「よく来てくれましたね、どうぞそこに座ってください」 柔らかな口調に似つかわしい穏やかな表情。重ねられた年月が刻んだ皺のひとつひとつにも、豊かな愛情が溢れているように感じられる。定刻通りに到着した教官室ではしばらくの間ひとりきりで待機していた。ようやく姿を見せたその人は、遅刻を詫びたあとに椅子を勧めてくれる。 「そのように硬くならなくてもいいのですよ、本日はこちらが頭を下げる立場にあるのだから。そう、君の今後のことで折り入って話がしたいと思ってね」 ここにいる湖東老師は、染め絵の世界ではその名を知らぬ者はないと言われているほどの名士である。誰もが認めるその道の達人でありながら、技の世界にありがちな堅苦しさや気位の高さは微塵も感じられない。早くから多くの弟子を持ち優れた技術者を育て上げてきた功績を認められ、このたびの訓練校立ち上げの際にも一番にその名前が挙がったと聞く。 「わたくしに……ですか?」 思いがけない言葉に、季紗は心を落ち着けるどころかさらなる緊張を強いられることになった。幼い頃から大人の言いなりになることしか求められて来なかったから、何かの事柄に対して自分の考えを示す機会を与えられるとひどく戸惑ってしまう。例えば、目の前に差し出された赤い衣と黒い衣のどちらが美しいかを問われただけでも、気が遠くなるほどの長い時間を費やして思い悩んでしまうのだ。 「そうです、今までの半年余りの間、君のことをずっと見守ってきました。もちろん入校した当時からあらゆる面で他の候補生とは一線を画した素質があることは感じていましたし、我が校での講義や演習の中でこちらが期待した以上の素晴らしい向上を示してくれています。私は君のような優れた人材が、一体何処まで伸びていくのかその行く末が楽しみでなりません」 このように手放しで褒められることなど、今までの人生で一度もなかった。それだけに決まり切った美辞麗句と知りながらも、胸奥がむず痒く落ち着かない心地になる。とても自分に向けられた言葉とは思えず、酷く戸惑ってしまうのだ。 「だが、しかし。……ひとつだけ大きな問題がありますね」 やはり、話はこれだけでは終わらなかった。偉大すぎる師を前にして、それだけで身の置き場もなくなっている季紗には彼のふとした表情の変化も恐ろしくてならない。 「君には残された時間が余りに少なすぎます。もちろん、貪欲なまでに全ての技術を習得しようとするその揺るぎなき向上心には尊敬の念を感じていますが……物事にはやはり限界というものがありますからね。このまま寝食も忘れて頑張り続けても、きっと君自身が望む到達点には届くことが出来ないでしょう」 老師はそこで一度話を切る。言われていることは至極当然なもので、季紗としても納得する他はなかった。自分でも薄々感じていたことでもある。この先、どんなに必死になったところで結局は何もかもがやりかけのままでこの訓練校を去ることになるのだ。広く深い世界の入り口をかいま見てしまった今となっては、それが何も知らなかった頃とは比較にならぬほど口惜しくてならない。 しかし思わず感じた胸の痛さに耐えながら待った次の言葉は、彼女にとってひどく意外なものであった。 「そこで提案なのですが。どうです、君はこのまま我が校に残るつもりはありませんか。さらなる技術を学びながら、是非その一方で後進の指導にも当たって欲しいと思います。もちろん相応の手当は支給されますから、生活の面では心配は一切いりませんよ」 一体この人は何を仰っているのだろう。その言葉の真意がすぐには掴めず、季紗は呆然とその顔を見つめていた。 「そのように驚くこともないでしょう。それにこれは私個人の意見ではありません、他の老師たちも同じように考えていますよ」 戸惑いを隠せずにいる季紗に対し、湖東老師は全てを承知しているように話し続ける。 「ことに染色の技術に際しては、その完成度の高さに我々教える立場の者たちも揃って白旗を揚げるほかない感じですね。新しい作品も早速拝見させてもらいましたよ、華やかでありながらその一方で落ち着いた深みもあり、一体どんな絵をその上に置こうかと次々と図案が思い浮かびました。あのように絵心を刺激される作品を染め上げるとは、誠に大したものです」 こちらにいらっしゃるのは、ただ候補生を持ち上げて良い気分にさせればよい通り一遍の師ではない。己の才能に絶対的な自信を持ちながらも、同時に他の優れたものを素直に認めることが出来る広い心を持ち合わせた方だ。でも―― そうは言っても、このように不甲斐ないばかりの一介の候補生にここまでのお言葉をくださって良いものなのだろうか。 「いえ……、わたくしなどとても。それにこの頃では、めきめきと腕を上げている同輩が幾人もいます。今にその者たちに追い抜かされてしまうのではないかと、そのことばかりが気に掛かって仕方ないのです」 あまりのこそばゆさに思わず口をついて出てしまった言葉ではあるが、それは全くの出任せでもなかった。 「おや、君のような人でもそのように不安になったりするのですね。……いや、それも当然のことでしょうか。ただ、あまりに何事に対してもそつなくやり遂げていますからね、平然としたお顔の下に隠された本心のことを忘れてしまいそうになります。これでは、師として失格と言わざるを得ませんね」 「……」 湖東老師が多くの弟子や候補生から慕われるその理由は、明らかに若輩である者にもこのように「対等の存在」として接してくれるからなのであろう。自分自身もなかなか認めることの出来ない秀でた部分を、的確に示してくれる。技術者を志す者としては、何とも有り難い他の何事にも代え難い行為である。 「技を極めるという領域に至るには本人の努力だけではどうしても無理な部分があるのです。残酷な話ではありますが、いくら時間を掛け技を磨いたところで生まれ持った素質がなければその道の達人になることは出来ません。私の目に狂いがなければ、君は誰もが喉から手が出るほど欲しい『宝物』をすでに手に入れている人なのですよ。せっかく持ち合わせた珠をさらに美しく磨き上げようとは思いませんか?」 その問いかけは普段通りの静かなものであったが、季紗の心の深い部分に確かに触れるものがあった。自分に老師が仰ったような優れた部分が本当にあるのかどうかは分からない。だがしかし、そのような「珠」を持っている人間を知っている。あの者はきっとこれからもずっと自分の技術を確実に磨き上げ、いつか誰もがその名を知る達人へと登り詰めていくのだろう。 「それは……無理です」 憧れれば憧れるほど手を伸ばせば伸ばすほど、さらに遠ざかっていく世界。人生の最初から分かっている、自分はここにいる老師やそのほかの優れた人材とは住む世界が違うのだ。 「わたくしには……そのような大それた真似が出来るとは到底思えませんし、両親もそれを望まないでしょう。一年を過ごした後は必ず里に戻る約束でこちらに参りました、今更それを覆すことなど出来ません」 老師の目に見えて落胆した表情を申し訳なく見つめながらも、季紗は心底ホッとしていた。 「そう……ですか。確かに、君の両親は入校に際してもあまり好意的ではありませんでしたしね。そこまで決心が固いなら致し方ないでしょう。でも残念です、せっかくの才能を生かす機会に恵まれないなんて。君に対してもこれから先にこの訓練校にやって来る後進の者に対しても……そして、服飾に携わる全ての者にとって、これはあまりに大きい損失ですよ」 少しばかり、大袈裟すぎる物言いではないだろうか。すっかり腹の決まった季紗にとっては、湖東老師の有り難すぎる発言も巧みな演技のように思えてならなかった。ある程度、自分のことを認めてくださっているのは本当だろう。でも、自分と同程度かそれ以上に優れた人材はそれこそ掃いて捨てるほど存在するはずだ。だから、このように必死に引き留められる理由はない。 「そのお言葉だけ、有り難く受け取らせていただきます」 誰からも顧みられることなく過ごした幼き頃。そしてようやく物心が付いた頃には、今度はただの「道具」としての立場だけを求められた。何をしても認められることなく過ごした日々。一生涯をそのような空虚な世界で終えるはずだった自分が、この地にやって来てようやく生きた言葉で認めてもらうことが出来た。 もしかしたら、と期待してしまう瞬間は確かにある。優れた師の元で、選りすぐりの材料に加え最新鋭の釜やその他の設備を使えば、きっと自分が想像する以上の素晴らしい技術が手にはいるかも知れない。だが、全てのことがそうであるように「達人」への近道などあるはずもなかった。残された時間があまりに少ない季紗にとって、ささやかな夢を見ることすら、許されてはいなかったのである。 季紗の物思いはそこで途切れた。扉の向こうで物音がして、それに続いて良く知る声が聞こえてきたからだ。 「すみません、湖東老師はこちらのお部屋で宜しいですか?」 それは真っ直ぐに澄み切った響きであった。よどみなく誰もを魅了する清々しい印象は、季紗にとってあまりに遠すぎるものである。老師が入るようにと声を掛けると、背後の扉が静かに開いた。反射的に席を立とうとする彼女を、老師が制する。何事かとその顔を改めると、彼はただ静かに微笑んでいた。 「いいよ、同じような話をするのだから。君も一緒に聞いていきなさい」 そのように告げられてしまえば、立場上留まるほかなかった。老師に向かい合わせで置かれた椅子は、初めからふたつ用意されている。このような状況になることがあらかじめ決まっていたのだ。それなのに、思いがけない話題に浮き足立って気づくのが遅れた自分があまりに情けなさ過ぎる。 「おや、先客がいたのですね。宜しいのですか、同席させていただいて」 わざわざ椅子の位置まで変えて隅の方へと遠のいたのに、新しく入ってきた男は素早く季紗の存在を認めて老師に訊ねた。それに対する師の表情もことのほか嬉しそうに見える。 「いや、構わんよ。さあ、そこに座りなさい」 湖東老師が今やって来たばかりの男、凱に対してただならぬ信頼を寄せていることは知っていた。候補生の中でも中心的存在である彼は、師の専門である染め絵の技術にとても優れた人物でもあったからである。入校当初からとても目を掛けられていたし、他の候補生とは全く違う難しい課題を求められることも少なくなかった。そして彼は、その全てに対して期待以上の成果を上げてきたのである。 ―― 何よ、これではわたくしだけがのけ者ではないの。 正直、面白くなかった。師の手前失礼であることは承知しても、思い切って退室するべきだったと思う。でも、きっかけをなくしてしまった今となってはそれも不可能であった。その上、老師はさらに季紗を落胆させるような言葉を告げる。 「凱、この前の話を考えてくれたかな? 今、丁度彼女にも同じように話したところだ。……残念ながらきっぱりと断られてしまったがね。どうだい、君の方は私をがっかりさせないでくれるかな」 こうなってはふたりの様子をうかがうことすら出来ず、ただ俯いて膝の上で両手をきつく握りしめる他なかった。何てこと、思いがけない申し出だと思ったのに、他にも同じように誘いを掛けられた者がいたのだ。しかも、それが……よりによってこの男であったとは。あまりにも皮肉な話である。 「いえ、困りましたね。……そうは仰っても、にわかにお返事が出来るような事柄ではありません。先だっても実家に戻り両親を交えて話し合いましたが、あまり芳しい答えはもらえないままでした。やはり両親も年齢的なこともありますし、一定の技術を身につけたのちはすぐにでも家業を引き継いで欲しいとの意向です」 そう話す間にも、彼が幾度となくこちらをちらちらと伺っているのは分かっていた。しかしそんなぶしつけな態度に対して、季紗は顔色を変えずにいるだけで精一杯である。こちらの心内を探られてしまうのはどうしても我慢ならなかった。 「それは困ったことだね、今年は近年になく優秀な人材がふたりも揃ったというのに。確かにご実家の事情もあるだろうから、こちらとしてもあまり無理強いは出来ない。しかし、簡単に諦めずにもっと辛抱強くご両親と話し合ってはもらえないだろうか。乱暴な話ではあるが、長い目で考えれば必ずそれぞれのご実家に必ず良い結果をもたらすことになると思うのだがね」 老師は凱と季紗を代わる代わるに見つめている。それが分かっているのに、どうしても反応することが出来なかった。別に自分の返事などはどうでもいいのだ。どちらか一方がこのたびの話に同意すれば良いのなら、彼が引き受けた方が湖東老師としても嬉しいに決まっている。自分はただの「次点」、彼が話を呑まなかった場合の差し替えとしての存在でしかなかった。 ―― わたくしは、この場所にいても甲斐のない存在なのだわ。 はっきりとしたかたちで思い知らされたあとでも、やはり自分はあの作業所で同じ釜の前に座るのだろう。どうあがいたところで結果は何も変わらない。それでも今はただ、自分の信じた道をひたすらに歩くしかないのだ。
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