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三日後、祝言を迎えた朝はまたとない穏やかな日和であった。
「なんとお綺麗なのでしょう、まるで部屋一面に白い花が咲いたようです」
婚礼衣装に着替えた咲をうっとりと眺め、美津が夢心地の言葉を発した。心の底からそう感じていることは、その瞳の輝きを見ればすぐにわかる。
この娘がとても素直で真っ直ぐな心を持っていることは、この地に到着してからのわずかな日数で実感していた。だから咲も、はにかみ笑いを浮かべて応えることができる。
「いえ、……わたくしなど。大臣様の御館や都の竜王御殿の女人様方の足下にも及ばないみすぼらしさでしたから。ようやく華やいだ装いになれたのも、この衣装のお陰です」
もちろん、新たに咲のためにと仕立てられた品ではなかった。大臣家の親戚筋の誰かが使ったものを、女人様が持たせてくれたのである。そうであっても、咲の元々の身分では到底袖を通すことなど許されない極上の絹であることは間違いない。
「馬子にも衣装」と言うではないか、今の自分がまさにそれである。
「いえ、そのような。次の間でお待ちの兄上もこのお姿をご覧になったら、どんなにか誇らしいお気持ちになることでしょう。そろそろお時間です、さあさあ早く参りましょう」
あの男の実の妹でありながら、この娘は大人の複雑な事情をまったく知らない様子であった。大切に慈しまれて育てられたのは喜ばしいことであるが、いつかは事実を知ることになる。そのときの彼女の嘆きを思うと、咲は自分のことのように辛かった。
「兄上、お嫁様のお支度が終わりました!」
美津は弾んだ声でそう告げると、すっと襖を開ける。その向こうには同じく正装に着替えたこの館の主が待っていた。彼はちらとこちらに視線を向けると、吐き捨てるように言う。
「もう皆が揃ってお待ちかねだ、すぐに向かうぞ」
予想どおりの冷めた瞳にも、不思議と落胆はしなかった。最初からわかっていたことだ、この者に自分は歓迎されていない。
大股で先を行く男に遅れないように、咲も慌てて後に続く。しかし普段よりも多く衣を重ねているために、思うように歩くことができなかった。幾度も裾に足を取られそうになり、そのたびにかろうじて堪える。だが、これも自分に与えられた試練なのだろう。そう思えば、待ってくれなどとは口にできなかった。
ようやくたどり着いた広間の入り口の板戸は、堅く閉じられたままである。そこまで来て、男はようやくこちらを振り向いた。
「ずいぶんと上手に化けたものだな。やはりお前の正体は狐かなにかなのだろう」
耳元で囁かれたその言葉が、美津に届かなかったのがせめてもの救いである。咲は唇を噛みしめると、そのまま俯いた。
「さあ、皆にお披露目だ。せいぜい上手く立ち回るがいい」
控えていた侍従たちの手により、板戸が左右に大きく開かれる。男の告げたとおり、広間は客人でぎっしりと埋め尽くされていた。侍従頭の話によればごくごく内輪での式典となるということであったが、それにしては人数が多い。三十、いや五十人は下らないだろうか。そのすべての視線が、咲に突き刺さってくる。
「……」
わざと視線を落としていることを、花嫁の恥じらいと取ってもらえれば幸いだと思った。とても顔を上げる勇気などない。露わになった頬や手の甲はもとより豪奢な衣装に包まれたその奥にまで、どす黒い感情が流れ込んでくるように思われる。
西南の大臣様が周囲からどのような評価を受けているかということは、重々承知していたつもりである。咲としても、あの御方がなさっていることを正しいとは思っていない。
わかっている、否わかっていると思っていた。しかし、その負の感情をすべて我が身に受け止めるにはまだまだ覚悟が足りなかったのだと実感する。
一番奥の台座にたどり着く頃には、咲の顔は蒼白に変わっていた。
その後のことはよく覚えていない。
人の声がせわしなく頭の上を通り過ぎ、賑やかな宴が始まってからも同じ姿勢のままその場に座していた。これでは見せ物小屋の珍獣の方がいくらかましである。少なくとも彼らは我が身に向けられる蔑みの感情を知らずに済むのだろうから。
数刻が過ぎ、ようやく退座が許された頃には手足の感覚もほとんどなくなっていた。美津に手を引かれてどうにか部屋まで戻ったが、どこをどう歩いたのかもよく覚えていない。たどり着いて数日の屋敷では、入り組んだ建物の構成が未だわからずじまいだった。
美津に手伝ってもらい、今では重く肩に食い込むほどであった衣装から軽い素材の寝着(やぎ)に改める。上下とも純白の糸で織られたそれは初夜だけの特別のしつらえで、同じく純白の糸で細かく刺し文様が施されていた。輝きを放った袴の裾を気にしながら、咲は敷物の上に崩れ落ちるように座り込む。
「たいそうお疲れになりましたか、ただいま温かいものなどお持ちしましょう。宴の席でもほとんど召し上がっていらっしゃらなかったご様子ですし」
美津はよく気のつく娘であった。宴の席では他の侍女たちと共に部屋の隅に控えていたが、それでもこちらの様子をさりげなく気遣ってくれていたようである。
「大丈夫よ、あなたこそ遅い時間まで立ち働いて疲れたでしょう。今夜は早く休んだ方がいいわ」
「いえ、今は咲さまのお身体の方が心配です。薬師に特別に処方させた薬湯なども準備しておりますから、すぐにお持ちできます。こちらの白花茶をお飲みになってしばしお待ちくださいませ」
ひとりきりで部屋に残された咲は、だるい身体を肘置きに預けてようやく身を起こしている状態であった。
――このようなこと、いつまで続けなければならないのだろう。
弱音など吐ける身の上ではないとわかっているのに、ついつい泣き言が溢れ出しそうになる。辛いことなど今までにもいくらもあった。このたびは住む場所も用意されてそれなりの待遇を受けているのだから、幸せな方かも知れない。そう思わなくてはならないのに。
急仕立てで改装が行われたこの対は、表に見える部分には切り出したばかりの香りの残る新しい木材が使われていたが、それを一枚剥がせば元どおりの古びた壁が現れる。ただ体裁だけを取り繕ったしつらえは、己の今をはっきりと映し出しているようにも見えた。
短期間にこれだけの作業を終えるには、たくさんの人手と金が掛かっているはずだ。春先で田畑の仕事も忙しい折に余計な仕事を増やされたことで、土地の者たちの大臣家への不満はさらに高まっているように感じられた。
だが、その感情を大臣様ご本人に直接訴えるなど、できるはずもない。そうなれば、怒りの矛先は自ずと咲に向かうのだろう。しかしそこまでで止まっているうちはまだいい。いつか負の感情が募り募って、爆発してしまう日が訪れるかも知れない。
――あの御方は、腹の底ではそれを望んでいらっしゃるのかも知れない……。
この集落を含め山間部の一帯は、西南の大臣家の直轄地とされている。各所に地主は置かれているが、その者たちに政(まつりごと)の決定権はなく、大臣家の意向をそのまま反映する手駒のような扱いであった。
長い間、その関係は良好を保っていたが、近年は少しずつ様相が変わってきている。大臣様の強引すぎる行いは集落の内外問わずに反発が広がっていた。
この春、都では竜王家の姫君と次期竜王候補筆頭と言われている西南の大臣家のご子息の婚儀が執り行われた。それに先だって都を後にしてしまった咲には、どんな素晴らしい式典であったのか知るよしもない。だが、そのことが西南の大臣様にとってあまり好ましくない事態であることは間違いなかった。
とはいえ、生まれて間もない末のご子息を都に上がらせたのは、他でもない大臣様ご自身なのである。あの御方一番の野望は、竜王家をご自分の意のままに動かすことであった。そのためには身内を送り込み、その者を使って竜王御殿の者たちを西南風の思想に塗り替えていくのが近道。そうお考えになってのことであった。
だがしかし。
大臣様の周到な計画には、いくつかの誤算が生じてしまった。幼き頃から都でお育ちになったご子息は今の竜王様の影響を強く受けられ、次第に父である大臣様の言動を疑問視するようになられる。それならばと大臣様は次なる手を打つことにした。
それはご自分の息の掛かった女子を都に送り込むこと。表向きは元服を済ませたご子息の身の回りの世話をする侍女として、でもその実は閨を共にさせて世継ぎを生ませ、その後見となることでご自分の地位を確立しようと目論まれたのだ。
数年に渡って繰り広げられた攻防も、このたびのご婚礼でいったんは終止符を打つことになる。正妃様の他に女子を置くことを良しとしなかったかの御方の采配で、都に上がっていた者たちはすべて里に戻されてしまった。
そのときの西南の大臣様のお怒りといったら、お側にいる者が残らず震え上がるほどであった。戻る家もない咲はそのまま大臣家の別邸に留まることになったのだが、使用人たちの話を耳にするにつけ、これ以上事態が悪くならないことを切に願っていた。
都に対する大臣様の影響力がなりを潜めたことにより、集落の内部からも今がそのときとばかりに自らの権利を訴える者たちが増え始めたのも無理のない話ではある。ご自分の足下が大きく揺らいでいることにお気づきになった大臣様は、その火種を残らず抹殺するために次なる手を打つことになった。
――こんなことをしても、どうなるものでもないのに……。
きな臭い場所に次々と女子を送り込む。その者たちは侍女としてであったり、または幼い子供たちのための養育係であったりと様々であった。そして、もしも婚期の男子や女子がいれば、伴侶となる者を送り込まれる。表向きは施しをしているように振る舞いつつ、その実では合法的に間者を送り込むという荒技に出たのだ。
ご本人は上手く立ち回られているつもりであろうが、このことは誰の目にも一目瞭然。しかし、お役目を与えられてしまえば従うほかないのだ。
――お断り申し上げれば、その場で命を落とすことになる。そうなれば、二度と家族には会えないのだ。
今はどこにいるのかも知れぬ母や弟妹。彼らが無事でいるという保証はないが、もしも再び巡り会うことができる希望があれば、それに賭けてみたい。
山深い土地では、平地とは気の重さがまったく違う。夜更けになるとそれはさらに息苦しく、咲の細身にまとわりつく。さやさやと庭先の木々や揺れ、ささやかな気流が帯になって部屋奥の咲の元まで流れ込んできた。
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