斎宮と宣長と松阪牛の旅 | |||
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まずは斎宮歴史博物館(明和町)へ | |||
平成25年(2013年)、1月26日。第二回古事記に親しむ会、ニコニコバス旅行のご報告。 今回は松坂の本居宣長記念館に行くことになったので、少し足を伸ばして明和町の斎宮博物館にも皆様をご案内させて頂く事になりました。 一回目は国生みの島、 淡路島〜いざなぎ神宮正式参拝〜沼島でした。 |
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謎の斎王と斎宮? | |||
斎王とは天皇の代わりに伊勢のアマテラス大御神にお使えする未婚の皇女のこと。 その斎王の住む宮が斎宮と呼ばれていました。 斎王が斎宮を出て都に帰るのは天皇が死んだ時か身内に不幸が出た時のみと厳しく決められていたそうです。 長らくその宮跡は不明でしたが、戦後明和町で大規模な宅地開発があり、斎宮遺構が次々と発見されました。今も明和町では発掘が続きその規模は大変壮大なもので、福岡の大宰府に次ぐ大きさだったことが判ってきたということです。 斎王の始まりは、祟神天皇の頃、都に疫病が蔓延。 天皇の夢にアマテラス大御神を宮中から外に出して祀れば収まるとのご神託が降り、天皇の娘、トヨスキイリ姫が初代の御杖代となって各地を巡幸。二代目のヤマト姫の代に今の伊勢の地に鎮まったと伝わっています。 斎王の記述は源氏物語の中にも書かれているのですが、実際には斎王がどのようなことをしていたのかは謎に包まれたまま・・・。 天皇一代に一人という厳しい選抜で、時としては未婚のまま一生を神に使えた斎王や卜占で選ばれて二歳の時に斎王になったという皇女もいるそうです。 この斎宮歴史博物館は伊勢と松坂の中間地点にあり、地味な観光地なので、訪れる人がとても少ないのですが、写真の様に立派な施設で、展示物も充実しています。 |
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この日は館内のシアターで斎王巡行の短いビデオを見てから学芸員の方から細かい説明を受けました。 巡行のコースは京の都から、鈴鹿越え、伊賀超えの二通りあったそうです。 いずれも500人近いお供をつれた大層な道中だったとのこと。 斎王に選ばれて、宮中での別れの儀式の時に天皇から渡される品物の中でも大事なものは別れの櫛と餌袋の二つだったそうです。(写真右上) 櫛は近年まで親しい人との別れの際には櫛を贈る習慣が残っているほど、魂の宿るもの(すさのおがヤマタノオロチ退治の時に姫を櫛に変えて頭に挿した)として近年まで伝わっているのですが・・・、 餌袋のことがわかりません? 銀の壷の中に金のお菓子が入っているものだと、ビデオでは解説されていたのですが?いまいちどうも腑に落ちませんでした。 ところが、会員さんの一人が館内の餌袋の展示の前で、この壷の中には斎王のへその緒が入っていた可能性があると説明を受けたことを教えてくれました。 これは、大発見! へその緒は母体と胎児をつなぐもの。自分のDNAが入っているのですよね。 万一の病気の時にはへその緒を煎じて飲めば病が癒えるとも言われますし、精神が錯乱した時などにはへその緒を握らせると心が落ち着くとも言われるほど・・・ へその緒と魂が宿るとされている櫛を、今生の別れに当たってアマテラス大御神に使えるわが娘に、父親である天皇が、自ら手渡し持たせたというのなら、すごく納得です。 |
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創業明治三年の日本料理店(快楽亭)で松坂肉ランチ( ^)o(^ ) | |||
前回のバス旅行は明石大橋の通行料や船代が嵩み、簡単なお弁当を車内で食べただけですが、今回はちょっと贅沢してお座敷で石焼松坂肉(70グラム・・・)の昼食。 バスの中では感じなかったのですが、お座敷にずらっ〜と並ぶと、今回もこんなにたくさんの方が参加してくださったのだなぁ〜〜ととてもうれしかったです。 ちなみに伊勢から現地参加(バスに乗らずにマイカーで合流してくださった方や、岐阜県から現地参加、現地解散してご参加くださった方、朝に急用が発生し、近鉄特急に乗ってお昼に合流してくださった方も・・・。本当にありがとうございました。) |
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さて、お腹も一杯(?)になったところで、いよいよ本命の本居宣長記念館へ。 古事記に関わる限りはこの記念館へは一度は足を運ばなければ!!! 私たちが「古事記のものがたり」の本を書いた頃は「古事記」は本当にマイナーでした。本居宣長翁の名も一部の国学や歴史学者のなかでこそ高名でしたが、一般的にはあまり知られていませんでした。本を書いてすぐの頃、ご挨拶に記念館を訪れた時に、先代の館長さんがとてもわかりやすい本を書いてくれてありがとうと褒めてくださったことが忘れられません。そのとき松坂の市役所の方々がわざわざ宣長翁の菩提寺の空墓や本当のお墓・奥墓までも案内して下さいました。 以来、光栄なことに記念館館内で私たちの本を販売してくださるご縁ができました。 |
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今回も古事記に親しむ会の皆さんをご案内するので、どなたか学芸員の方に案内をお願いしたいとお電話したところ、お忙しい吉田館長さん自ら展示物一つ一つの前に立って、宣長翁のまじめな人となりと超人的な努力、また、古事記をどんなに深く愛して研究してしたかを力説してくださって全員感激でした。 本居宣長という人は日常のどんな些細なことでも全て、几帳面な整然とした文字で日記に書き残しているのです。特に13歳の時から書き始めた日記はなんと、生まれた時に遡って克明に書き残しています! おまけに、自分の葬式の手配からお墓の形式までをすべて事前に事細かく絵に描いて子どもたちに指示していました。 特に山室山の奥墓は宣長翁が神武天皇陵墓を探し回った折にその目で見た神武天皇陵を真似てデザインし絵を描いたと伝わっています。江戸時代にはすでに初代天皇である神武天皇の墓は不明になっていたのですね。 そして、散々探し回って見つけた小さな古墳を神武天皇陵と確信してそっくりに自分の墓を造らせたのです。ということは・・・橿原市の神武天皇陵の今の大きさからすると?? まあ、まあ、いろいろ事情もあったようですが、とにかく一度・・・ ぜひぜひ、松坂の記念館に行って展示物や日記、宣長の自筆の墓の絵などをその目でみてきてくださいね。 写真はその日記のほんの一部です。(右上の写真)この絵はオーロラだと言われています。江戸時代に日本中でオーロラが観測されたという記録が残っているそうですが、宣長もこの時のことを日記に記していたのですね。 前に伺った時には、空に光が現れてジグザグに動いて消えた! と言う日記と不思議な浮遊物の絵が展示されていました。これって・・・・UFOじゃないですか( ^)o(^ ) 宣長翁がUFOを見ていたなんて! いいなぁ〜〜〜〜。 |
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宣長翁が26歳の時に京の都で初めて買った古事記の本と自宅(移築) | |||
館長さんの説明によると、とにかく宣長という人はものすごく集中力に優れた性格で、一つのことを考え始めると寝てもさめてのそのことばかりが頭にあって、それが解決するまで執拗に追及の手を休めなかったそうです。 私的にはあまり、友達になりたくない人物だったような・・・・ でも、その宣長翁がいなければ、今の時代に「古事記」はまちがいなく伝わっていないので、国学者として切手にもなるような大人物だったことは否めません。 今回、館長さんのお話の中で特に心に響いた言葉があります。 俗に松坂の一夜として 宣長翁と賀茂真淵のたった一夜の出会いのエピソードが残されています。 その中で、宣長は積年の願いだった有名な国学者がお伊勢参りの帰りに松坂に宿をとるのを待ちかねて参上し、古事記についての講釈を受けます。 その時、宣長は馬渕にこう尋ねたということです。 「私は、古事記は「声」に出して感じるものだと思うのですが、先生はいかが思われますか?」 馬渕は「その通りです」と答えて、さらに 「古事記は漢字の向こうに聞こえる稗田阿礼の声を、体中を耳にしてその音を感じ取ることこそ大事なことです」と付け足したと伝わっています。 古事記の中に稗田阿礼の声を感じ取ること( ^)o(^ ) 古事記は漢字を読んだり、部分を研究したりするのではなく、「声」こそが命!! なんか、すごく感動してしまいました〜〜〜。 全文中国の文字・漢文で書かれている日本書紀に対して、 古代の人の話言葉で書かれている古事記!。 おおらかな古代人たちの言葉の響きを少しでも感じることができたら・・・ 今後の「古事記に親しむ会」の方向性が見え隠れしてきました( ^)o(^ ) 館長さん、本居宣長翁、本当にありがとうございました。 |
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本居宣長の宮と松阪神社と御城番屋敷 最後に松坂城下にいまも整然と残る、下級武士たちの屋敷・御城番屋敷見学と移築された本居宣長の屋敷と松坂神社に参拝して無事に第二回ニコニコバス旅行を終えました。 次回は一泊二日で三女神の次女、斎島姫を祀る宮島と弥山山頂のイワクラ探検ツアーを計画していまぁ〜す。 皆様のご参加お待ちしておりますね!! |
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