところで10.8m、樹高約27m、樹齢は約400年、市指定天然記念物です。 |
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