天河大弁財天の七夕祭り(灯篭流し)
ガイアシンフォニー第五番撮影スタート
蛇の倉の磐座探検 2003年8月4日
天河神社の七夕祭

夜空に浮かぶ天上の天の川。織姫と彦星が年に一度出会うと言われている七夕。

しかし今はほとんどの神社が新暦で七夕祭りを行なっているので二人は決して会うことはできない。……と思う。(+_+)

さて、奈良県天川村の山奥にある天河大弁財天神社では毎年旧暦で七夕祭のご神事が行われているので、2003年8月4日(月)ガイアシンフォニー第五番撮影開始の取材をかねて参拝した。

天河神社のご祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。古事記の中でアマテラスとスサノオが天の安の河原で「うけひ」をしたときにスサノオの刀から生まれた三人の女神の真中(次女)の神様だ。それがいつの間にかインドの水の女神・サラスバティーと集合されて弁財天となった。

弁財天(弁才天)は七福神の中では唯一の女神で、音楽、弁舌才智、水の神、芸術の神とされ日本では芸能の神さまとして広まっている。

南北朝時代には、吉野の最奥の地である天川村が南朝帝の拠点となり、御所が置かれていたとのことだ。御所といっても、決して華やかなものではなく、都の追っ手を逃れてひっそりと隠れ住んだに違いない。

天河神社はかなり前から東京方面のマスコミや芸能、音楽関係者たちの口コミで、密かに信仰されていたらしいが、新社殿が完成し、映画(天河村殺人事件)にも登場してからは一般にも知られるようになった。

天川村は今だに女人禁制を堅く守る修験道の山、大峯山のお膝元にあり、天河神社の元地である元宮の場所で1300年前に役行者が琵琶の音を聴いて女神を感応したとの伝承がある。かなり昔から行者や霊能者たちのパワースポットだったに違いない。

七夕祭り神事に先立って、宮司さんが旧暦の7月7日には天上の天ノ河の流れと、地上を南北に流れる天川村の天の川の流れの方向がぴったり一致すると教えてくださった。それで、この川が天の川と呼ばれている理由が解った。

大阪では見ることのできない満天の星空と、夜空を流れる天ノ河を期待していたが、この日はあいにくの曇り空で星が見えなかっため、この目で確認できなかったのが残念。
天河神社の太鼓橋のところで撮影する龍村監督を発見! 

龍村仁監督の映画「地球交響曲第五番」」がいよいよこの天河神社の七夕祭りと精霊流しで撮影がスタートするという情報を得て(監督の取材許可をもらって)レポート記事を書く、というのが今回天川に来た本来の目的なのだ。

地球交響曲はこれまで四番まで公開され、映画を見て感動した人々の口コミで一番、二番、三番、四番の自主上映会がいまだに日本各地で開かれている。一般的な商業映画は一ヶ月ほどで上映が終わってしまうことを思えば、映画関係者の間では奇跡だとうわさされるほど息の長いすばらしいドキュメンタリー映画だ。

日本中にはガイアネットワークがあって監督のファンがいっぱいいる。次の作品・ガイア第五番はいつ撮影が始まるのか、と誰もが期待して待っているので、いち早くその撮影現場をこの目で見ることができるのはラッキーなことだ。

このあと龍村監督の後ろを二人で金魚の糞よろしくつけまわした。監督、邪魔にならないように気をつけていたんですが邪魔でなかったですよね。

写真は、スタッフと天河神社の境内を撮影している龍村監督。腕ぐみなんかして相変わらずダンディーだ。じつは、龍村監督のご先祖は南朝の天皇様と大変ゆかりが深く、そのご縁で、吉野の丹生川上神社上社や天河神社への思い入れが人一倍強いということを私は監督から何度も聞いてよく知っている。

13年程前、地球交響曲第一番の撮影が始まった頃にも、監督は天河神社のご神事をたくさん映像に収めていて、その「裏ガイア」とも呼ばれる極秘映像を密かに見せてもらったこともある。

だから、第五番の撮影がこの天河でスタートすると聞いてなぜか理由は解らないが、すっごく納得するものがあった。

詳しいレポート記事は2003年10月号の月刊誌「波動」に掲載するので、楽しみにしてください。
精霊流し

午後の三時に七夕神事が始まった。

拝殿では歌や踊りが奉納されていた。スーザン・オズボーンが歌っていたそのとき、突然雷が鳴り響いた。同時にスコールのような大雨が降り出した。弁財天さまの眷属は竜神様なので、雨はつきものと思ったのだが、神事が終わってもなかなか止まない。

宮司さんが、参拝客に気を使って、雨宿りの間にいろいろお話をしてくださったりしている間にようやく雨が小止みになった。

監督たちはさすがに用意周到で、機材を濡れないように手際よくビニールで覆って一旦宿に引き上げて行った。

私たちも神社のビニール傘を借りて一旦宿に帰り夜の七時から始まる精霊流しの時間まで食事することにした。

宿の人の話では、「いつも七夕祭の時には雨が降るんですよ」ということだった。というか夕立のような激しい雨はしょっちゅうとのことだ。「今日の雨は少し長いけどね」と宿の人が窓の外の雨を見ながらつけたした。

夜7時からは宮司さんの予告どおり雨は上がって雲間から少し月も見えた。精霊流しの会場は天の川の河原に移され、ゴマが焚かれて、いよいよ灯篭流し神事が始まった。 ここの精霊流しは、純粋に神事として行われているので観光化されていない。人家もなく真っ暗でものすごく静かだ。とてもおごそかな雰囲気が漂っている。

暗くなった川面に千基近くもの灯篭がゆらゆらと流れていく様は、あまりにも幻想的で美しく、私たちは仕事を忘れて眺めていた。もちろん龍村監督たちもその光景をフィルムに収めていた。

ひとつひとつの灯篭には、ご先祖供養のために灯篭を流した人の名前と今は亡き故人の名前が書かれている。千基ほどの灯篭が川の流れに沿って流れていくのだが、流れていく場所によっては岸辺近くに漂って同じ場所を何度も何度も回っている灯篭が数十基あった。

その中のひとつに今年の春に亡くなった見覚えのある名を見つけた。「ガイア」の音楽を担当したMさんの名前だ。

彼はまだこの世に未練があってあの世に帰れないでいるのかも知れないなと思った。

私たちは岸辺に行き、手で波を起こして灯篭たちを本流にまで行くようにとバシャバシャと水をかき回すという余計なおせっかいをした。二人で一生懸命水を掻いた。そのかいあっていくつかの灯篭がさよならを言って本流へと流れていく。

その灯篭は一基2500円で、申し込めば各自のご先祖や今年亡くなった新仏様の霊が成仏するようにと名前を書いて火を灯し、川に流すことが出来るので興味のある人はぜひ来年行ってみてください。(^o^)丿
ガイアシンフォニー第五番の取材も終わり、私たちは次の日、天河の禊殿から洞川(どろがわ)そして蛇の倉の磐座へと探検した。
天河大弁財天の奥社・禊殿

禊殿は天河大弁財天神社からだと歩いて7分ぐらいのところの、二つの川が合流している川股にある。背後の山は高倉山と呼ばれており山頂は今でも禁足地となっている神奈備山だ。

高さ15メートルほどの低い山で、頂上から水が湧き出している。

その水を利用した禊場が、この禊殿の右横の河原にある。石ころだらけの道を川沿いに沿って少し歩いていくと岩盤の上から水が落ちてくる場所があって、シャワーのような感じで水が落下している。気持ちよさそうだったので、「わーい」と服を着たままその滝に打たれ、写真を写した。

せっかく来たのだからと、童心にかえり、ズボンの裾をひざまでたくし上げて裸足でジャブジャブと川の中に入った。川の水は冷たく、ここちよい。あんまり冷たいので今度は川の中にデンと居座っている大きな岩の上に乗るととても温かかった。そうやって川の中で遊んでいたら、晴明さんが赤ん坊の握りこぶし位の大きさの隕石を拾った。

晴明さんは昨年も丹生川上神社上社がダムに沈む為、龍神さまの鎮魂祭をした時に、夜中にストーンサークルなどがあった一万年前の縄文遺跡のご神木の辺りから縄文土器の破片を数枚拾って、みんなをびっくりさせたことがある。彼はその土器を監督やみんなに惜しげもなく分けていた。

今回もふっと、川の中の石を手にしたら隕石だったということらしい。彼には特殊なセンサーが内蔵されているに違いない。

七夕の日に天の川で隕石を拾うというのも大変不思議な出来事で、天上の織姫さまと彦星さまからのプレゼントなのかも知れないと思った。

そういえば、この禊殿の場所では何人もの人がUFOを見たと聞いたことがある。本当かどうかは別として、私たちは一度もそんな幸運に恵まれたことがないのが残念だ。UFOを見れないのは、意識のレベルがまだそこまで到達していないからだとある人は言う。でも偶然、縄文土器を見つけたり隕石を拾ったりできる彼ならきっともうすぐUFOを見れるかも〜。

それにしても、この日は神社のお祭りだというのに、ここは人気がなく、がらんとして何か寂しげな感じを受けた。もっと、みんなこっちにもお参りしてあげてください。この高倉山はすごいパワースポットなんですからね。

もしかしてあなたにも隕石が授かるかも?
修験道のメッカ・洞川(どろがわ)地区

天川に行った帰りに足をのばし、一年前から行きたかった念願の場所、洞川の蛇の倉の岩くらにようやく登拝することが出来た。残念ながら蛇の倉七尾山頂は聖地で撮影禁止のため写真をご紹介できないのであしからず。

洞川は大峯登山の行者の宿泊施設がずらっと軒をならべている。その一番端、有名なごろごろ水の近くの「嫁ヶ茶屋」さんで『古事記のものがたり』を置いて下さっている。嫁ヶ茶屋は大峯修験者だけでなく日本中から霊感の強い人が吸い寄せられたように集まってくるとても不思議な店だ。その「嫁ヶ茶屋」さんの近くに蛇の倉七尾山の登山道がある。

蛇の倉七尾山には仙人が住んでいるといううわさもあるが、私はまだお目にかかった事はない。彼は何しろ神出鬼没なのでよっぽどご縁のある人しか会えないらしい。

蛇の倉に登拝するには、まず、登山口にある受付で、住所と名前を記入して白衣を借りなければならない。もちろん無料だ。受付にはかわいらしい女の子がいて、親切に入山の心得を聞かせてくれる。それが済めばいよいよ入山だ。

山頂の孔雀門までは40分ほどで着く。この孔雀門があの世とこの世の結界だとされている。道はよく整備されているので迷うことはない。

この山はすべて石灰岩で出来ていてところどころで白い岩盤が露呈していた。今は草木が生えて汚れているけれども、昔は山全体が真っ白な石灰岩でおおわれていて、エジプトのピラミッドのように輝いていたのではないだろうかと想像した。

孔雀門でお払いをしてもらい、先達に案内されて洞窟へと入る。そして洞窟の奥にある鎖の梯子を垂直に15メートルほど上ることになる。これがとても怖い。命綱はないし、体がようやく通るぐらいの狭い縦穴トンネルのような岩場だし、足元が濡れて滑りそうだ。

中は真っ暗だが、先達が梯子の途中の岩にろうそくを次々に灯してくれるのでぼんやりと明るい。下を見るとろうそくの灯りが点々と続いて見える。ろうそくがあまりにも梯子の近くにあるため服が燃えないかなと思ったりもした。

登りきった所に平坦な空間があった。ろうそくの灯りだけなのではっきりとわからないが、クフ王のピラミッドの石室をずっと小さくした6畳くらいの広さはあったと思う。先達のろうそくの灯りが奥へと移動する。その灯りは突き当たりの壁を照らして止まった。

正面に自然石で出来た祭壇が祀ってあった。

先達の説明によると、役の行者や空海がこの鍾乳洞の中で何日も篭って修行していたという。そして今私たちがいるこの洞の上にはもっと広い空間があるらしく、その広場で八百万の神々が会議をしている、と教えてくれた。しかし役の行者や空海たちは当時どうやってここまで登ったのかという疑問が湧いた。

ろうそくだけの明かりの中でようやく目が慣れてきた。天井までは七メートルぐらいはありそうだ。洞内は三角錐のように、三枚の大きな岩がもたれかかるようにして広い空間が出来ていた。それぞれの三枚の壁面には三叉の剣の鍾乳石や白龍のような形の鍾乳石が見てとれた。それらはすべて何千年もの長い年月の末に出来上った鍾乳石たちだ。

先達が唱える祝詞と般若心経を、狭い空間で反響するのをじっと聞いていたら。天井から冷たい水滴がポタリポタリと落ちてきて、肩や頭を濡らした。冷気と霊気が体の隅々まで染み渡ってくるようだった。

そのときは私たち以外には人がいなかったので、先達の話を聞いたり祝詞をあげてもらったりと洞の中でゆっくり過ごす時間が持てたが、今朝の3時頃には100人程の団体が早朝登拝していたので、ここまで登るのに1時間ほど順番待ちをしなければならなかったらしい。

帰りに、鎖の梯子を降りきったところに大きな蛙がいた。蛙は古事記の中でタニグクと呼ばれている。そして役の行者の使いでもあるそうだ。じっと私たちのほうを見て動かないこの蛙は、もしかして役の行者の指令を受けて私たちを見送りに来たのかもしれない、と思いながら孔雀門を出た。

下山後、有名なごろごろ水の取水場へ行こうと思っていたのだが、「嫁ヶ茶屋」の若奥さんに店の裏側に役の行者が大峯山を開く前に住居にしていた洞窟があると教わったので蝙蝠窟と蟷螂の岩屋に行くことにした。

この日は気温三十度を越す暑さだったが、蟷螂窟からはまるで冷蔵庫の冷凍室の扉をを開けた時のような冷気が白い煙とともに吹き出していた。中に入ったとたん寒さで血管がちじんだ。頭を低く下げて真っ暗な中を懐中電灯を頼りに奥に進んだ。

ということでこれから先は、みなさんもぜひ体験してください。きっと素敵なこうもりたちが迎えてくれることでしょう。ここらの白いきれいな石はすべて一億年前に海の底が隆起したときにできた石灰岩ということらしいです。懐中電灯を忘れないようにね。

この二つの洞窟の前を流れる水の冷たくてきれいな事と、蛇の倉の岩くらのパワーに感動したことだけを今回はご報告させていただきます。川の中では家族連れが楽しそうに泳いでおりました。

あまりに川で遊びすぎて、バスの時間が来てしまい肝心の洞川の温泉に入るのは、次回、秋の紅葉の頃までお預けにすることとなりました。

最後になりましたが、天河の大弁財天神社の御祭神を皆さんは弁天さんと言っておられますが本来の日本名は「いちきしま姫」ということを忘れないでね。

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