夢惑う世界 草紙<蜃気楼> |
蜃気楼 その6 | 発行日 1999年9月20日 編集・著作者 森 みつぐ |
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季節風
8月の終わり半月振りの日本である。夜12時を廻りシャワーを浴びたので、なかなか眠りに就くことができない。窓の外からチンチンチンとカネタタキの鳴き聲が聴こえてくる。庭のサツキの上で鳴いていると思うのだが、真剣になって捜したことがないので見たことはない。もう一種類、リィリィリィリィとツヅレサセコオロギも、いつまでも飽きずに鳴き続けている。ツヅレサセコオロギの場合は、時々家の中に入ってくることがあるので顔馴染みである。残暑の続く中、虫の世界では、確実に秋を迎えている。 |
言いたい放題
炎天下の中、アメリカで国道沿いの歩道を歩いてきた。前方の信号機のない脇道から車が出てきて、国道に進もうとしていたが、混んだ道には入り込めない。私は、いつものように車の後ろを渡ろうと思っていたのだが、車はバックし始めた。”どうしたんだろう。”と思ったら、彼は道を空けてくれたのである。
日本では、いつも危ない目に遭っている。車の列に割り込むことが優先で、歩行者は視野に入っていないのである。これを逃すと一生割り込むことができないとばかり、歩行者が車の前を歩いていても飛び出してくるのである。車道の手前は当然、歩道である。ところが、脇道から出てくる車は、歩道の手前でスピードを落とすのではなく、車道の手前で、やっとスピードを落とす。歩行者や自転車は、眼中にないのである。私は、車を信用していない。従って、自己防衛のため車の後ろに廻る。命あっての物種である。
私は、お辞儀をして車の前を渡った。彼は、ただ当然のことをしただけである。強者が弱者をいたわるのは、ルール以前の基本的なモラルである。しかし、日本では、強者になった途端、弱者を平気で振り払って突進する。権力を握った者の特権とばかり。これでは、モラルなき、秩序なき奈落の底へと堕ちてゆくだけである。 |
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つくしんぼの詩
100歳以上のお年寄りが、1万1千人を超えた。私が100歳を迎えるときには、この蜃気楼も650号を超えているだろう。そのとき日本の福祉は、どうなっているのだろうか。医療に弄ばれて寝たきりのまま長生きさせられているのだろうか。超高齢化社会の中で、お年寄りも消費社会の中に組み込まれてしまって、破産したお年寄りが社会問題となっているかも知れない。 |
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虫尽し
アフリカ中部のガボンへ行って来た。首都から60km位奥に入ったところの脇道を一人で歩いていた。道には、大きな足跡があちこちに残っている。そして、路傍の木々が草をへし折るようになぎ倒されている。ゾウさんの仕業である。その足跡を、しっかりと踏み付けながら虫さんを追う。道端には、大きなアフリカオオカブトの雌が転がっていた。その先に、ゾウさんが・・・え! |
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情報の小窓
『権威への服従、隣人たちの行動への服従、こぞってモラルとコンフォーミズムを混同するという態度、これらこそが第二次大戦中におけるジェノサイドの主要な要件であったのです。それと同時にこれらは、現代社会のさまざまな文脈において犯される大規模犯罪の条件でもあるのです。』ロニー・ブローマン(医学博士)
岩波ブックレット「人権は「普遍」なのか」小林善彦/樋口陽一編著 |
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Copyright (C) 2001 森みつぐ /// 更新:2001年5月14日 /// |