夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その63 発行日  2005年7月10日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 休みの日の午後、梅雨空の下、沼津駅の近くを歩いていた。駅周辺というのは、意外と広い空間が残っているもので、沼津駅周辺もそうである。一匹のチョウが目の前を横切っていった。ツマグロヒョウモンの雌である。何とも逞しいチョウであるうか。幼虫は、不安定な場所に生息するスミレを主食とするのだが、線路内は、スミレにとっては、とっても棲み心地が良さそうである。
 今年は、やけにクチナシの白い花が美しく咲き目立っていた。通勤途中、ジョギングコースで、私の目を楽しませてくれている。今度は、オオスカシバのイモムシ君が葉っぱを頬ばっているのを見たいものだ。季節は、生き物とともに巡ってゆく。
  言いたい放題
 人口減少化社会が問題視され続ける中で、相変わらず出生率は減少し続けている。先般、NHKでも特番を設けて討論番組を放送していた。日本の人口は、来年から減少し始めると言う。
 テレビでも新聞でも、人口減少により市場は縮小して、経済力は低下し、現在の豊かさは維持できないと、また少子高齢化が進み若者への負担が大きくなってくるだろう云々と暗い世相になると一様に流布している。
 本当にそうだろうか。私は、どちらかと言うと楽観主義者なので、住み良い社会になるような気がしてならない。多くの悲観主義者は、経済を中心に据えて、明日はないと悲観する。経済至上主義者は、右肩上がりでしか社会を論じることが出来ない人たちである。従って、労働人口も自ずと右肩上がりでなければならない。GDPが大きくないと人生が成り立たない人たちが多いのである。
 この狭い日本に、人口が1億3千万人、車が8千万台。どう考えても、多すぎるような気が私はする。人口が半分位までになると、住み心地が良くなるような気がする。勿論、そこまではいろいろと痛みを伴うかも知れないが、程良い人口へのスタートである。人間は、底抜けのバカではない。日本が100人の村にはならない。人口が、右肩上がりで増え続ける方が余程私には、恐ろしいような気がしている。右肩上がりは、いつか破綻する。
  つくしんぼの詩
 クレジットカードの顧客情報が流出した。アメリカを旅して、クレジットカードを持っていないと、ホテルなどでは、不思議そうな目で見られているようにも思えたりする。現金を持たなくていいと言うことは、非常に便利なように思える。
 しかし、当然、便利な物ほど、危険性が高いと言うことは、誰しもが分かっているのではないだろうか。しかし、誰しもがその便利さに勝てないでいる。悪者も謳歌できる社会は、いつまでも続いていく。因みに私は、クレジットカードは持っていないし、興味もない。
  虫尽し
 ドミニカの山中を歩いていた。尾根伝いに歩き、渓流の音がする方へと下りてゆく。薄暗い小径を歩いていると、いつもの通り、“さて、戻れるだろうか?”と思いながらも、やっぱり前へと進んでゆく。
 渓流へ下りる道を見つけ下っていると、木を引っ張って上ってくる男性と擦れ違った。いつもの通り、にこっと笑顔で擦れ違う。林内の小径では、ミドリタテハがゆっくりと翔び葉上で休んでいた。“この径でいいんだ!”
  情報の小窓
『二一世紀はすべての人びとと共に生きる世紀になるか、すべての人と共に死ぬ世紀になるかもしれない。狭い意味での自己利益の最大化を追求するだけでは、早い者勝ちの「共有地の悲劇」から逃れられないだろう。他者への配慮を伴う「正しさ」は、そのための行動のルールであり、われわれが生き延びるための戦略として考えることができる。思いやりが生き延びるチャンスを増やす。正しくなければ、生きていけない。』
 ちくま新書「「おろかもの」の正義論」小林和之

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