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「先生〜〜〜〜〜〜〜っ!!」 翌朝、7時45分。そんな声が響き渡ったのは、登校途中の生徒たちでごった返す通学路だった。
私鉄の学園駅前から、まっすぐに伸びる並木道。秋には街路樹の全てが金色に染まる通称「銀杏通り」だ。 駅のロータリーを抜けて、10分ほど歩くと白亜のお城のような建物が現れる。……お城、と言うのは大袈裟か。何だかそう言う風に描写すると全然違う建造物を想像してしまう。敷地内全体が英国風に美しく設えられた『聖ポピー女学院』。そこには今朝もひっきりなしにぴかぴかに磨き上げられた高級車が出入りしている。 今まではその黒塗りの豪華な鉄柵の向こうに広がる花園を別世界だと思っていた。もちろん、本物の花もたくさん咲いているが、良家の娘だけが入学を許される完ぺきなお嬢様学校なのだ。文字通り「蝶よ花よ」と言うように育てられた娘たちだけが生息している。 ――の、はずだった。
あと少し、100メートルも歩けば、勤務先である公立高校の校門まで辿り着く。先ほどまで眺めていた学園とは対照的に、古ぼけた築30年の鉄筋コンクリートの校舎。桜並木の他は、ただっ広い校庭が広がっているのだ。彼は声のした方向、その次々に紺色のブレザーたちが吸い込まれていく目的地を恐る恐る確認する。 ――やはり。 ぽよぽよのひよこ頭を後ろでポニーテールにした子犬のような姿が、近づいてくる。走るたびに、しっぽのような一房がぐるんぐるんと回って。どどどどどと、コマ送りでどんどん進んでくるのに、地面にくっついた足が動かずにただ立ちすくんでいた。 1年生から3年生まで、ネクタイや胸のリボンの他は同じ色の制服。黙っていれば、どこに自分のクラスの生徒がいるかなんて気付かない。気さくな者は挨拶していくが、ほとんどは校門を入るまで無視している。
……そうなのだ、黙っていれば、一般市民にも紛れることが出来るのに。
「先生〜〜〜〜〜っ! 遅い〜っ! いっつもこの時間なんですかっ!? 私、30分も待っちゃいましたっ!!」 大声を上げながら、人並みを逆流してくれば嫌でも目立つ。 気がつくと、彼を中心に半径1メートルほどの空間が生まれ、その周りをぐるりと取り囲む人垣が出来ていた。やはり人目に付くのはあまり得意ではない。早いところ逃げたいが、進行方向には障害物がある。 「ええと……久我くん、おはよう。ほら、急がないと始業時間に遅れるよ?」 良かった、名前が出てきた。とりあえず、担任らしく取り繕って、この場をすごそうとした。出来れば、目の前の桜色の小さな口元から、これ以上の爆弾発言が飛び出さないことを祈りつつ……。 「えええ〜、先生っ! まだ大丈夫ですよぉ〜、それよりっ、昨日のこと、考えて頂けましたか!?」 背中にチェリーレッドのカバン型リュックをしょって、胸の前で手を組んで、つま先立ちでこちらをのぞき込んでくる。歴然とした身長差があり、彼女が頑張って背伸びしてもあまりに顔が遠い。 「え――、ええと……、何のことだったかな〜?」 おいおい、頼むぞ。大人しくしてろよ、やめてくれよ。――そんな彼の儚い望みは、次の瞬間無惨にも打ち砕かれる。 「やっだな〜、先生っ! 照れないで下さいよ〜ぅ。私を恋人にして下さる決心つきましたか!?」
どっどどどう〜〜〜〜、と辺りがざわめいた。生徒たちの人垣はどんどん厚くなっている。これ以上ここで大道芸人みたいにやっていられない。
「あ、あのだなぁ。久我、そう言うことはいきなり言われても……」 言いかけて、ぎょっとする。まずい、あっちから歩いてくるのは校長じゃないか。そう言えば、今年から変わった新しい校長は電車通勤だったんだ。
やばいぞ、やばい。問題は起こしたくない。
「いきなりだって、いいじゃないですかっ! いい年して照れてるなんて、先生可愛いっ!」 ――駄目だ、全然分かってない。 だいたい、この娘は何を考えてるんだ。彼には訳が分からなかった。自慢じゃないが、今までの人生、相手から告られた覚えはない。と言うか、女性と親しく付き合ったこともないのだ。からかわれているのか……、だったらいい、どうにか早く終わらせてくれっ! 「私を恋人にすると、すごいお得なんですよっ! だって、ぴっちぴちのバージンだって捧げちゃいますからっ! いいでしょ〜イマドキ、援交だってそんなの無理だって言うじゃないですか〜!!!」
彼女の絶叫が彼の耳に届く頃、白髪の校長が人垣の向こうをゆっくりと通り過ぎていった。
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「鉄は熱いうちに打て」と言う言葉を知っていた。高校受験のために猛勉強した時に覚えたのだ。これでも記憶力が最高潮の15歳。すぐには忘れない。念入りに身支度を整えて、景気づけにトーストを3枚も平らげた。もちろん4枚切りの分厚い奴。さらにカフェオレも3杯おかわりした。
「ここでいいから、降ろして」 「えっ…、でも」 「そのようなわけには参りません。お嬢様をこんな道ばたで降ろしたと知られたら、私は即刻、首になってしまいますっ! お願いですから、この不況下に路頭に迷わせないでくださいっ……」 青ざめてブルブルと震える姿も情けない。年若い運転手に、深窓のお嬢様。なかなか危ない組み合わせであるが、この男は学生結婚していて24歳にして3児の父。このまま行くと10人くらいに増えそうだ。ちなみにすごい恐妻家。身分差のラブロマンスなんて、微塵も描いたことはないだろう。いまどき、ポマード7:3分けもどうにかして欲しい。 「そんなこと、言ったって」 「今までとは違うのよ。ウチの高校には来客用のロータリーなんてないんだから。車が入れるのは裏手の職員通用門くらいよ」 「ひぃい、そうなんですかっ!」 ――当たり前だ。生徒用の校門からは車の進入は禁止されている。ごくごく普通の公立学校なんだから。生徒だって車で送り迎えをして貰っている者なんていない。出来れば、校門のずっと手前でこっそりと降ろして貰いたいものだ。 そんなこんなで、一頻りのやり取りをしてから、ようやく彼女は車を降りた。カバンを持って教室まで付いて来るという申し出はきっぱりと辞退する。もう、何考えてるんだよ〜、全く。車を降りる時にドアを開けて貰うのも恥ずかしいから明日からはやめて貰おうと決意した。
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制服のスカートの裾の乱れを直しつつ歩き出すと、背中から大きな声で呼ばれた。 「あ……まあ、おはようございます。えっと……きみちゃん…様」 振り返って相手の顔を確認してから、ゆっくりと頭を下げる。そして綺麗な姿勢でそれを戻した時、彼女の目に映ったのは呆れたクラスメイトの顔だった。 「あのねえ」 林きみこ――入学4日目にして媛子を呼び捨てにしてくれる唯一の存在。彼女は入学式当日に、席が隣になったのを縁に親しくなった。エスカレーター式に上に上がれるポピーからこの高校に来る人などいないから、媛子は知り合いが一人もいない状態。これでも人並みに緊張していたのだ、声を掛けられたときはどんなに嬉しかったことか。 赤や黄色のオウムか熱帯魚のような頭をした生徒の中で、真っ黒でまっすぐな髪の毛が安心出来る。媛子と同様、校則通りのスカートの長さ。まあ……これは彼女と同居してるお祖母さんの好みらしく、「言うこと聞かないとうるさいし面倒だから」という理由のようだ。 「私はねぇ、『様』はやめてくれって言ったでしょ? どうして付けちゃうのっ!」 「えっ……だって」 ポピーはお嬢様学校と言っても、それほどコテコテではなかった。言葉遣いだって普通に丁寧な位だったし。 ただし、机を並べる学友のことは「林様」もしくは「きみこ様」と呼び合うのが常だった。世の中全てがそうだと思っていたのだから、カルチャーショックだ。突然直せと言われても幼稚部から12年も培ってしまった習慣がおいそれと改まるわけもない。 「まあねえ、今日は『ごきげんよう』が出てこなかっただけマシか。まったくあんたには驚かされるわ……ねえ、ところで」 始業時間が迫っているためか、少し大股になる。媛子もちまちまとそのスピードに付いていった。 「あんた、何したの? 何だか周囲の視線を感じるんだけど、痛いくらい」 媛子自身はあまり気にしてなかったが、普通の神経のきみこにはざわついた通学路で何かがあったことが分かるのだろう。 普通、入学4日目でこんなに上級生からも同級生からも注目されるわけはない。媛子がポピーからわざわざ外部受験してこの高校に入学したことは内密にされているようだったし。だいたい、こんなちんまいぽよぽよを大企業のお嬢様だと思う人間はいないだろう。 「う〜ん……、別に。さっき、先生がいたから、朝の挨拶をしただけよ」 ついでに、とんでもない告白もしたんだが、それはこの際どうでもいい。それに、どうして彼がそそくさと逃げるように去っていったのか、そのことにちょっとむかついていた。 「朝の挨拶、だけじゃないでしょう……そういや、あんた。昨日職員室でも騒ぎを起こしたんだって?」 「…へ……?」
昨日の放課後、媛子が日直の仕事を終えて教室の戸締まりをした時、そこには誰も残っていなかった。きみこも帰宅したあとだったはずだ。 それほどの大騒ぎをした覚えもない。まあ周囲の2,3人の先生方は聞いていたかも知れない……と彼女は思っていた。職員室中が注目していたことには残念ながら気付いてない。
「なんで、きみちゃんが知ってるの?」 思わず、聞き返してしまった。ただ、何となく。 「え……? ええ〜、別にどうでもいいじゃない。ほら、急ご」 連れ立って校門に吸い込まれていくふたりの背中に、木の陰に隠れた視線がへばりついていることを彼女たちが知るはずもなかった……。
***
生徒指導の先生が、なにやら面倒くさそうなことをステージの上で叫んでいる。でも、聞いてる生徒なんていない。周りじゅうがざわついてた。みんな思い思いにおしゃべりしている。
あの後、一般的に勘のいいこの友人は、すぐに媛子の突飛な行動を知って、頭を抱えていた。だがそれについてのコメントは「バージンで勝負しようなんて、感覚古すぎ。そんなのもう流行らないわよ」であったが。
「そっ……そうかなぁ」
ああ、格好いいなあ。やっぱ、何て素敵なの。今朝、芽吹き始めた銀杏の木の下を颯爽と歩いてくる姿に惚れ惚れしてしまった。本当は校門のところでじっと待っているつもりだったけど、気がついたら身体が走り出していた。 何しろ、あのがっちりした身体。ぎゅううっと抱きしめられてみたいと思うわ。ムンムンに匂ってくる男臭さもいい。やっぱり、日本男児よね、ああくっきりした眉毛に控えめな眼差し。いいなあ、いいなあ。 そして、先生の魅力はそれだけじゃあないのよっ! 媛子はどきどきと胸を躍らせながら、ポケットの中の生徒手帳を取り出した。その表紙の裏のカバーに挟んである隠し撮りの写真……裏返す。そこに記された丸っこい文字(もちろん、媛子の直筆)。 「権藤嶺一」……これは、「ごんどう・みねかず」ではなくて「ごんどうみね・はじめ」と読む。何とも威厳があって逞しい彼にぴったりだと媛子は思っていた。先生、私やっとここまで来たんだよ。その上、いきなりクラス担任なんて。こんなに幸せでいいのかなと、入学式からこっち、ずううっと夢心地でいる。 ……でも、つれないのよね。いまいち。 さっきもちょっと言い過ぎたのかなあ。あのあと、朝のホームルームの時も、視線を合わせてくれなかったのだ。あれだけのことをやったのだから、当然と言えば当然だが、媛子も小さい胸(もののたとえであって、サイズが小さいわけではない……と思う)をそれなりに痛めていた。
「だいたい、何であんな男。ま、いいけどね……好みは人それぞれだし。私には関係ないわ」 きみこの方は媛子の行動には興味があるらしいが、色恋沙汰には関心がないみたいだ。 担任になったのが独身なのはいいが、どこをどうしてもそんな気になれないほどの男臭いむさい男。入学式当日にげんなりしたのは、きみこ以外の女子も同様だった。 「いやぁん、もうっ、すぐに話を終わらせないでよっ! 今日も先生に会えると思ったら、もう緊張しちゃって、昨日は7時間しか眠れなかったわっ!」 それだって、十分な睡眠の気がするが、媛子の場合は寝てろと言われればいつまでも寝てられる。平均睡眠時間は9時間。よって、9時過ぎには布団に入ってしまう。人気のドラマもほとんど見られない。 「はいはい、勝手に盛り上がって下さい」 相手がこんな風に呆れているのに、媛子は気にしないで話を続ける。 「やだぁ〜、きみちゃんなら色々知ってるでしょ? ずううっと男女共学だったんだし、頼りにしてるんだからっ! ねええええ、先生って、どんな女性が好みだと思う? 髪型はきみちゃんみたいなストレートがいいのかなぁ。それなら、すぐにストパーかけようかと思ったんだけど。……ああ、それよりも癖毛矯正かなぁ」 「私、教員生活6年目の男じゃないから分かりません。そんなの媛子が自分で聞いてみればいいじゃない」 ぴしゃりと言われても、めげる媛子じゃない。 その後も「ぼいんぼいんの方が魅力的かな」とか「安産型の方がいいって人もいるんだってね」とか、話は尽きることがなかった。
つづく♪(031114)
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