青谷かみじち史跡公園見学

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 10月25日午前、鳥取市青谷町にある青谷かみじち史跡公園を見学、学芸員の Iさんの案内で、触れられる物を中心に展示品について説明してもらい、また鋳型を使った鏡つくりの体験もさせていただきました。
 私は、2021年4月、コロナ禍で行われた青谷上寺地遺跡のオンラインのワークショップ「弥生時代の美」に参加しました(青谷上寺地遺跡出土品のレプリカに触る)。今年3月、青谷かみじち史跡公園がオープンしたとのニュースを聞き、一度は訪ねてどんな展示になっているのか、またどんな遺跡だったのか現地で体験したいと思っていました。
 10月24日から鳥取に行き、24日午後はさじアストロパーク、25日午前に青谷かみじち史跡公園、午後に井手ヶ浜、26日午前に白兎神社と白兎海岸に行きました。
 24日朝鳥取駅から山陰本線の倉吉方面の列車(ワンマンカー)に乗り、30分余で青谷駅へ、そこから20分ほど歩いて10時前に史跡公園に到着。なんと、史跡公園の Nさんという所長さんと弥生の美のワークショップの時に担当された Hさんの出向かえを受け、感激です。そして早速学芸員の Iさんの案内で見学です。
 まず、ガイダンス棟の体験をする所で、ハンズオンのために製作された展示品 3点、琴の横板、蓋付きの壺、花弁高杯(かべんたかつき)に触れました。いずれも木製品です。琴の横板は以前のワークショップでも触れたもので、すぐ記憶がよみがえってきました。長さ40cmくらい、幅6cmほどの横長の板で、種類まではよく分かりませんが、動物のようなものの輪郭が 5匹連ねて刻されています(向って右側のはもこっとした感じで羊っぽく見えるとか言っていましたが弥生のころには羊は日本にはいなかった。その他、狐らしきものや鹿らしきものなど)。蓋付きの壺は、壺と蓋がぴったりと組み合わさったもので、実物の 2分の1の縮尺でつくってあるとのこと。実物の大きさに直すと、高さ20cm余、直径14~15cm、蓋の直径6cmくらいになると思います。赤の色で、水銀朱あるいはベンガラ(酸化鉄)が使われたとのこと。とくに蓋は細かなつくりになっていました。木製の器の蓋もよく出土してはいるが、このように壺としっかり組み合ったセットで出てくることは珍しいとのことでした。花弁高杯は以前のワークショップで私がその技術のすばらしさに驚いたものです杯の裏面の6枚のきれいな花弁、台の裏の円錐形の窪みの側面に刻まれた12個の三角の切れ込みなど)。ただし、これも実物の 2分の1の大きさでつくられていて、前のワークショップで実物の大きさのものに触った時の感動はだいぶ薄らいでしまいました。また、台の裏面の三角の各切れ込みの間にあった細いスリットのようなのはよく確認できませんでした。そんなに大きくない物については、できれば実物大の復元が望ましいと思いました。
 
 続いて、ガイダンス棟を入ってすぐの所に展示されている大きな交易船の復元模型について、少し部分的に触れながら説明してもらいました。これは、木をくり抜いてつくられる単純な丸木船ではなく、丸木船の技術をベースにしながらも、船首、本体部、船尾からなる準構造船と呼ばれるものだそうです。この復元は、福井県越前市の年齢約200歳、直径約70cmの杉材を使って造船所に依頼してつくられたとか。船首部分については青谷上寺地遺跡から出土しており、その他、木の板に描かれている船の絵、出土したごく小さな船の簡易な模型のようなもの、他の遺跡で見つかった同種の船なども参考に製作したとのことです。全体の長さは 7~8mはあったと思います。幅は本体中央部で80cmくらいとのこと。船首は幅50cm余、長さ1m弱、本体部は長さ 5~6mくらい、船尾は幅60cmくらい、長さ1.5m弱くらい。船首と船尾はそれぞれ先がゆるくとがり、上面はゆるく湾曲した平面でくり抜かれてはいません。本体部は中は深くくり抜かれ、さらに両側面に幅20cm余の分厚い長い板が上につぎ足されています。本体部の前後、船首と船尾の境目には、幅40cmくらい、高さ120―130cmくらいの縦長の板が各部を仕切るようにそれぞれ前後に傾いて立ち、前の縦板の前面の上のほうには、赤の大きな渦巻きが描かれています。復元では本体部にひとり人が立っていましたが、4、5人は乗り込み荷物も積んでいたことでしょう。ただ、このような細長くて舷の高い船では横のバランスがあまりよくないため、もしかするとアウトリガーのように横木を付けて安定をよくし荷物もより多く運べるようにしていた可能性もあるかもということです。いろいろと想造がひろがります。
 青谷上寺地遺跡は現在は海岸から 1kmほど離れていますが、当時は大きな潟湖があってその岸辺に立地しており、日本海沿いに北陸や北部九州とこのような交易船で行き来し、交易の一つの巨点になっていたようです。青谷上寺地遺跡では、石川県など北陸から碧玉や緑色凝灰岩の原石を材料に管玉を多量に製作しており、その管玉が北部九州の有力者の墓の副葬品になっているそうです。北陸から碧玉などの原石を青谷に運んで管玉に加工し、北部九州で管玉と引き換えに朝鮮などからもたらされた貴重な鉄製品を手に入れ、その鉄の一部は北陸に運ばれて碧玉などと交換するというような交易のルートが形成されていたとのことです。
 
 次は、青谷上寺地遺跡出土の人骨をもとに製作された復顔 2点です。同遺跡では、主に集落東側の矢板を並べた溝から遺棄されたような状態で、なんと5,300点以上もの人骨が見つかり、少なくとも109人の個体判別ができるとのこと。そして10数体の人骨には武器で傷つけられた痕があり、中には銅矢じりが刺さったままの骨盤もあるとか。人骨の時代については、出土土器の詳しい様式分類から、紀元2世紀の第3四半期と推定されるとのこと。この時期は、花弁高杯などに示されているように、青谷上寺地集落の少なくとも文化的には最盛期であり(建物跡はあまり見つかっていないので人口規模はよく分からないとのこと)、また他方では 2世紀後半は『魏志倭人伝』に書かれている倭の大乱の時期でもあります。
 実際に復顔がどんな顔なのか私はまったく分かりませんが、上寺朗くんと愛称される中年(30代)男性と来渡くんと愛称される10代前半の少年だそうです。DNA分析で、上寺朗くんは父系は在来の縄文系、母系は渡来系、来渡くんは父系・母系とも渡来系だとのことです。上寺朗くんは、青谷出土の人骨中脳が残っていた 3例の 1例だそうです。また来渡くんの額に当たる所には縦に2、3cm傷があるとか。来渡くんには、DNA分析から、髪は太い、肌はやや濃い、瞼は二重、眉毛は濃い、虹彩の色は暗色系、耳あかは乾燥タイプ、歯は大きめ、アルコール耐性は高いといった特徴が見られるとか。DNA分析は 32個体について行われ、母系の血縁の可能性のあるのは 2組だけで、残りの 28個体は母系の血縁関係は認められなかったとのことです。どのような理由で多くの人骨が遺棄されたのかは分かりませんが、その多くが各地のいろいろな集団に由来する人々だったようです。核ゲノムの解析も行われ、私にはほとんど分かりませんが、青谷出土の人たちは現代日本人の持つ遺伝的特徴と共通しているようだとのことです。
 弥生犬も復元されていました。ちょっと頭をなでてみましたが、小型犬のわりには頭が大きいように感じました(来館者がつい頭をなでてしまうので、頭の今がはげてしまっているとか。柴犬のような日本犬とはだいぶ見た目が違うようだ)。その他にも、脊椎カリエスのため大きく曲がって癒着した背骨などいろいろ展示されているようでした。
 
 その後、重要文化財棟に行きました。ここには、美しい木製品や勾玉、土器、骨や角を加工した品、石器や鉄器など重要文化財に指定された名品がいろいろ並んでいますが、もちろん触れません。でも、体験用のセットとしてアワビ起こしがありました。岩片にくっついたアワビと鹿角です。鹿角の先端を岩とアワビの間に差し込みます。多くの人たちが実際に試みているようで、角の先がだいぶ削れて薄くなっていました。その他にも、各種の釣り針や漁具が展示されているようでした(以前のワークショップではしっかりカエシの付いた離頭銛頭に触りました。貝類や沿岸の魚ばかりでなく外洋性の大型の魚もとっていたようです)。
 ここで、技術的にとても優れていると思われる木製品のレプリカ 2点に触りました。 1点は楯で、これは、弥生の祭の風景?が示されている展示の中で、左手に楯、右手に剣?を手にして演舞している人が持っている楯だそうです。全体の大きさは縦 70cm×横 40cmくらいで、厚さは 1cmくらいですが、縦に細長い板を4、5枚、糸でまるで縫うように、左端から右端へ、右端から左端へ、…と、上から下に向かって 5cmほどの間隔で少しずつずらしながら、左右に行ったり来たりを何度も繰り返して縫い合わせてしっかりつなぎ合わせているのです。板のつなぎ目はほとんど分からないほどで、まるで 1枚の大きなしっかりした薄板のようになっています。楯の前面の上のほうには赤の渦巻が横に 2つ並び、楯の後面の中央には20cmくらいの長さの持ち手が付いていました。すぐ近くには、ヤマグワ、サクラ、ケヤキ、スギの木材の円柱形のサンプルが展示されていました。青谷では、用途によって、また木目の模様がきれいに出るようになども考慮して、木の種類を使い分けていたらしいです。
 隣りには、直径 70cmくらいもある太い杉の木が横たわっていて、その側面(分厚い 5cm弱幅の樹皮の列が何本も縦に走っている)には、学芸員が制作したという長さ 20cn弱、幅5cmくらいの石斧(たぶん粘板岩?)が刺さり、近くには砂岩製の砥石も置かれていました(当時は木を切ったり削ったりするのには石斧だけでなく鉄斧も使われていたはず。以前のワークショップでは鉄斧のレプリカにも触った)。さらに近くには、出土したと思われるいろいろな大きさの石斧も展示されていました。
 もう 1点は、桶形容器と呼ばれるもので、何に使われたのかはよく分かりませんが、精巧でとてもきれいな形のものでした。高さ 12~13cmくらいで、中央部が直径 3cm余くらいの円形にくびれ、上下に向って広がっている形なのですが、その広がり方が前後方向よりも左右方向のほうが大きくて、上面・下面とも、前後径が5cmうらい、左右径が7~8cmくらいで、両端がすうっととがった楕円形のような形になっています。上部は中が深く滑らかに削られて容器になっており、下部は台になっていますが、台も中が大きく削られ、両端の柱と前後にそれぞれ5枚の仕切り板になるように、間に細い透かしが12個入っています。用途よりも、装飾的な技術を誇示しているように感じました。
 (重要文化財棟では、弥生のかごについての企画展も行われていて、それもちょっと説明してもらいました。材料としては主にマタタビを使い、それを細く薄いシートのようにして編んでいたようです。マタタビのほか、ケヤキやヒノキも材料になったらしい。)
 
 その後、ガイダンス棟に戻って、鋳造による鏡つくりの体験をしました。体験メニューとしては、この他に、勾玉、管玉のブレスレット、組紐、コースターつくりなどがあり、近くでは熱心に勾玉を磨くなどしている人たちもいました。
 まず、内行花文鏡と星雲鏡のレプリカに触りました。いずれも前漢時代の青銅鏡で、青谷でもその破片(破鏡と言うそうです)が出土しているとのこと。両鏡とも、直径 5cm余、表側は鏡面になっていて、裏側の中央にはつまみのような突起があり、内行花文鏡ではその回りに 6個の花びらの形が内側を向いて並んでおり、星雲鏡では、つまみを中心に4方向に、外側に大きな凸点3個、内側に小さな凸点2個の組がそれぞれ配され、さらにそれら4組の間に中くらいの凸点が1個ずつあります。実際につくったのは、実物よりも一回り小さい直径 4cm余、厚さ 5mmくらいのものです。シリコン製の型に、ビスマスの合金(融点が 140℃くらい)を流し込んでつくります。まず、鏡の表側と裏側のシリコン製の型をぴったり合わせ、さらにその両側にかたいプラ板のようなのも合わせて、それらをひとまとめにして縦・横2箇所ずつ輪ゴムでしっかりと固定します。 IHで鍋に入れたビスマス合金を温め溶かします(そのとき、不純物などが黒い煤のようになって出るので取り去る)。溶けたら型に流し込み、冷えるのを待ちます(煤を取ったり、流し込むのは Iさんにしてもらいました)。
 冷えるのを待つ間に、あらかじめ用意してくださっていた青谷出土の土器数点を触りました。弥生の土器としては、器台、高坏、甕、壺の 4種類があるとのことですが、高坏 1点、甕 1点、壺 4点に触りました。(甕と壺の区別は微妙なこともありますが、壺は胴部に比べて口がかなり狭いのにたいして甕は胴部とほとんど同じか少し狭いくらいです。また底部と比べると、壺は口が底よりも狭いのにたいして、甕はほとんど同じか底よりも広いです。)高坏は高さ20cm弱、器部の直径 10数cmのもので、一部欠損部はありました。甕は高さ 25cmくらい、口の直径20cm弱、底の直径7~8cmほどで、下に向かって細くなっていて不安定な感じがします。これで米の煮炊きなどもしたとかで、少し斜めにして回りで支えられるようにして使ったのではということです。壺にはいろいろな大きさのものがありましたが、私が興味を持ったのは上縁の片側にだけ直径7cmくらいのドーナツのような輪が付いたものです。片手で持ってみると意外にも持ちやすいです。壺には水など液体を入れて運んだりしたと思いますが、これだと両手で持たなくとも片手で持ち運びできて便利だと思いました。
 
 鋳造体験もふくめ2時間くらいの見学でした。質・量とも膨大な青谷上寺地遺跡の出土品からすればごくわずかにふれただけですが、とくに木製品の素晴らしさは体感しましたし、ポイントもよく説明していただき、大いに楽しませてもらいました。そして、鋳造体験でつくった星雲鏡は持ち帰って思い出の品になっています。ありがとうございました。
 
(2024年11月3日)