2003-10-04 寺田真理子さん と 建築あそび 記録
メディアとして建築をつたえること HOMEへ
学生時代−
01 SD編集 01
オランダでの展覧会 NAi−
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06 2部 オランダでの生活へ
学生時代−01
寺田さんがどんなことをやっていたのか分からないので、今日はゆっくりお話をお伺いしてゆきたいと思います。寺田さんに自己紹介をしていただき・・引き続きお話をしていただきましょう。聞くところによると雑誌の編集や・・
(会場笑い)展覧会の企画とかやっていらっしゃるそうなのです・・寺田さんでーす・・パチパチパチ
会場 拍手のあらし
s 寺田さんなにか呑みながらやらなくて いいですか
寺田
(以下t): ・・呑みながらやります・・
s
酒でいいですか?!・・
会場 こここれと日本酒をさす
s あ・この酒・・
大きいコップ・・これ、これででグイグイ呑むのー・
t いえいえ・・日本酒はヨッパラチャウので
s 酔っぱらってグジャグジャいいながら・・水は いいですか・・これ重いんですよ
と言いながら講師用に準備した・伊東豊雄デザインの椅子を移動して 講演態勢を整える
電気消したほうが分かりやすいですよね・・
t なんか・電気つけましょうよ・・
スポットを浴びている・・
s 電気つける ・・
t:ここだけ目立つ・・と注目されてるので・・恥ずかしがり微笑む・
会場 ・拍手パチパチパチ・・
s:いいじゃないですか・
・笑う
t:今日はお招きいただきありがとうございました。
私は、いままで来られた建築家の方々とは立場も全然違って、基本的には
キュレーターとしての仕事、つまり
展覧会を企画して 実際にオープンさせる というオーガナイズすることを中心にやっています。
99年にオランダに行ってからそういう活動をして来ました。
それまでは
大学を卒業してから、鹿島建設の関連会社で建築の専門書あるいは雑誌を出版している、
鹿島出版会という会社があるんですが、そこの
SDという
雑誌の編集に長く携わっていました。編集の経験の方が、どちらかというと展覧会を作っていくという仕事よりは長いのですが、今、両方やりつつ、どちらかというと
展覧会のほうに重点をおきつつやっています。でも
展覧会という仕事も、「編集」ということですから、私にとっては興味深い仕事です。
佐藤さんも私のことをあまりご存じないので、どのようにこの業界に入っていったのか、建築と関わるようになったのかというのを
学生時代の話から、
SD、そして
オランダでの仕事や生活、
帰国してからの東京での展覧会の仕事の話を、スライドをお見せしながらお話したいと思います。
この建築あそびのタイトルが「
メディアとして建築をつたえること」とあるように、
雑誌、展覧会というメディアを通して、建築を自分なりに どう考えて来たかということを、今までの仕事を振り返りつつ、お話します。こういうお話をすることは、「今までやってきたことを自分であらためて反省し、それえを今後につなげていければなー」と思っています。
★
学生時代 ★
私は
日本女子大学で勉強をしだんですけれども・・高校時代はたぶん
山本想太郎さんやここにいらっしゃる建築家の方々みたいに 美術が好きで、建築をまじめに考えていたということではなく。なにか
「女性として・・世の中に出たときに
どういう職業に就くと独り立ちできるのかな」と・・母には、同じ女性として相談していました。
うちの母は英語を学んで英文科を卒業したからといって、それが自分にしかできない技術であり、それによって独立するための学問だと思えなかったのでしょうか。
・・日本女子大学の付属高校から大学進学を決める際、大学に
住居学科というのがあるのを知っていたので、母は「
建築関係の仕事をすれば、独り立ちしたときに技術をもつことになるわよ」、「
女性という視点から住宅を考えるのは非常に有効でいい」と強く勧めてくれました。
そういった
母のアドバイスのもと、自分自身がどちらかというと理系だったこと、美術が好きでというよりは「
世の中に出て住宅をつくるというのは、すごく楽しいのではないか」と思いましたので住居学科へ進みました。
その後の大学生活といえば、女子大らしく大学の2年ぐらいまではノンビリしていました。海外を含めて建築家や建築物に対する知識や情報にはそれほど詳しくなくて。
早稲田大学と
日本女子大の
サークルで「
建築を考えてみようじゃないか・・」という真面目な建築サークルがありまして・・そこに2年生のときに入ってから、「
歴史的に有名な建築にはどういった作品があるのか」。
あるいは「
建築図面はどういうふうに書くのか」 というような、技術的なことも含めて、そのサークルを通して学び、徐々に建築に入り込んでいきました。
20歳になったときに両親が「
成人式の着物を買うよりはモット実りのあるものを・・」ということで、自分自身、「
実際の建築を観て勉強しよう」という意欲もあって、そういったことで
成人のお祝いをしてもらおうと
、
3年生の夏にヨーロッパ建築を見て歩くという
ツアーに参加しました。日本女子大学からも友達が大勢参加するような建築ツアーだったんですけれど、それに参加することでいろんな
大学の人とも知りあえたし、
建築というものがどういうものであるのか、実際に
古い建築から現代の建築まで、ヨーロッパにどういうのがあるのかというのを
自分の目で確かめられた。 ということで、
建築ということをそこで結びつきました。
そういった体験を通して、
建築家が作る建築そのものに対して徐々に興味を持ち始めました。その後は、「
積極的に建築に関わっていこう!」と友達に誘われては建築事務所に
アルバイトをしました。
山本さんが勤めていらっしゃった
坂倉事務所や
磯崎事務所、またゼネコンも鹿島建設や竹中工務店をはじめ、いろいろ
アルバイトすることで、実際の建築の図面を描くことと模型を作ることを学びました。
大学4年生は、私の人生の中でのひとつの転機なんです。仙台メディアテークの設計をされた建築家
伊東豊雄さんが日本女子大の設計の講師として来て下さっていて、その授業を私は取っていました。
伊東豊雄さんはじめ、ほかには
小林克弘さん・
富永譲さんという、世の中で建築家として活躍してらっしゃる先生方が日本女子大の設計の講師として来ていただいて、そこから
「本当の意味での建築の意味」というのを教えていただきました。
しかし、私にとっては
何といっても伊東豊雄さんという方が、私の人生を決める一人の大きなキーパーソンでもあるんです。
ちょうどそのときは、伊東さんにとってもこれから世界で活躍されて行く過渡期で、海外出張などで 忙しくなりつつある時期だったんです。そういう中でも日本女子大学に一生懸命 来てくださり、
お酒の好きな伊東さんと私達もはじめは
ミーハー的な思いもあって、よく
お酒を飲みに連れて行ってもらいました (笑い)。
毎週金曜日の授業だったんですが、だいたい6時ぐらいの終わってから、新宿で待ち合わせして飲みに行ってました。
友達が伊東豊雄さんの事務所にアルバイトしていていたこともあって、授業の最初の日に友達を迎えに行くとき、伊東事務所から伊東さんも一緒にタクシーに乗り込んで学校に向かいました。
そのとき、私達の上の世代も「
伊東豊雄さんとカラオケに行った!」とかで
私達も憧れていたこともあって、タイミングよく、その初日から、「
じゃ 呑に行きますか」という感じで、伊東さんとの付き合いは始まりました。
二回目の設計製図の時から、仲間四人と伊東豊雄さんと授業が終われば・・「
じゃ夜7時に新宿の待ち合わせしましょう」ということで
毎週のように、私
たちは呑みに行っていました。
我々も伊東さんの建築をはじめとして、日本のほかの建築家の建築も学び始めました。伊東さんも 呑み会に
石山修武さんとか、当時まだ駆け出しだった
妹島和世さんを呼ばれて、そういった方々と
交流させていただきました。
ちょうどその時期は私たちは就職活動だったんですが、「
どういうふうな感じで人生を決めて行くか」というとき、私は伊東さんの事務所や鹿島建設でアルバイトしていたんです。「
行くならば建築事務所のような小さな世界じゃなくて、ゼネコンのような大きな組織の中に居る方がいいのかなー」と最初はそんな風にぼんやりと思っていたのでした。とはいえ、「
いい女性として設計活動ができる良いチャンスがあるのは大林組だ」というのも当時思っていました。★
実際、大林に面接もかなり進んでいたんですけれども、途中で伊東豊雄さんに出会ったこともあって、私の中ではもう一方で「
設計ということじゃなくて、なにか建築をメディアで紹介するような物事を企画したり、編集したり」ということに凄く興味がありました。
私自身の中にも「
ゼネコンに入ってしまうと、引かれたレールの上に人生が進んでいる」ような脅迫観念があって、
企画編集みたいなことをやると、もうすこしいろんな事が展開して
「面白い人生を歩めるかなあ・・」という思いはありました。そんな思いを持ちながら就職活動をしてましたが
思い切って
伊東豊雄さんに「
自分自身どいいう道に進むべきか、設計みたいなことをやていくべきか、あるいは興味のある編集の仕事に就くほうがいいか」相談したところ、「
お前は編集者になれ!」と即答されたので、「
わかりました、そうですかと」と言って、大林の話はさっさと止めてしまって「
編集の方向へ進もう」と大きく決断したのも
伊東豊雄さんの出会いによるものです。
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