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職員室は一棟二階の突き当たり。3年I組の向こうにある。半開きになった引き戸を50メートル向こうにそっと眺めて、もう一度渡り廊下のところまで戻る。
……ああん、ドキドキするよ〜! こんなコトでひるんでいては始まらないと知ってるんだけど、それでも躊躇してしまう。自己申告の身長は155センチ。昨日の身体測定で154センチと言われたのは、計測係の先生がぎゅうぎゅう上から押したせいだと信じてる。生まれながらのウエーブが掛かった髪の毛は、やっぱり入学時に証明書を書かせられた。何もしなくても、額の上、くるりんと内側にカールする前髪。 斜め30度に綺麗に流れたそれを確認して、ついでににっこりの笑顔もおさらいした。相手に178センチの身長があっても、座っていれば見下ろせるはずだ。見上げるのと、見下ろすのじゃ、可愛く見える角度が違うんだから、ここはポイントだな。
折から、桜の花の頃。中庭に植えられた樹から散った花びらが床の隅っこに集まっている。さらさらと微かな音に乗せて、降り注ぐ春。 そうだ、春。春と言えば、恋の季節。まあ人間にとっては、一年中が発情期なのだから、別に季節限定と言うわけではない。ただ、とくに日本の制度では、4月が1年の区切りになっている。学校も会社も4月1日付で、色々人間が入れ替わる。いわば、出会いと別れの瞬間。 ――これは、もう〜っ! 盛り上がるしかないでしょうっ!
二階の渡り廊下には自販機が置いてあって、パックのジュースが買える。そしてその隣に、ゴミ箱と何故か等身大の姿見があるんだ。それをのぞき込んで、何度も表情を作り直す、ポニーテール頭。 ネイビーブルーの制服を見た時は「だっさ〜い!」と叫びそうになったけど、スカートがミニでチェックだったから許せた。しかも女子の胸元のリボンはパステルカラー。コレがまた可愛い水玉模様。だからポイント20%UP。ピンクの水玉は1年生の印。
……よし! あんまり遅くなって、目的を果たせなくなったら仕方ない。まずは体当たり勝負だっ! そう思ったら、3年生の溢れた廊下だって怖くない。 …まあ、みんな自分の視界に入らないくらいのちんまい彼女に気付かないかも知れないが……。 とにかく、頭の後ろのしっぽを揺らしながら、目的地を目指してずんずん大股で進んでいった。
***
普通教室を三つくっつけた大きさの職員室には、教室よりもたくさんの机が溢れていた。そう言えば入学式の時に校長が言っていた。全職員数が77人だって。目で探すよりはまず場所確認。入り口のところに張ってある配置図を眺める。 入り口から見て、手前から3年生・2年生・1年生の順番に担任と副担任の机が島になって並んでいる。と言うことは彼女が目指すのは一番奥。……ええと、ウチのクラスはE組だから、真ん中くらいかな?
どうして、こう職員室の机って雑然としているんだろう。昔と違って、今は成績処理だってパソコンで管理するんでしょ? なのに、この散らかりようは何? 必死で背伸びして、きょろきょろする。――いたっ!!
そんな中でもひときわうず高く。こちらからその姿を確認出来ないほど、バリケードのように積まれたファイルと本の壁。その向こうに頭の先っぽだけがかろうじて確認出来た。坊主じゃないギリギリまで刈り込んだ角刈り。だから、最初は体育の先生かと思った。 ……あ。ちょっと待ってよっ! 話をしてるのは、隣のクラスの担任っ!? しかも25歳の独身女教師だと聞いたわ。ねええ、家庭科の先生だったら、さっさと教材準備のために家庭科準備室に行きなさいよっ! どうして職員室にでーんと構えてるの? さらさらの長い髪の毛をかき上げて、ざーとらしいのっ! 生徒にはカラーリング禁止とか言ってさ、教員はそんなに色抜いていいのかしら。
むっか〜〜〜〜っ! ぴきぴきぴき、とこめかみの血管が疼く。むうう、負けるもんですかっ! ケバケバ化粧お化けになんてっ!
「先生〜〜〜っ!!」 「日直ですっ! 日誌、持ってきましたっ!!」 黒い表紙ずりずりと差し出す。本当にラッキーだった。入学式から3日目で日直になれるなんて。 「おっ…、おおう。ご苦労様、……ええと」 「久我です、先生」 クラス担任なんだから、生徒の顔と名前を一致させていて欲しいものだと思う。ただ、同じような女子がクラスの半分・20人もいたら、覚えられないかも知れないな。同じ制服を着て、座っていたら、区別付けるの大変かも。ここは百歩譲って許してやろうとにっこり微笑んだ。 「ああ、……久我。教室の戸締まりを確認したら、帰っていいぞ」 日誌に軽く目を通してサインすると、彼は言った。おおう、いきなり名前を呼んでくれた。こうやって面と向かって声を掛けて貰えるなんて、感激かも。これで一歩前進かな? 感慨深く、目の前の存在を改めて観察した。四角くて大きな顔に、控えめなパーツが乗っかっている。もみあげが妙に目立つのが、一昔前の少年漫画みたいだった。そして、お約束に眉毛も濃い。「亀有」の両さんみたいに、もう少しで右と左が繋がりそうだ。 思わず、うっとり。間近で見ると、また素敵だわ。 「あ……ええとっ、先生っ!」 「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですが。宜しいでしょうか?」 「ああ、……何かな?」 まっすぐな先生らしい話し方。ついでに今までは机に向かっていた椅子を、彼女の方にくるんと回してくれた。生徒と接する時はきちんと向き合って――教師としての基本を忠実に守ってる。 でも、知ってる。恥ずかしがり屋のこの人が、実はあまり女の子慣れをしてないことを。男子生徒にはラフな感じに話しかけるのに、女子には用事がないと絶対に声を掛けない。冗談なんて言わない。 彼は言いかけて、気がついたように手帳を見る。何かを確認するように。 「明日の予定は、昼前に新入生歓迎会とクラスオリエンテーション。晴れていれば森林公園まで歩いていこうと言うことになっていたな? 弁当を食ったら、部活動の見学があって……」 「それは、帰りのHRで伺いましたから、大丈夫ですっ!」
よ〜しっ! 行くぞっ!! 彼女はもう一度、気合いを入れるために深呼吸した。それからまっすぐに相手の目を見る。自分の四分の一くらいしかない小さな目を。それから、頭の中で100回繰り返した言葉を一気に吐き出す。 「先生っ! 今、個人的におつき合いしている方はいらっしゃるんですかっ!?」 「――へ?」 「自己紹介の時に、独身だと仰ってましたよねっ!? でも、みんなが恋人について聞いたら、真っ赤になってはぐらかしちゃったから。そこんとこ、真相はどうなのかなって……」 うきうきと話を進める彼女に、彼の方はすっと目をそらしていた。あからさまに嫌な顔をすると、机の上の書類を整え始めた。 「個人のプライバシーに干渉するのは、どうかな? ……想像にお任せするから、ノーコメントで頼むよ」 独身教師に対するこの手の質問は日常的なコトなのだろう。彼は前から用意してあった通りの台詞をそのまま棒読みするように答えていた。 「話がそれだけなら、俺は部活に行かないと――」 「…きちんとお返事が頂けないんじゃ、困るんですっ!!」 がしっ! 水色のワイシャツの袖を掴んだ。逃してなるものですかっ、ここまで来るのだって大変な勇気だったんだから。 「――は?」 「彼女、いるんですかっ! それともいないんですかっ……!」
気がつくと。 ざわついていたはずの職員室が、しーーーーーんと静まりかえっている。みんな動きまで止めて、コトの成り行きを見守っている。一番奥の窓際の席にいる教頭までが、眼鏡に手を当てて身を乗り出していた。
「そっ……、それは……っ…」 周囲のまるで見えていない女子生徒に対し、彼の方はそれなりに社会性もあり、周りがよく見えるのだろう。皆がこちらに注目していると思うと、冷や汗が噴き出してきそうだ。実はあまり、注目されるのは好きではない。いや、むしろ目立たずにこっそりと生きていきたい方だ。ただし、そうするには生まれ持った巨体が邪魔だが。 緊張のせいか、少しカサカサになった唇を虚しく動かしてみても、彼女を納得させるような言葉が浮かんでこない。そうしているうちに、彼女の方は表情をふっと和らげてにっこりと笑顔になっていた。 「彼女、いないんだったら。私、立候補していいですかっ!! 先生の恋人にしてくださいっ!!」
がたがたがたんっ!! いきなり大きな物音がした。いくつかの視線が音のした方向を確認する。生徒指導の教師が、椅子から転げ落ちたところだった。もちろん、みんな見なかったことにして視線を戻す。
「……!?」 彼は黙ったまま、何度か瞬きした。あまりのコトに言葉も出てこないのか。 「じゃ、お返事はあとでいいですっ! 考えておいてくださいね。じゃあ、今日は帰ります、さようならっ!」 小さめの輪郭。笑うと右の頬にえくぼが出来る。ぺっこりと頭を下げると、また頭の後ろでしっぽが跳ねた。
***
しばらくして。そう話しかけてきたのは、バリケードの向こう側に机を並べている彼の担当クラスの副担任だった。本棚の隙間から、こちらをのぞき込んでいる。 50を過ぎて、現役の平教員。と言うことは、管理職に進まなかった組である。高校は管理職の椅子が極端に少ないので、よほど早くから頑張らないと教頭や校長には進めない。まあ、イマドキのご時世では気苦労の多い管理職よりも、平のほうが気楽でいいと思う者も多いが。 ざわざわざわ。その頃までには、元の通りの騒がしさに戻っていた。だが、あのやり取りはたくさんの同僚に聞かれていたはずだ。そんなに厳粛な職場ではないが、皆が腹の内で何を考えているのかと思うと胃がキリキリと痛んでくる。 「今の若い子はすっ飛んでますけど、あそこまでの子も珍しいですね。まあ、羨ましい限りですよ、いいですねえ〜私もあと10歳若かったら……」 ここで、「10歳若くなっても、40代ですよ」と突っ込んではいけない。一応、目上の人間は敬わなくてはならないのだ。彼は返事をするのも面倒くさかったが、仕方なく反応してみた。 「ああいうのが、今の子のノリでしょう。いちいち本気にしていては敵いませんよ。3日もすれば、その辺の男と腕組んで歩いていたりするんですよ、あの手の子は」 まあ、これもあながち嘘ではない。そんなものなんだ、いちいち驚くことではない。 「いやいや」 「知りませんか? あの娘は、隣りの女子校の中等部にいたんですよ? あそこにも高等部がちゃんとあるのに、エスカレーターで短大まであるのに、どうしてウチみたいな公立をわざわざ受験するんだと、ちょっと噂になったんですから……」 「…はあ」 「調査書、見ました? …『久我』って、あの久我商事の代表取締役の家じゃないですか。先生、もしかするととんでもない逆玉になれるかも知れませんよ!」
馬鹿馬鹿しいと思いつつも。一応、確認のために生徒に提出させた家庭調査書のファイルを広げた。 『久我商事』……と言えば、日本でも十指に入るのではないかと言われている総合企業だ。自動車部品から、建築資材まで手広く色々やっていて、市の中心部に本社がある。だから、この街の人間の半分は『久我』の仕事に関わっていると言ってもいいくらいだ。 「ね、私の言った通りでしょう? ……もしかして、先生を追いかけてここまで来たのかも知れませんよ? ロマンですねえ」 うるさい外野の声を聞きつつ、読み進める。副担任の情報通りだ、『聖ポピー女学院』に幼稚部から通っている。もちろん、小等科、中等科。その名の通りクリスチャン系の私立のお嬢様学校で、家がよっぽどの資産家じゃないと入れない。年間の寄付金だけでも目の玉が飛び出るほどだと聞いている。 そして。 春まで、タンポポ色の上品なAラインワンピースの制服を着て、そこの中等部に通っていたはずのあの女子生徒は……。
『久我・媛子』――「媛子」!? 何だ、この画数が多くて、読みにくそうな名前は!
彼の、彼女に対する第一印象はそんな風だった。 まさか、これが長い物語の幕開けだとは気付くはずもなく……時計を確認して立ち上がった彼の目に飛び込んできたのは、窓の外に広がる風景。校庭を真っ白に埋め尽くすような花吹雪だった。
つづく♪(031107)
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