夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その128 発行日   2012年5月20日
編集・著作者     森 みつぐ
  季節風
 桜の季節も終わりを告げ、木々の若葉が徐々に広がり始めてきた。ゴールデンウィーク中には、暖かい日が続いたが、その後の気温は、良くて平年並みに留まっていた。4月の末に見たモンシロチョウも、その後、一匹見ただけである。
 路傍では、クロヤマアリが歩き始め、巣の周りには乾いた土が散乱している。タンポポは満開となり、丈の高くなるオオイアタドリの茎が伸びてきた。豊平川は、雪解け水で今がもっとも豊富な水量となっている。そして、また気温は上昇してきた。今年は、寒暖の差が激しい夏になりそうである。
  言いたい放題
 「内閣府が31日に発表した「社会意識に関する世論調査」で、東日本大震災後、社会との結びつきについて「前よりも大切だと思うようになった」が79.6%と、「特に変わらない」19.7%、「前よりも大切だとは思わなくなった」0.5%を大きく上回った。震災をきっかけに支援活動などを通じて社会との一体感や助け合いの意識が高まった表れと見られる。」(読売新聞より)
 震災後、「家族や親戚とのつながり」「地域でのつながり」「社会全体として助け合うこと」「友人と知人とのつながり」など、きずなの大切さを認識したという調査結果になっている。孤独死、孤立死が問題化する中、望ましい意識変化であるように思われるのだが、実際にはどうなのだろうか。社会との結びつきが大事だと思っても、現実には、そのような行動をしていないのではないだろうか。
 震災後、自治会、町内会に入会している割合が増えているということは聞いたこともない。相変わらず地域社会は希薄化したままである。心を満たすことより、物を満たすことに躍起になっているだけのように思われても来るのである。
  つくしんぼの詩
 先月から車による暴走事故や歩道に突っ込む事故、バスの激突事故など、多くの犠牲者を出した大事故が頻発した。これだけの大事故が続いても、何事もなかったように、いつものように車は走り回っている。車を運転するには免許を必要とするが、私には、猫も杓子も取得できるこの免許が何を意味するのか理解できない。
 誰もが便利な生活を追及するあまり、多くの犠牲を払うことを厭わない。交通事故で重傷を負おうと死のうと、便利さを得る為には止むを得ないことなのである。新聞やテレビなどのマスメディアが毎日、全交通事故の記事を載せることにすれば、どれだけバカなことをしているかを認識するのではないだろうか。それとも、バカには通用しないのだろうか。
  虫尽し
 先日、今年初めていつもの林道を歩いてきた。雪は、既に僅かに残るだけとなり、エゾヤマザクラの薄い桃色の花が満開を迎えていた。カタクリ、エゾエンゴサク、ニリンソウ、そしてシラネアオイがまだ枯葉で埋もれた侘しい林床を飾っていた。
 林道を歩いていたら、越冬して翅の傷んだシータテハ、クジャクチョウやキベリタテハが翔び立つ。青い翅のチョウが視界を通り過ぎて行く。暫らく振りのルリタテハだった。“春だな!”
  情報の小窓
『何も期待していないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが<旱天の慈雨>として感じられるのだ。そこにおのずとわきあがってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然と消えていく。だから慣れないことが大切だ。いつも何も期待しない最初の地点に立ちもどりつつ生きるしかない。』
 幻冬舎新書「大河の一滴」五木寛之著

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