夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その53 発行日 2004年6月20日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 いつもの通り、会社から帰り、そしてジョギングを始めた。もうじき夏至、まだまだ明るい道を走り始めた。2分も走ったとき、足下に黒い虫を見つけた。“ちょっと大きいな!”と思って、2〜3m過ぎてから引き返した。塀に沿って黒い虫が走っている。“ヒョウタンゴミムシかな?”と思って、指でつまんで走り直した。
 プラタナスの大きな葉が揺れ、ヤマモモの実が赤黒く塗り潰された舗道を走る。指には、脚を踏ん張っている虫がいる。今、梅雨だというのに爽やかな風が。帰って良く見たら、その黒い虫は、クロカミキリだった。
  言いたい放題
 イラク人質事件における家族の人たちの記者会見、北朝鮮拉致事件被害者家族の人たちの記者会見で行った政府批判に対して、多くの国民から非難の声が届けられた。私もその会見を聴いてはいたが、彼らが非難を受けるほどの非常識なことを発言していたとは思わなかった。しかし、彼らは非難を受けた。
 これが、日本国民の良識なのかとふと思った。裁判員制度は、国会を通過した。国民の良識を司法に活かそうとした制度であるのだが、その国民に良識たるものが存在するのかどうかが、最近、殊に疑わしくなっている。
 社会が豊かになり個人主義が浸透してきたが、いつの間にか個人主義が利己主義に変化してしまった。地域社会の中で、国家の中で大企業がのさばり、激化する競争至上主義の中、地域社会が家庭が崩壊してきた。そして利己主義が更に強固になってくる。インターネットは、更にそれを助長しているかのようにも見える。
 イラク人質事件のとき、個人NGOは、自分探しだとか自己満足だとか言われていたが、人間生きてゆくこと自体が、大なり小なり、それを求めて旅に出たり仕事をしているのではないだろうか。“人の為に”、それを非難することが出来るのだろうか。
  つくしんぼの詩
 自由を追い求めて、人はすっかり倫理のたがが緩んでしまったようだ。個人に善意の判断を委ねると、何が起きるか余りにも不透明な時代となっている。
 既に大人たちは、明日を担う子どもたちを育て上げる環境を作る力を備えていないように思う。佐世保の小学生による構内での殺害事件は、社会に大きな衝撃を与えた。しかし、これは歪んだ自由社会を追い求めてきた結果でもある。是正、修正は、いつも後追いとなるが、もはやそれも、おぼつかない時代に突入しているのかも知れない。
  虫尽し
 もうすぐ訪れる雨の季節を前にニカラグアの林は、瑞々しさを失い、ただただ最後の辛抱でじっとしているかのように思えた。お目当ての昆虫の姿は、さっぱり見当たらない。
 ときどき網の中を見て、何か入ってないかとチェックするが、アリが数匹迷惑そうな顔をして歩き廻っているだけである。あるとき網の中を確認していると、またアリがいた。“・・・!”暫くして、“あれ!あんたサシガメ君じゃないの!?”
  情報の小窓
『つまり企業の論理からすれば、自分の社員が家族をもち、仕事以外のさまざまな活動の可能性をもっていることはいわば視野の外のことになるんだ。しかし、実際は人間の「生」の活動はジンメルのいうとおり個人のうちの「社会の要因ではない」側面が、「社会の要因」たる彼の活動の「積極的な条件」を為しているのだ。そうした関係に目をつぶってあくまで「社会内」人間として振る舞い方を期待していることが、今日の我が国の職業人が抱えているさまざまな精神的危機をもたらしていると思われる。』
 NHKブックス「ジンメルつながりの哲学」菅野仁

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