夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その50 発行日 2004年2月15日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 2月も半ばを過ぎたので、そろそろ麗らかな春が待ち遠しくなってきた。陽が射し込む窓をときどき開けては、春を確かめる日が続く。
 民家の庭でも、まだ僅かではあるが梅の花が咲き、沈丁花の蕾が膨らみ始めている。そう言えば先日、路傍のアスファルトの隙間にすくっと伸びた茎にオオイヌノフグリの小さな紫色の花が咲いているのを見た。
 そろそろである。また、今年も春がやって来る。真っ先に春を見つけては、心を温めてゆく日々が続くことだろう。
  言いたい放題
 先月、国連子どもの権利委員会は、日本の競争的な教育制度について「改善点も見受けられるが差別や子どもにストレスを与える教育制度は、依然として大きな問題」として、教育制度改革を行うように勧告した。
 週5日制などの「ゆとり教育」については、教育現場など多くのところから、学力低下をもたらすとして、苦言が呈されている。本当にそうなのだろうか。私は、そうは思っていない。“ゆとり”の質、“教育”の質を問題にしなくてはならないのである。
 週2日、学校は休みである。問題は、その2日の子どもたちの在り方が問題なのである。子どもたちは、社会全体で育てることが求められる。家庭で地域社会で、その2日を責任を持って子どもたちを教育する必要があるのである。
 ところが家庭も地域社会も、その機能を失っている。最近のショッキングな児童虐待のニュースが流れる度に、私は思う。虐待を行っている親たちは、戦後の過剰な競争教育の元で育った子どもたちなのであると。経済至上主義の下で、失ったものは非常に大きい。
 企業に浸透する成果主義は、更に家庭、地域社会を弱体化させるだろう。そして子どもたちは、自分というものを確かめることができないまま、社会人にさせられてしまうのである。
  つくしんぼの詩
 まだまだ日が沈むのが早い夕暮れ時に、ジョギングをしていた。非常に走りづらい歩道を避けて、車が見当たらない車道に降りて隅っこを走っていた。暫くすると前方から自転車のライトらしき灯りが見えたので歩道へと移ろうとした。そうすると歩道の中途半端な坂に足を取られてしまい、2度に渡って転げそうになってしまった。手を付いてしまったのだが何とか踏ん張って転ぶことはなかった。しかし、手の平が暫くの間ひりひりしていた。
 歩道さえも、歩行者のためには造られていない。民家の車の出入りのために、歩道が車道に向けて坂になっているのである。弱者は、更に淀みへと追い込まれていく社会なのである。
  虫尽し
 ボツワナの南部は、もう少し乾燥したサバンナ地帯だと思っていたのだが、意外と緑に恵まれたサバンナ地帯であった。
 チョウを求めながら歩いていた。歩を進めると、突然、足下から黒い物がいっぱい跳ね出した。“えっ!何!!”と思ったら、黒いバッタの群であった。群の中に割り込んでゆくと、ちりちりばらばらに跳びはねるが、その後、また群になってしまう。まだ小さい幼生なのに、遠く離れても群の場所が分かるみたいだ。不思議なものである。
  情報の小窓
 『孤独は、決して、避けるべき否定的な物ではない。
 孤独は、現代をタフに、しなやかに、かつクリエイティブに生きてゆくために不可欠の“積極的な能力”である。これからの困難な時代を、幸福に生きるために、現代人がトレーニングしてでも身につけるべき新たな“能力”である。』
 NHKブックス「孤独であるためのレッスン」諸富邦彦

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