夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その132 発行日   2012年9月23日
編集・著作者     森 みつぐ
  季節風
 厳しい残暑が続く中、ベランダの小さな鉢植えのミカンやガジュマルの木が、元気に葉っぱを広げながらすくすく育っている。母の育てているハイビスカスも、枝葉を大きく広げて毎日のように赤い花を咲かせ続けている。
 今年の札幌の夏は、暖かい地方の草木には大変過ごしやすい気候だったようである。それでも、30℃を超えた先日、秋の花イヌサフランが2輪咲いているのを見た。既にコスモスが咲き誇り、これからは菊の季節へと移って行くことだろう。
  言いたい放題
 先日、読売新聞に、葛西敬之氏(JR東海会長)の政府の「原発ゼロ」政策に対する論評が掲載されていた。「「民意に従う」と政治家は言う。一方、民意を啓発し、先導すべき時に政治家が大衆迎合し、専門家が沈黙したために滅びた愚行の先例に人類の歴史は満ちている。」と。
 この論評の中で私が留意した点は、「原発ゼロ」問題ではなくて、次の点である。「人々の生活は多様なリスクと共存している。例えば自動車や航空機、高速鉄道のような輸送システムも同様である。要はどこまでリスクを制御・克服し、覚悟を決めて活用するかだ。自動車は日本国内だけでも毎年5000人の事故死を出している。それでも自動車の利便性を人は捨てない。航空機が墜落すれば乗客は死亡する。・・・(中略)・・・原発も本質は同じだ。」
 航空機や高速鉄道とマイカーのリスクとを、同等に論じることが出来るとは思えない。まして原発と輸送システムのリスクが“本質は同じ”だなんて、何で言えるのだろうか。輸送システムの事故では、場所・時間はその場限りであるが、原発では、場所も時間も拡散してゆくのである。“毎年5000人の自動車事故死を出しているのに、自動車の利便性を人は捨てない”と言っているが、マイカーを手放さないのは、利便性の既得権益にしがみ付き、5000人という事故死を直視しないように思考を停止してしまっているからである。5000人の事故死を、自分のこととして考えないようにしているだけである。“原発も本質は同じ”であるはずがない。
  つくしんぼの詩
 65歳以上3047万人(総人口に占める割合24.1%)、70歳以上2256万人、75歳以上1517万人、80歳以上893万人(9月15日現在)。
 超高齢化社会は、着実に進んでいるようだ。60歳定年では、確実に労働人口は減ってゆく。65歳定年になったとしても、減少を止めることは無理であろう。定年は、もう廃止して働き続けられるようにすれば良い。ただ、60歳で、働き続けるか働くのを辞めるかを選択できるようにしておく必要がある。
  虫尽し
 私が歩いている山林には、ヤママユガの仲間が4種類以上いる。クスサン、ヒメヤママユ、オオミズアオ、そしてエゾヨツメである。多分、ウスタビガなど他にも数種類棲んでいると思われるが、まだ、幼虫も成虫も見ていない。
 いつもの林道を歩いていたら、道端に大きな幼虫が何匹も横たわっていた。白い長毛の生えたクスサンの幼虫である。“なんで、こんなところで死んでいるのだろうか?“と思って、周囲を見渡してみると、大木2本が丸裸になっていた。繭を作る場所を探しているうちに、暑さで動けなくなってしまったようである。
  情報の小窓
『つまり勝ち組と負け組では社会的階層は全く違うが、いずれも他者に対する積極的な感情を喪失している。皆、著名な精神科医カレン・ホーナイの言うところの積極的感情がない。人とつながっていこうとしていない。社会から降りた人は所属意識がないから、劣等感を持っている。劣等感を持っていると言うことはオーストラリアの精神科医ベラン・ウルフが言うように利己主義者である。このままだと勝った者も負けた者も競争から降りた人々も皆不幸になる。』
 角川Oneテーマ21「非社会性の心理学」加藤諦三著

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