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「無理と道理」の二本立て 鎌倉街道 上道
平時の道 旅の道理にかなう道
鎌倉街道は武士専用ではなかったと思います。そう考えれば、
集落と集落を結び、水の得られる安全なところを通るのは旅人の「道理]ではないでしょうか。
「いざ鎌倉」の道 無理を承知の急ぐ道
高低差を度外視して、丘陵の稜線と谷間を一直線に抜ける道があります。
また、江戸時代の新田開発が始まるまで原野だった荒原を突き抜ける道もあります。
「無理」を押してでも鎌倉へ急ぐ道。まさに「いざ鎌倉」の道です。
所沢市にはこんな「道理」と「無理」の2種類の鎌倉街道があります。
(この分類は独善的で仮設でも何でもありません。ただ便宜的に呼ぶだけです。御笑覧ください。) |
狭山市三ツ木<堀兼道> 所沢市泉町
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三ッ木原古戦場の碑
抜粋 |
三ツ木村を開発したのは鎌倉幕府の御家人だった金子和泉守国重で、幕府の滅亡を期に当地へ移り住み、出身地の地名をとって三ッ木と名付けました。
武蔵国の全面支配を目指す北条氏綱は、大永四年(1524)に上杉朝興から江戸城を奪い、天文六年(1537)に河越城を手に入れようと軍勢を進め、7月11日に三ツ木に着陣しました。
これに対して上杉氏は、朝興の跡を継いだ朝定が、出撃して三ツ木原へ兵を進め、両軍入力乱れての戦いが始まりました。
これが「三ツ木原の合戦」と呼ばれる戦いです。 この合戦は、城を出た上杉方に討ち死にする者が多く、朝定の伯父の朝成も生け捕りになり、北条氏の勝利で終わりました。
河越城を奪われた朝定は、天文十四年(1545)9月に上杉憲政らと河越城を包囲してその奪還を目指しましたが、翌十五年4月に氏綱の跡を継いだ氏康の奇襲攻撃(河越夜戦)を受けて朝定は戦死、市内柏原に着陣した憲政も上野国へ逃れ、以後、武蔵国は北条氏の全面的な支配下に入りました。
平成十四年狭山市教育委員会 |
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堀兼道がどこで入間川を渡り、東三ツ木に至るのか
自分はわかっていません。
「女影から進んで対岸の上宿で渡河し、前宿―下奥富を経て東三ツ木に至る。」
という鎌倉街道上道の本道と位置づける説もあれば、
「川越市霞が関の関所を通り、的場付近で渡河して南下し東三ツ木に至る。」
とという川越西部からの道と指摘する説もあります。
そこで
両者の合流点である東三ツ木からスタートしました。
三ッ木古戦場
天文6年(1537)武蔵の支配を狙う北条氏綱と
扇谷上杉朝定の戦いがこの辺りで行われたとされています。
堀兼道へは三ツ木公園から南に進み、「東三ツ木」の交差点を
切り返すように左折した後、青柳と加佐志の境の道に入ります。
堀兼中学校に突き当る道です。
1住宅街を抜けると「鎌倉街道」の標柱が
立っています。 |
2.台地の上の道は畑の中の一本道です。
不老川の沖積地にも水田はなく畑地です。 |
3.、権現橋で不老川を渡ります。2月の渇水
期で河床が現れています。 |
4.橋のたもとには4基の石仏群があります。
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堀兼神社には
日本武尊が富士山に祈りやっと水を得た 伝説があります。
「堀兼の井」の跡。
大きく掘り下げた状態が残っています。
抜粋
「武蔵野の堀兼の井もあるものを
うれしく水の近づきにけり」
(千載集、藤原俊成)
の歌にもあるように、堀兼の井は
古くから書物に現れ非常に有名
なものです。
しかし、武蔵野には、数多くの堀兼の井と称する井があったと
推定され特定はできません。
この井の形態や使用方法は
入曽の七曲井と同様と考えられ、
昔は重要な役割を持っていたと
思われます。
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新編武蔵風土記稿
三ツ木村
三ヶ窪より東に鎌倉の古道とて小径あり
南の方所澤より、堀兼村にかゝり加佐志柳の界より村内へかゝり、
五丁許をへて奥富村の内にて八王子道に合ふ、
北條氏の寄せ来りしは此道なるべしと云う
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以前から本道と側道の間に
東山道があると推定されて
いた場所です。
平成24年の発掘調査で
東山道の遺構が
確認されました。
現在は埋め戻されています。
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堀兼神社の先でも道はほぼ直線的に続きます。
所沢市に近づくと、所沢市域が棒のように狭山市に食い込んでいる
場所があります。この場所の南で東山道の遺構が発見されました。
幅は20mあるかないかの雑木林で1q弱続きます。
この林縁の両側に道が続いています。
下富の「柳野遺跡」として指定されました。 |
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「ネオポリス西」の交差点で最接近します。 |
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道は下冨から花園町に入ります。
花園町を抜けると県道川越所沢線で遮られ、車での直進はできません。
砂川堀を渡る橋は車通行不可です。
新所沢地区は市街化と西武新宿線により
古道を辿ることはできません。
跨道橋側道に鎌倉街道が顔を出します。
所沢中学校で「入間川道」に合流します。
左が「入間川道」右が「堀兼道」です。
加佐志と青柳の境付近に丸山の池があり、弁財天が祭られています。往時は旅人の渇きを癒していたとのことです。
しかし、「堀兼の井」を過ぎれば、あてにできる泉や川はありません。
小手指道のような激しい高低差の連続はありません。その代わりに、これまでもこの先も、水の無い荒漠たる武蔵野の一本道です。
入間川宿をパスし、「いざ鎌倉」と先を急ぐ者にとって、やはり無理を承知で駆けぬける道だったと思います。
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東山道と堀兼道
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多くの考古学者や研究者が東山道武蔵路の遺構を明らかにしています。その結果、堀兼道との関係が相当に深いということは広く知られています。
そこで、それらをつまみ食いして、地図に落としてみました。
以下は地図の説明です。
<東の上遺跡の東山道が【西に10.5度】傾いている。>
青線右:東の上遺跡上を通る【西偏10.5度】の線
青線左:本町東山道遺構上を通る【西偏10.5度】の線
茶色線:鎌倉街道堀兼道。所沢以南は上道。
赤●:鎌倉街道堀兼道の遺構が発見された場所
橙●:発掘により明らかになっている東山道の遺構
2本の青線の間隔は500m以内です。この500mは
作図の誤差であり「誤差が生んだ偶然を拾っているだけ。」
とは思っています。
であるとしても「2本の線の間に東山道が通っている」
と想像するのは楽しいものです。
以下は作図をして誤差を念頭にした感想です。
<青線左が堀兼地区の鎌倉街道や柳野遺跡と重なる。>
<青線右が東の上遺跡・河原宿・若宮遺跡付近を通る。>
10q近く離れて誤差500mの幅の中にある
ことに驚きます。
当時の測位技術の高さに想像を逞しくしてしまいます。
<本町-八国山-東の上の3点が直線上にある。>
3点を通る以上、作り手の意図は確かだと思います。
八国山は狭山丘陵の最東端とはいえ、傾斜もきつく
高低差も20m近くあります。
最東端なので、回り込めばすぐ脇に平坦な土地が
あります。(鎌倉街道は迂回しています。)
それを選ばず、敢えて直線の道を作る為政者の意図に
驚きです。また、律令制の衰退とともに土の中に埋
もれたのも納得です。
地図上の河川・鉄道・道路等は国土地理院地理院地図
を参考にしています。
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