夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その46 発行日 2003年9月14日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 今年の虫の音は、少し淋しい。7月後半から始まったアブラゼミとクマゼミの合唱は、例年に較べて疎らに聞こえてきた。まだ啼いてもいないのに、道端にセミの屍体が転がってもいた。そして今は、ゆく夏を名残り惜しそうに、遠くの方で啼いている。
 毎年お盆の休み、海外から帰ってきて寝床に就くと、リィリィリィと秋の音ツヅレサセコオロギの鳴き声が聞こえてきた。しかし今年は、どうしたことか聞こえてこなかった。淋しい秋になるかなと思っていたが、今年は、チンチンと啼くカネタタキの威勢がいい。でも来年はやはり、ツヅレサセコオロギが戻ってきて欲しいのだが。
  言いたい放題
 夕方、薄暮の中をジョギングしていた。青信号を渡って歩道を走っていたら、前方からライトを点けた自転車が2台やってきた。車道側に1台、歩道側に1台と思っていたら、2台ともバイクである。“おい、おい!何処走っているんだ!”と言っても知らぬ振りして歩道を走ってゆく。顔を見ると中高年の男性であった。
 そんな光景に会い、ふと思い出した。池田小児童殺傷事件の被告が判決公判で、改訂直後に騒ぎ退廷させられた。最後まで自己主張し続け、自己中心的な性格は、典型的な現代人のような気がするのである。大人がそうなのである。子どもたちの鑑とならなければならない責任のある大人が、そうなのである。裁判長は、「被告の自己中心的で他人の痛みを顧みない著しく偏った人格傾向・・・」と言っているが、これは事件の被告に限ったことではない。今や、老若男女を問わず現代人の傾向である。
 大人しく自己主張しない人たちが損をする社会である。屁理屈を並べて黒を白と言いくるめるディベートが尊ばれる。正しいか誤っているかで言い争うのではない。詭弁を展開して、相手を言い負かすのである。この競争社会を生きるには役に立つのかも知れないが、多分、虚ろな心はいつまでも満たされることはないだろう。
  つくしんぼの詩
 9月15日は、敬老の日である。まもなく百歳以上のお年寄りは、全国で2万人を突破すると云う。高齢者が増えてきたというのに日本人の心は、だんだん荒んできている。
 お年寄りの長い人生の中で培われてきた豊かな心は、私たち日本人が大事にしてゆかなければならない大切な文化である。そのお年寄りを社会の隅に追いやってきた。しかし私たちは、今、それを必要としているのである。嘆かわしい日本人の心を、一新しなくてはならない。お年寄りは、まだまだ呆けてはいられないのである。
  虫尽し
 アメリカ中西部のロッキー山脈の7月は、炎暑の中だった。ソルト・レイク・シティからそう遠くないところにある街プロボに宿を取り、すぐ傍らに聳える山へと向かった。
 山は、イネ科植物に覆われているが、今は、すっかり枯れ草色に染まっていた。ところどころにある谷間に草木が茂り、緑が残っていた。そんな中の一つを上って行くと、まもなく湧き水が流れている場所に行き当たった。アシナガバチが忙しそうに、水を汲み取っている。川を渡ろうとすると、“おっー!!”アゲハがだらしなく翅を広げて吸水中だった。“ごめんよ!もう少しのところで踏み付けるところだったよ!”
  情報の小窓
 『・・・若いときには七転八倒し、逆に楽しいときには天地一杯喜ぶ。不景気のときに好景気の頃をアレコレ思うから今が辛くなる。金がなければ菜っ葉や芋を食べればよい。そう覚悟している人にはもはや景気も不景気もない。これが「因果を昧(くら)まさず」生きていくという考え方です。』
 文藝春秋八月号「大往生の極意」平田精耕著(大本山天龍寺管長)

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