今年の正月は、何かが違っているように思えた。 「あなたも十四になるのですから、これくらいの支度は当然のことですよ」 あからさまな言葉にすることはなかったが、かなり怪訝な表情を浮かべていたらしい。思いがけないことが次々に起こることに戸惑いを隠せないでいた季紗に、母親は普段と変わらぬ穏やかな口調で告げた。 「それに今年からは新年の宴にあなたの席を設けます。期待されたからには、きちんとお役目を果たさねばなりません。ただひとりの跡目としての立場を列席なさる皆様にもしっかりと知らしめなければ」 突然、そのように言われても困ってしまう。見知らぬ人と面と向かって話をすることすら苦手なのに、大勢の視線の前で一体どんな風にすれば良いのだろうか。だがしかし、父の言葉をそのまま申し伝えているに違いない母の一言一句は、季紗にとって絶対的なもの。とても反論する勇気などはない。 「いくら訓練校への入校が許されて予定の期日が間近に迫っているからと言っても、これとそれとは話が違います。あなたにもそれはお分かりでしょうね」 例年ならば、賑やかな宴の様子を別棟からひっそりとうかがっているだけで良かった数日が、さながら生き地獄と化していた。当日は朝早くから使用人たちが狭い部屋に入りきれぬほどやって来て、つましい身なりの娘をこれでもかと言うほど飾り立てる。ただでさえ動きにくい袴に、幾枚も重ねられた衣。丁寧に梳かれた髪にはたっぷりと香油を塗りたくられ、そのあまりの匂いのきつさに目眩がしてきた。 次々に訪れる客人を玄関先で迎え入れる。父の隣でただ頭を下げ続けているだけではあったが、かなりの人数で暇も取れたのでやっと大広間に移る頃にはすでに精も根も尽き果てていた。 「いやはや、驚きましたな。こちらのご主人もお人が悪い、今までこのような美しい花を隠しておいでだったとは。もっと早くに知っていれば、是非愚息の嫁にとお願いしたものを。誠に残念でなりません」 酒の席でのそら言でしかないと分かっていても、季紗にとってはそのひと言ひと言が恐ろしくてならなかった。隣に座した父が、彼らの言葉を満足そうに聞き入っているのも気味が悪い。幾度か同じ場面を過ごして、ようやく気づく。自分にはここにいなければならない、もうひとつの理由があったのだと。 ―― 婿取り。 どうしてそんな当然のことに、今まで思い当たらなかったのだろう。ただひとりの娘であるから、ゆくゆくは良き伴侶を迎え子をなしていかなければと頭では分かっていた。でも、まだそれはかなり遠い将来の出来事だと思い込んでいたのである。この地では十三で成人を迎え、その年のうちに所帯を持つ者もそう珍しくはない。それどころかある一定の身分の家に生まれれば、幼少の頃に許嫁が決まっているのが当然だ。 三日三晩の宴がようやく終わったとき、自分のささやかな願いなど誰も聞き届けてくれないことに失望した。文箱から溢れるほどに届けられた妻問いの書状たち。毎夜、父や親戚の者たちが夜遅くまでそれを念入りに読み返している。やがてひとりの男が最終候補に挙がり、着々と準備が進んでいった。 ―― それでも、共に過ごしお互いを知ることが出来れば、あるいは上手くいくかも知れない。 ささやかな望みだけは捨てずに置こうと思っていた。生涯を共に過ごす伴侶にすら失望してしまったら、これからの残りの人生全てが味気ないものになってしまう。 しかし、とうとう迎えた顔合わせの当日にやってきたその者には残念ながらひとつも魅力を感じることは出来なかった。気位ばかりが高そうで、人を見下したような話し方をする。父親と同じ匂いのする男は女子の方からあれこれと話しかけることを良しとはせずに、季紗を無視して他の家人とばかり酒を酌み交わし盛り上がっていた。 それから、どれくらいの時間が経ったのであろうか。うとうとと夢うつつに漂っていた意識が、にわかに現実に引き戻される。今までに感じたことのない胸騒ぎに身を起こすと、部屋の前に人の気配を感じた。 「……やれ、今宵の宿はこちらで宜しいかな?」 かなり酔いの回ったその声は、先程まで季紗の隣に座っていた男のものに違いなかった。あまりの驚きににわかには声を立てることすら出来ない。誰か近くにいないものかと伺ってみたが、どうも皆どこかに出払ってしまっている様子である。 「……いえ、ここは―― 」 残念ながら、表戸は鍵など掛かる造りにはなっていなかった。田舎暮らしの気安さで、この辺りでは何処の家も同じようなものだろう。今までそのことを不便に感じたことは一度もなかったし、気に掛けたことすらなかった。 「あ、宜しいか。では入らせてもらおう」 こちらが蚊の鳴くような声で異を唱えたというのに、男の方はそれを全く聞いてもいない様子。あっという間にふすまが開いて、先程と同じ装いの者が入ってきた。 「……やっ、違います! その、あなた様のお部屋はこちらではございません……誰か、誰か、ここに……!」 慌ててしとねから飛び出して後ずさりしてみたが、あまりの恐怖になかなか意のままに身体を動かすことが出来ない。そうしているうちに、男の方が遠慮なくどんどんこちらへと踏み入って来た。分かっているのだろうか、ここは女子の部屋なのに。こんな遅い時間に、どうしたことだろう。 「何をしている、早くこっちへ来て相手をしろ。おい、どうした。今更、怖じ気づいたわけではないだろうな?」 酒を過ごしてうつろになった目は醜く血走り、飴色に乱れた髪はさながら鬼のように見えた。季紗がなおも首を横に振ると、とうとう我慢ならなくなったのか毛深い腕を伸ばして襲いかかってくる。叫び声を上げる間もなく、男は仰向けに倒れた季紗の上に馬乗りになった。 「嫌っ! ……やめてっ、やめて……!」 少し遅れて、ようやく声が出た。それに勇気づけられるように、両手と両足を思い切りばたつかせて抵抗する。相手は立派な体格であったから、力の差は歴然としていた。だが、こちらも我を忘れて必死であらがったので、そう容易くは意のままになることはない。 「……つうっ……!」 そうしているうちに、思わず相手の顔に爪を立ててしまったらしい。脂ぎった頬に細いすじが出来、そこからじわりと血が滲んできた。 「……あ……」 これには季紗も声を失った。仮にも相手は、将来の伴侶となることを約束した男ではないか。いくら不意打ちとはいっても、求められれば従うのが道理というもの。でも、やはりこのようなやり方はどうしても受け入れることが出来なかった。 「お前っ、何様のつもりだ! おいっ、主人! 話が違うじゃないか、何だこの女はっ。人を馬鹿にするのにも程がある、お高くとまりやがって……!」 二発、三発と、季紗の頬が火を噴いた。力任せの行為であったから、そのたびに左右の床に叩きつけられてしまう。体制を整える間もなく、またもう一方を。次第に身体の力が抜けて、もう駄目だと思った。最後に床に落ちたときに、遠くの方から怒鳴り声がする。 「ええいっ、胸くそ悪い! やめた、やめた、主人! 今宵は他の女子を出せ! こんな奴の顔など見たくもない……!」 地響きとともに乱暴な足音が遠のいていく。大声で季紗を罵倒し続ける彼に、すがるように許しを請う父や他の侍女たちの声。その騒ぎがどこかに去っていったあとも、彼女の元には夜明けまで誰ひとりとして訪れることはなかった。
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久しぶりの一日休みに「香り花」の話を思い出したのは、今朝の夢見がたいそう悪かったからだろうか。思い出したくもない、おぞましい記憶。でもあの男は意外なことに季紗を見限ることはなく、当初の予定通りに婿入りをするつもりでいる。あの夜のことは酒の力が起こしたのだと、彼自身の中では解決がついているのだろう。だから、もう季紗ひとりの力ではどうすることも出来ないのだ。 ―― あの家に帰れば、その時は……。 実家に足が向かないのも当然だ。同輩の者たちは長い休みにも故郷に戻ろうとしない彼女のことをとんでもない変わり者だと決めつけているが、もしも真実を知ったならば少しはその考えも改まるだろうか。いつあの乱暴者が忍んでくるとも知れない、さながら生き地獄のような場所にどうして足を帰ることが出来よう。 どんなに頑張って技術を習得したところで、季紗が実家でその成果を発揮することは出来ないだろう。両親も、そしてあの男もそれを望まないに決まっている。以前と同じように狭い世界に押し込められて、誰からも顧みられることはなくその生涯を終えることになるのだ。 もう少し、早い時間に部屋を出られたら良かったのだが、あいにくやりかけの仕事を一区切り付けなければならなかった。時間を掛けて煮出したこのたびの染め液からは、鈍色の気味の悪い外見とは似ても似つかない美しい花色の布が仕上がる。何度も試作を重ねてようやく完成した配合に、季紗は夢中になっていた。 訓練校で過ごす時間も残り半年を切り、そろそろ修了制作の話がちらほらと聞かれるようになっていた。毎年、一年間のまなびやでの生活の集大成として候補生たちは一枚の晴れ着を仕上げることになっている。一枚の布を衣のかたちに仕上げる過程だけは外注することになるが、布染めとその上に描く染め絵で自分が学んだ全てのことを表現するのだ。 ―― それにはやはり、本物を心に焼き付けなければならないわ。 奥に進めば進むほど、道はさらに険しくなっていく。本当にこの方角で正しいのだろうか、それも曖昧になっていく。どうしよう、このまま戻った方がいいだろうか。もしも日が落ちてしまえば、今来た通りに戻ることも難しくなるだろう。いや、でも今日を逃したら花の見頃を過ぎてしまう。情報をくれたのがあの者だと思うと少し癪ではあるが、それでも花の魅力にはどうしても勝てなかった。 とうとう、足下が暗すぎて先に進めなくなる。とっぷりと日の暮れた山奥で、季紗はただひとり取り残されていた。
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