まあ、あの通りピントのずれた人はこの際、置いておいて。だって、とりあえず学校まで来てしまえば、パパは手出しが出来ない。学生服を着込んで潜入するくらいしそうな気もするけど、そんなことしたらファンの子たちにもみくちゃにされちゃうんだからねっ! 今朝も朝ご飯を食べているあたしの回りをぐるぐると回りながら、 「5時半〜、5時半〜」 本当に良く言うわよ。自分はママと知り合いのパーティーやら、何とか会やらに出かけていって午前様になることだってあるじゃない。どうして娘を信用出来ないのかしら? 何考えてるんだか、さっぱり分からない。 それよりも。問題は別のところにあったのだ。
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朝、憂鬱だった下駄箱の手紙類もびっくりするくらい少なくなった。前は靴箱中に押し込んであって、上履きが変形していたけど、今は空いている下段の外履きの部分で収まるもん。ああ、彼氏が出来るとこんなもんなのねと、ショックより先に感心してしまう。量が減ったので、何通が開いて読んでみる。 『杉島さんと幸せになって下さい(注:「杉島」というのは岩男くんの姓)』と言う、可愛らしい感じのから、『僕はいつまでもあなたがフリーに戻るのを待ってます』と言う恐ろしいのまで。 …馬鹿ねえ…。足かけ、9年の片思いよ? そう簡単に壊れてなるもんですかっ! あたしはぷんぷんとほっぺを膨らましながら、やっぱり手紙たちをゴミ箱に捨てた。なんか、こういう手紙って…持ってると怨念みたいなものが伝わってくる気がして怖いのよね。だから申し訳ないけど、ごめんなさいっ!
ゴミ箱に手を合わせて供養(?)してから顔を上げると、そこには見慣れた顔が立っていた。 「やあ、…ちょっといい?」 げっ! …生徒会長じゃん。やだなあ、この人…絶対について行っちゃ駄目だって、岩男くんに言われてるんだよね。あたしが黙ったまま困った顔してると、彼はふふっと鼻で笑った。 「やだなあ…菜花ちゃん。何、緊張してるの? やっぱ、いい男を前にすると校内一のアイドルでもそうなるんだ。光栄だなあ…」 …むかっ! 何だ、コイツはっ!! そうなのよね、岩男くんの彼女になって数日。あたしたちの関係は瞬く間に全校生徒に知れ渡っていた。岩男くんとあたしが同じ小学校の出身だと言うことすら知らない人がほとんどだったから、その相関性のない事実にみんな首をひねったらしい。 それでも、ほとんどの人はそんなもんだと思ってくれたみたい。岩男くんは自分のことを卑下するけど…そんなことないんだよ。岩男くんは格好いいの。柔道している時も、そうじゃない時も。あたしはもう息が出来なくなるくらい、うっとりしちゃうもんね。 だけどだけど。若干名、困った人たちはいる。岩男くんとあたしのらぶらぶな関係を信用しない妄想の領域の人間たちだ。そして、その一番すごいのがこの生徒会長だったりする。 「…話なら、ここでしてくれない? あたし、急いでるの」 実はそんなの嘘だけど。これからお昼ご飯を食べて部活があって、そのあと図書館で岩男くんの部活が終わるまで待つんだ。本当は柔道場でりりしい姿を見ていたいのに「駄目」って言うんだもん、意地悪。 「へえ…いいの? ここで…?」 「杉島の奴さ…裏で何て言われているか知ってる?」 しつこいようだけど、杉島と言うのは岩男くんの姓。岩男くんは「杉島岩男」と言うのだ、何となく海の男って感じでワイルドでしょう? それにしても、どーいうことよっ! 何となく嫌な言い方に、あたしはもっとむかむかしていた。 「…知らないわよ、そんなことっ!」 必死で睨みをきかせたのに、会長ときたら、すごい嬉しそう。何だよ、正常な思考回路が壊れてるんじゃないのっ!? 自分の顎に手を当てて、くすくすと笑う。それから、怪しげな瞳であたしを見つめてきた。 「じゃあ、教えてあげる。あいつね、菜花ちゃんのこと、無理やりモノにしたんだって。そう言う野蛮人だからって――」
会長の話では。何の前触れもなく、いきなりあたしと岩男くんが「出来た」のにはそれなりの理由があるとみんなが噂しているのだという。いつの間にそんなでっち上げた話が流れたのか知らないけど、放課後、誰もいなくなった柔道場にあたしが呼び出されて、岩男くんにいきなり押し倒されたとか。 あまりのことに言葉をなくして青ざめているあたしに、会長はとても楽しそうにしゃべり続ける。 「先生方の耳にも、もちろんこういう話は入るからね。杉島の奴、昨日生徒指導の先生に呼び出されたらしいよ? それを目撃した奴がいて、その話もね…」 「馬鹿っ! うるさいっ! …やめてよっ!!」 「やだねえ…可愛い菜花ちゃんも、野蛮人と付き合ってるとこんな風になっちゃうの? 可哀想だね、…でもオレは大丈夫だから。菜花ちゃんが本当は奴と嫌々付き合ってるのだって、実は誰のことが好きなのかだって、ちゃんと知ってるからね…」 「ちょっ…! 離してよっ…!!」 「今にあんな奴、ぶっつぶしてやる。メタメタにプライドを傷つけて、もう西の杜にもいられないようにしてやるから。それまで辛抱しててよ、菜花ちゃん」
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「本当に、…どうしたの? 菜花ちゃん…具合でも悪いの?」 「ねえ、何か心配事があるなら、言いなよ? 聞いてあげるからさ。オレ、菜花ちゃんがしょぼんとしてるの、やだな」 ひやり、とほっぺが冷たくなる。 あれ、いつの間に買ったんだろう、缶ジュース。あたしの好きないちごミルク。岩男くんは魔法みたいに二本取り出すと、その一つをあたしに差し出してきた。さっき駅でトイレに行った時かな? あたし、下を向くと涙が出てきちゃうから、ハナもずくずくで、だからかみに行ってたんだ。岩男くんの前で、ちーんとかするの恥ずかしいもん。 「いっ…岩男くんっ!!」
「…ふうん」 「だいたい、分かったかも知れない」 「え…、何がっ…?」 酷い噂が立ってるんだよ? …下手したら、退学になっちゃうかも知れないんだよ? それなのに、岩男くんは目の前の霧が晴れたみたいに、清々しい笑顔になってる。 「…内緒」 「心配しないで、菜花ちゃん。オレは大丈夫だから」 木々の枝がこすり合って、ささやかな日陰を作る。あたしたちの上に、ミンミンと蝉時雨が降り注いできた。
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お休み中はそれでもホッとしたんだけど、新学期になって生徒の波の中に入っていくと、どうしても会長の言っていたことが気に掛かる。そして何より…彼の言ってた「ぶっつぶしてやる」と言うひとこと。岩男くんは心配ないよって笑う。でも、怖かった。あたしが一緒にいることで、岩男くんが酷いこと言われるのは辛い。でも一緒にいられないのはもっと辛い。 10月の始め。中等部と高等部はそれぞれ日を変えて、体育祭が行われる。文武両道の精神に乗っ取った学園だけあって、すごい派手な奴。そのために、応援団は夏休みから練習に明け暮れる。私はチアリーダーポンポンを持って踊るんだ(テニス部女子はスコートがあるから、そのまま衣装になると言うことで全員借り出されるのだけど)。 時たま、あの会長の話は嘘なのかな? と思う。だって、あたしの見る限り、岩男くんのことをそんな風に白い目で見る人なんていない。みんな普通通りだし、先生方だって変わらない信頼を寄せているように見える。主将になれるのだって、白組の中で一番人望があると言うことでしょう? 彼女としてはとても嬉しい。本当は同じチームで戦いたかったけどね。 他に、緑組と紅組があって。紅組の主将が…あの会長。なんか立候補して無理やりっていう噂。本当に嫌な奴だと思う。紅組の春菜ちゃんの話でも、全然みたいだし。志気が上がらないんだって。
みんなで盛り上がりながら当日に備えている時、廊下ですれ違いざまに会長がぼそっと言った。 「…もうちょっとだからね、菜花ちゃん」 ハッとして振り向くと、冷たい氷みたいな微笑みを浮かべた会長がいた。笑っているのに、悪魔みたいで怖かった。 「体育科の先生にかけ合ったんだ。ほら、男子の騎馬戦。あれは体育祭の華だろう? やっぱさ、主将は何が何でも騎士になって上にならなくちゃな。そう言う決まりにして貰ったんだ。…どうするんだろうね、杉島。あいつ、柔道部でもでかい方だろ? 下になる奴はグラグラだろうな…」 ――去年まではそんな決まり、なかった。 出来ることなら主将が馬の上になった方がいい。でも岩男くんみたいにでっかい子はそれは無理。そう言う時は主将がいる騎馬を「王」にすればいいって、そう言う決まりになっていたはず。3人の男子が上に乗る「騎士」を支える騎馬。安定しないと辛い。大柄な人が上になれば、その分高さも出るから安定が悪くなるのは分かり切ってる。 「あいつを中等部全員の前で、恥かかせてやる。いつも涼しい顔で何を言っても動じないんだからな。許せないよ…」
あっという間に体育祭当日がやってくる。こういうのは心配していても、非情なほどに時は流れるのだ。もちろん、会長の言葉は岩男くんに伝えたけど、「大丈夫だから」とそればっかり。あんまりに余裕過ぎて、あたしの方が胃に穴が空きそうだ。可愛い彼女が胃潰瘍になってはかなくなってしまったら、どうするつもりなんだろう…?? 「大丈夫かなあ…、何かさ、変だよね会長…」 「どうもね、会長は菜花ちゃんに振られたことをどうしても認めたくないらしいよ。絶対にモノにするって豪語していたんだから、それが破れたらたまらないんでしょ? プライドだけで生きているような奴だもん」 相づちを打つ余裕もなかった。騎馬戦は団体競技。3年生の男子を中心に、選抜で騎馬を作る。正式のはよく分からないけど、出来るだけたくさんの生徒が参加出来るように、ウチの学校では「王」の騎馬を含めて15騎作る。4人ひと組、ひとりが上に乗って、下で3人が支える。時間は5分。総当たり戦で4色が対戦して、一番残りの騎馬が多いチームの勝ちになる。 「うわ、すご…」 紅組では。会長の騎馬は逃げ回るのみ。下で支えるメンバーも全員バスケ部で揃えて、チームワークも抜群。でも、ホント、逃げてるだけ。岩男くんは守られているけど、ちゃんと参戦してる。ひとりで3本くらいはちまき取るもん。 「…格好いい…」
――紅組と白組が同点。 こういうことは本当に珍しいらしい。総当たり戦のため、どの騎馬もへろへろ、とてももう一度戦う元気はないようだ。先生方が体育祭委員と協議している。その結果、こんな風になった。 「王の騎馬同士が一騎打ちで対戦する」 あたしはハッとして、岩男くんの方を見た。彼は何かを考えているみたいに腕組みをして、微動だにしない。どんなときでも動じない岩男くん。優しくて穏やかで。だから、大好き。白組のみんなの期待を背負っている。この勝負は負けられない。それに…相手はあの、会長の騎馬だ。 やがて。トラックの中にふたつの騎馬が控える。バスケ部の騎馬と柔道部の騎馬、と言う感じ。岩男くんを支えるにはやっぱりガタイのいい脚を付けないとね…。 ――ぱあああんっ! ピストルの音が校庭に響く。どどどっと駆け寄るふたつの馬。いよいよ、ぶつかる…と言う時になって、何と紅組の馬がするっと逸れた。 …ひゃっ…!! 心の中で叫んだのはあたしだけじゃなかったはず。それに見た、身を翻した時、赤の馬の脚のひとりが、白の馬の脚のひとりの足を引っかけたのだ。 ぐらり、と岩男くんの馬が揺らぐ。倒れる…!! そう思った瞬間に、会長の腕が岩男くんのはちまきに伸びた――…。 「きゃあああっ!!」 今度こそ、悲鳴が出てしまった。思わず両手で顔を覆っていた。ぶわぶわっと辺り一面に砂煙が舞う。しばらくの間、何が起こったのか確認出来ないほど視界が悪くなった。
「…菜花ちゃんっ!!」 「ねええっ! ほらっ…早くっ!! 顔を上げなよっ…!!」 恐る恐る顔を上げた。…そこには。 傾きかけた日差しを背に、赤いはちまきを右手に握りしめ…悠然と立っている岩男くんの騎馬があった。
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会長は最初から、岩男くんをばちばちにライバル視していたのだという。 小学校の時は誰にも負けない優等生で、何をしても一番だったのに、西の杜に入ってみると自分よりも出来る奴がいる。その中でも大人しくてどこにいるのか分からないようでありながら、人望も厚く、先生方にも好かれている岩男くんが特に好ましくない存在だったという。 「争うのも面倒だから、いつも適当にかわしていたんだけど…」 いろんな話を聞いて、涙が止まらないあたしを優しくなだめながら、岩男くんが言った。 「オレは菜花ちゃんのために、もう負けられないから。どこまで出来るかは分からないけど、とにかく必死でやってみるよ。自分の持っている力を全部出して」 「そんな…」 「あんまし、頑張りすぎると。岩男くんが壊れちゃうよ。…そんなの、嫌…」 「そんなはず、ないでしょ?」 「オレは大丈夫だよ? 菜花ちゃんが隣にいてくれれば、何だって出来る。いくらだって頑張れるから、心配しないで」 ぎゅーっと絡めた指の力が、あたしの嫌なことも悲しいことも全部吸い取ってくれる。全部取り込んでも岩男くんは負けない。いつも同じように穏やかに微笑んでる。 「菜花ちゃんみたいな、可愛い子が彼女なんだから。少しぐらい妬まれた方が嬉しいよ、こういうのも役得だもんね」 あたしの目から、また涙がこぼれてくる。でもそれは暖かくて幸せな涙だった。岩男くんの隣りにいていいんだ、ずっといていいんだって思ったら、嬉しくて、涙が止まらなかった。
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