TopNovel>薄ごろも・11


…11…

 

 頬をなにかがかすめ、咲はハッとして姿勢を正した。
  自分でも知らないうちに、うたた寝をしていたらしい。しかしそれもごく短時間のことであったらしく、まだ美津は戻ってきていなかった。
「都で甘やかされた身体は、あれしきのことで音を上げるのか。まったく嘆かわしい限りだ」
  いきなり声をかけられ、慌ててあたりを見渡した。直前に足音も衣擦れの音もしなかったところをみると、声の主はしばらく前から近くにいたらしい。
「愛想笑いのひとつもできぬとは……田舎者の相手などはしたくないということなのだな」
「……あ……」
「宴席の者たちもさぞ呆れたことだろう」
  中庭に面した障子戸から、不意にその者は立ち入ってきた。
  渡りからではなく、庭を突っ切ってきたようである。刃のように冷たく輝く眼差しが、こちらに向かう。彼が履き物を乱暴に脱ぎ捨てると、すぐに控えていたお庭番の下男がそれを拾って整えた。
  大股にやってくる足音に、咲は道を空けるために部屋の隅へと身を寄せる。宴は夜半まで続くものとばかり思っていた。まさか、こんなに早く主賓が引き上げてくるとは。心の準備ができていなかったので、必要以上に慌ててしまう。
「どうした、私の顔になにか付いているのか」
「い、いえっ、……その」
  相変わらず、吐き捨てるような物言いである。自分の夫となった者が部屋に戻ってきたのだ、このような場合は礼を尽くして出迎えるべきであろうか。だが、突然のことに心の準備もできず、なんの言葉も出てこなかった。
  彼に出会うのはこれで三度目。
  この屋敷に初めて足を踏み入れた折の、散々な初対面。飛んで次は、今朝のことである。その間、ふたりの間を取り持っていたのは彼の側近である侍従頭と、咲の身の回りの世話を買って出てくれた彼の実妹であった。中に人を介してのやりとりなら、それなりにこなすことができる。しかし、嫌悪感を全面に出した本人と顔を合わせるのは、今の疲れた身体にはかなりきつかった。
「忌々しいほどに取り澄ました奴だな。――まあいい、まずはこの胸くそ悪い衣装をどけてしまおう」
  男は咲の存在など忘れたかのように、部屋の中央で豪奢な重ねとその下に身につけた白袴、その上の絹仕立ての小袖までを乱暴に脱ぎ捨てた。
「あ、あの……お召し替えでしたら、お手伝いを」
  しばらくはなにが起こったのかも分からないほどに怯えていた咲も、ようやく顔を上げる。
  この部屋には今、自分たちの他に誰もいない。普段なら次の間にでも侍女たちが控えるのだろうが、今夜は宴のためにすべて出払っていた。
  しかしまず、この者をなんと呼んだらいいのかがわからない。夫婦となったのならば「殿」とお呼びするのが妥当かと思うが、それではあまりに親密すぎる気がした。そのことでまた気分を害されたら面倒なことになる。だとしたら――
  想いあぐねる咲の髪が、さらさらと後ろに流れた。それで人の動いた気配がわかる。
「断る、誰がお前の世話など必要とするものか」
  その頃にはもう、男は衝立の向こうで自らの衣を見立てている。衣擦れの音から察するに、普段使いの綿か麻だろうか。都でのお務めで、それくらいは楽に聞き比べることができるようになっていた。
「あいにく大臣家直轄地の地主とは、そうご大層なものでもないのでね。着替えごときに誰かの世話を必要とすることはない。お前も美津をあまりこき使うのではないぞ」
  その言葉にもかなりの嫌みが含まれているように感じ取れた。脱ぎ捨てられた晴れ着を見苦しくなくたたみ直していた咲の指がちり、と痛んで止まる。
  甘い言葉はおろか、ねぎらいの言葉すらも期待はしていなかった。だが、どうして特別の夜をこのように毒々しい言葉で埋め尽くさなければならないのだろうか。しかも彼の怒りの根源はすべて自分にあるのだ。どうにかしてこちらの真意を伝えたいと思うが、今はまだその時期でないだろう。
「……」
  やがて現れたその姿に、咲は喉の奥に想いのすべてが絡みつくのを感じていた。
  どうして、そのような衣を。何故寝着(やぎ)ではなく、昼間のような支度をしているのだろう。そのまま彼は、呆然とする咲の前を通り過ぎていく。ようやく縁の手前までくると、振り向きもせずに言った。
「ずいぶんと驚いた顔をしているな、ならば教えてやろう。私は毎夜、あちらに見える離れ館の宿直(とのい)をしている。これからもそれに変わりはない。お前もその方が本望であろう、この飾り立てた対をひとりで自由勝手にできるのだからな」
「そ、その。でも――」
「なにか言いたいことがあるのか?」
  それは誠に意地の悪い響きであった。太い梁で少し影になった背中が、さらに毒々しさを浮かび上がらせる。
「否、その口からはなにも言えないはずだ。都を追われた戻り女(め)など、誰が喜んでいただくものか。お前はこの先、なに不自由ない生活が保障されるのだ。使い古しの女子ならば、それだけで十分だろう」
  藍色の衣が闇の向こうに消えていくのとほぼ同時に、渡りの向こうから軽やかな足音が響いてきた。
「申し訳ございません、大変お待たせいたしました。――まあ、これは兄上の? それではもう、お戻りになりましたか!」
  なにも知らない娘は、花色に頬を染めながら嬉しそうに言った。
「今はどちらへ? でも程なくこちらにいらっしゃるでしょう。ああ、それではあたしも早くお暇しなければ」
  美津は風のような早業で館主の衣をすべて片付けると、そっと咲の耳元に囁いた。
「咲さま、兄上も今は少し照れていらっしゃいますが、すぐにうち解けることができると思います。だって、おふたりは晴れて夫婦(めおと)になられたのですから」
  この娘は本当になにも知らないままなのか。数日のうちに何度も胸に浮かび上がった疑問が、性懲りもなく湧いてくる。
「……え、ええ、そうね。あなたの言うとおりだと思うわ」
  だがこれが本音であろうと、たとえ演技であろうと、すべてを受け入れなければならない。咲はわざと明るく微笑んで見せた。
「はい、こちらに薬湯を置いてまいります。それではまた明朝に、ごゆるりとおやすみなさいませ」
  美津がそそくさと立ち去ってしまうと、そこには夜の静寂だけが深く残された。

 毒は残らずすべて吐き出したはずである。それなのに未だに残るこの息苦しさは、なんと形容したら良いものか。
  迷い続けていてはなにも解決しないということを、彼はとうに知っていた。今や、我が身ひとつの命ではない。自分の言動が、多くの民たちの未来に直接関わってくるのだ。そう思えば、独りよがりの感情でことを起こして良いわけはない。
  しかし、だからと言ってすべてに流されて良いものか。正しいものを正しいと言ってなにが悪い。このまま大臣家の陰謀に屈することは、哀れな道化師となるも同じと思った。
  もともと、大臣家直轄地の地主にはたいした権限も与えられていない。しかもやせ細った土地で収穫したそのほとんどの農作物を取り上げられ、苦しい生活を強いられている。交渉する権利すらなく、お上が言われるがままに付き従うしかないのだ。
  ――こんなことが、いつまでも許されるはずもない。
  彼も以前は気軽な身の上であった。家を継ぐのは長兄だと決まっていて、その補佐役として一生下から支えることだけを要求されていたのである。元服を迎えると、彼は近隣の村々や、領地境を超えて南峰の集落にまで足を伸ばし、そこで様々な土地の民と触れ合った。
  家族の相次ぐ死は、そこで得た知識をこれからは我が土地にも生かしていこうと思っていた矢先の不幸である。両親を失った嘆きも大きかったが、まさか上の兄まで儚くなってしまうとは悪い夢でも見ているようであった。
「――若様。……あ、いえ、主殿」
  館の表を護っていた下男が、彼の姿を見つけて進み出る。
「今宵もお出ましでしたか。てっきり――」
「周辺に変わりはないか」
  相手の言いかけた言葉を、途中で乱暴に遮った。この者がなにを考えているのかは、手に取るようにわかる。それだけに許し難かった。
「はい、表の方はなにも変わりなく。……しかし」
  片膝を立てて礼を尽くしたその者が言いにくそうに言葉を濁す。
「奥の御方は、相変わらずか」
「はい、本日は早朝よりご気分が優れぬとのことで、すでにお休みになっていらっしゃいます。ですから、この先こちらは手前共だけでも……」
  この台詞はあの侍従頭が言わせているのに違いあるまい、長年のつきあいでそれは丸わかりであった。
「否、今宵もいつものようにこちらに留まろう。悪いが、表の間に私の居所を整えてくれ」
「は、はいっ! それではただいま!」
  ――気分が優れぬ、か。それも無理のない話ではあるな……。
  彼はそこでようやく自分が歩いてきた道のりを振り返った。庭木の向こうにちらちらと夜警の松明が見える。出てきてきたばかりの対は、闇の中にとっぷり沈んで見えた。
「主様、準備が整いました。どうぞお上がりください、水桶はこちらに」
  下男の言葉に、彼は黙ったまま頷いた。

 

<< 前へ     次へ >>


TopNovel>薄ごろも・11