4月2日、四条畷市立歴史民俗資料館を見学しました。きっかけは、ラジオで同館が紹介され、その展示とともに、希望すればだれにでも職員の方が解説してくれるとのこと、これはいいチャンスだと思いました。
JRの四条畷駅からだいぶ道に迷いながら20分弱で到着(帰りは近道を教えてもらって、10分余)で、あらかじめ連絡していたので、館長の野島さんたちが迎えてくださいました。そして早速主に Sさんの案内で展示品に触れながら解説してもらいました。 Sさんはこれまでに実際に発掘に携わったり資料調査をし、さらに解説用のイラストやミニチュアの模型をつくったりしている方で、とても熱っぽく語ってくださいました。
まず最初に触ったのが、馬形の埴輪。大きさは、長さ80cmくらい、高さ60cmくらいだったでしょうか。体本体は、たてがみ、目、耳などよく分かりましたし、鞍をはじめ、鐙、手綱、馬銜(はみ:口にくわえさせる鉄の棒)など馬具がつけられたとても精巧なものです(ばらばらの破片を接着して復元したもので、つなぎ目も少し分かる)。これらの馬具を使って馬をどのように操作するのかまで Sさんは説明してくれました。さらにその隣りには、半分くらいの大きさの子馬の埴環も展示されています。こちらは馬具がまったくついていない自然の姿のままで、とてもかわいいとのこと(子馬の埴輪の出土例は少ないようです)。私が触ったのはともに3Dによる復元品で、表面の色は、ペンキでべたあーと塗るようではなく、アクリル絵具で点描で重ね塗りしているとのこと(そのほうが質感がよく表現できる)です。
これらの馬形埴輪は、四条畷市の5~6世紀の蔀屋北(しとみやきた)遺跡から出土したものだそうです(上の馬形埴輪は、5世紀中半のもの。詳しいことは分かりませんが、馬形埴輪は古墳からというよりも集落の入口辺から出土していると言っていました)。同遺跡からは、馬の全身骨格(放置された状態ではなく、儀礼かなにかで丁寧に扱われたような状態で)、木製の鐙などの馬具、多量の製塩土器(塩を製産して多くの馬に与えていた)など、馬を飼育していたことを示す資料がたくさん出ているようです。出土品の中には、朝鮮半島由来の土器など(例えば百済の壺)もあり、朝鮮半島から馬の飼育技術を持つ渡来人が来て、この地で馬を育て、日本で一番古い馬の文化発祥の地となったとのことです。
当時の馬の実物の形を切り取ったパネル(たぶん全身骨格から推定したもの)がありました。高さ125cmだとのことで、かなり小さかったです。また、足だけの埴輪の断片もあり、牛、犬、鶏の足形が並んでいるとのこと(ふつう動物埴輪では足はどれも筒型で区別は難しいが、四条畷のものはそれぞれを見分けることができると言っていました)。その他、円筒埴輪、家形、水鳥形、きぬがさ(貴人にさしかける大きな傘を模したもので、表面に模様や装飾があるという)の埴輪も展示されているそうです。
さらに、馬の歯や頭部だけの骨も出ていて、おそらく切り取った馬の首を捧げるような儀式も行われていたのではないかとのこと、馬はたんなる家畜以上の、ふしぎな力を持つものとみなされていたのかも知れません。
次に、馬は海を渡って舟で運ばれてきたと思われますが、それを示したミニチュアの舟の模型に触りました。実物としては全長12mくらいの舟を想定しているそうですが、模型は長さ30cmくらいの丸木舟のようなかたちです。舟の前と後ろに縦板がやや斜めに立っていて、その2枚の縦板の間にいろいろな物が配されています(いわゆる準構造船に似た形)。先頭には指揮をする棒のようなものを持った人が立ち、両側にはそれぞれ6人ずつ櫂で漕いでいます。先頭の人の後ろには馬が1頭後ろ向きに立ち、また舟の後ろのほうには壺のような土器が積まれています。このような舟で、朝鮮半島からどんな経路かはよく分かりませんが、当時四条畷市から大東市付近にかけて広がっていた河内湖を通って、馬ばかりでなくいろいろな製品や技術を持った人たちがやってきて住んだと思われます。(四条畷は生駒山の西麓で、縄文時代にはすぐ近くまで海が入り込み、弥生時代以降も広大な河内湖や低湿地が広がり、さらに江戸時代までは深野池(ふこのいけ)が広がっていたそうです。)
なお、古墳時代中期(5世紀ころ)朝鮮半島から伝えられた技術として馬飼とともに、鉄を加工する鍛治と須恵器の技術があり、鍛治では東大阪市の森遺跡の鍛治工房が有名ですが、四条畷の蔀屋北遺跡からも鍛治が行われていたことを示す遺物が多く出土しているそうです。(須恵器の拠点としては、堺しから和泉市にかけての末村が有名)
続いて、弥生時代の木棺に触りました。雁屋遺跡の方形周溝墓から見つかったもので、長さ2mくらい、幅、高さとも50~60cmくらいだったと思います。蓋、側面、底、前と後ろの各部材を組合わせたものです。コウヤマキ製だとのことで、触感は、堅く、ちょっとぬめっとしたツヤのようなのを感じ、どっしりとし、高級な感じがしました。蓋には、年輪年代測定のために開けたという小さな5mm余の穴がありました。測定の結果は、約2100年前のものだとのことです。また、木棺の中に女性と思われる人骨があったそうです。
この木棺の近くに、鳥形木製品と、遺体を乗せるのにぴったりと思われる湾曲した板が展示されていました。鳥形木製品は長さ20cm余、2つの部分(胴と羽?)がつながったような形で、触っただけでは鳥と言えば鳥かな?という感じですが、見た目は遠くから見た鳥のシルエットがよくあらわされているようです。高さ2m近くの木の枝の先に取り付けられており、村の入口や墓地に立てられていたとのことです。死後、肉体から魂が離れて、その魂を天へ運ぶ役割があったとも考えられるとのことです。湾曲した板は、長さ150cm弱、幅40cmくらい、厚さ5cmくらいで、丸木舟の底の湾曲した部分そっくりの形状になっています(材質はモミの木だとのこと)。この板に直接遺体を乗せてから棺に入れたのではとのことです。これら木棺や、鳥形、舟形の板を触っていると、当時の人たちが葬送や死後の世界をどのようにとらえていたかなど、いろいろ想像がひろがります。
直接触って説明していただいた展示は以上のようですが、その他にもいくつか興味ある展示がありました。その一つが、国内最古だというキリシタン墓碑。2002年2月14日(バレンタインデー)に、千光寺(飯盛城の支城だった田原城主一族の菩提寺)跡から、花崗岩製の将棋の駒型の墓石が見つかり、上には H字を台座にした十字架?、下部に右から左に縦3行で「天正九年 辛巳 / 礼幡 / 八月七日」と刻まれているそうです(天正9年は1581年)。この「礼幡」がだれのことなのか、何と読むのかも分かりませんでしたが、ルイス・フロイスの『日本史』の中に、織田信長に挨拶に赴いた河内キリシタン武士の1人として礼幡が記されていて、読みも「レイマン」となっていたとのこと。以下、その背景です。
天下への野望を持つ三好長慶が、1560年四条畷駅からもすぐ近くに見える飯盛山城主になります(付近を東高野街道が通り、北は京都、東は奈良、南東は堺という立地)。1563年、飯盛山城でキリスト教が布教され、河内の主だった武士73人が洗礼を受けて河内国にキリスト教が広まります。田原城はその支城として奈良県側をかためる城。1574年田原城主も洗礼を受け洗礼名はレイマン。翌年、田原レイマンと河内の主だったキリシタン武士が京都にいる織田信長に挨拶に行ったことが『日本史』に記録されていたわけです。なお、レイマンの墓碑は千光寺跡の土塀の内側に隠されるように埋まっていたとのこと、おそらくその後の禁教令を受けて、元の位置からひそかに隠されたのではということです。
(2026年4月9日)