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… 「片側の未来」番外☆菜花編その3 …
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「ねえねえ、菜花ちゃんっ!」
 ケーキ屋さんの前で待っていた春菜ちゃんは、あたしがお店から出てくるなり、勢い込んで話しかけてきた。

「どんなトッピングにしたのっ!? どうして、教えてくれないのよっ、意地悪〜〜〜〜!」

「ええ…?」
 耳元に大音響。もぉ、鼓膜が破れたら弁償してよね? 頭の奥までキンキンして来るじゃないの。

「内緒だよ〜、恥ずかしいもんっ」

 …だって。春菜ちゃんに話すと、30分後には、どどどっと100人くらいの人に知れ渡るんだもん。もう10年以上のつき合いだもんね、春菜ちゃんのこともよく分かってる。その上、春菜ちゃんのママもすごくて、フラワーアレンジメントの生徒さんにべらべらとしゃべっちゃうのだ。
 お陰で、あたしと岩男くんがどこにデートに行ったか、遊園地では何の乗り物に乗ったか、売店では何を食べたか…家に帰り着く頃にはパパとママがみんな知っている。いいのか、そんなにオープンで。だいたい、どこで誰が見ているのよ。みんな何を考えてるんだか。

 でも、春菜ちゃんは何を勘違いしてるのか、過剰に反応してくる。

「えええっ! 恥ずかしいって…一体どういうことよっ! まさか…『今日はケーキよりも私を食べてv』とか書いてあるんじゃないでしょうねっ!?」

「…ち、違うよっ!」

 おいおい、いくら何でもそれはない。そんなことお店のパテシエのお兄さんに頼めますかってっ!

「じゃあ、何なのよ〜」

 春菜ちゃんはしつこく食い下がってくる。ああ、ピアニストになるのはやめて、芸能レポーターになればいいのに。その方がよっぽど天職だと思うけどなあ…。

「あとで写メール送るから。それで、いいでしょ?」

 あたしがそう言うと、春菜ちゃんは渋々と承知してくれた。でも、ふつふつと本能の血が騒ぐらしく、思わせぶりの視線であたしをのぞき込んでくる。春菜ちゃんもそんなにのっぽじゃないけど、何しろあたしが人並み外れてちびなので、どうしても見下ろすかたちになる。ちょっと威圧感。

「で、でもさっ! とうとう解禁日が来たのね〜。いやんっ、岩男くんってば、今日廊下ですれ違ったけど、何食わぬ顔だったわよ。でも、頭の中は妄想が渦巻いてるのねっ! あはは、楽しいなあ…」

「解禁日って…」
 げげん、すごい直接的な言い方。聞いてるこっちが恥ずかしくなるわよ。そんな風に嬉々とした表情で言わなくたっていいじゃない。

「ね、ねえっ! 今日はもう早速? ケーキを持ってお邪魔して、そのまま…きゃあああああっ! 明日の朝、もう菜花ちゃんはオトナになってるのねっ! いやん、どうしよう…」

 身体をねじって、喜んでいる。怖いよ〜春菜ちゃん、まるでオヤジだよ。あたしはそんな親友を白い目で見つめた。

「…あのねえ、春菜ちゃん」
 んもう、分かっていないんだから。まったく、やになっちゃう。

「岩男くんちはおばあちゃんがいるのよ? そんなこと出来るわけないじゃない」

「あ、そうか…」
 春菜ちゃんは、がっくんと脱力してる。ものすごくがっかりしたみたいだ。

 そうだよ〜、今時高校生がえっちするなんて、普通の親だったら驚いても受け入れちゃうかも知れない。「避妊だけはしっかりしなさい」とか言ってさ。でも、敵はおばあちゃんだよ? 昭和ひと桁生まれだって言ってたよ? 彼女にとってはあたしはいまだに「幼稚園カバンを斜めがけにした菜花ちゃん」なのだ。いつもミルクココアを出してくれるし。

「それに、今日はふたりで図書館に行く約束をしてるの。ケーキはその前におやつに食べようかなって…」

「えええ〜〜〜〜っ!! 図書館っ!!」

 だ〜か〜ら〜…、いちいちそんな風に大きく反応しないでよ。軽くたしなめようとしたのに、春菜ちゃんってば、ぶんぶんと学校指定のカバンを回しながら(当たったら、痛そう…)叫ぶ。

「図書館って…、だって、あの裏には。例のペンション風のおしゃれなプチ・ホテルがあるんじゃない。そう言えば、ウチのクラスの美咲ちゃん、この前彼氏と行ったんだってよ? すごく可愛かったって。いいなあ〜、じゃあ、菜花ちゃんの初えっちはそこで決まりねっ!」
 ちなみに「ご休憩」は6500円だって、結構チープよね? …とか付け足してくれる。

「あの〜、春菜ちゃん…」
 盛り上がりのところ、水を差すようでまことに申し訳ないのだが。あたしはしらっとした言い方で切り返していた。

「あそこのオーナーって、パパのお友達なの。商工会で一緒なんだって。すっごく仲いいんだよ、冷蔵庫に割り引きチケットが貼ってあるもん」

 ラブホのチケットを冷蔵庫に貼ってしまうその神経が信じられない。ウチには多感なお年頃の子供が3人もいるんだからね。…それに、たまにそれが増えたり減ったりしているのはどういうことだろう? やっぱ、使っているんだろうか…想像したくない。自分の親のそう言うことって、誰だって嫌だよねえ。でも、パパの場合、容易に想像出来そうなのがもっと嫌。

「うわっ、さすがっ! 菜花ちゃんちはどこまでもオープンなのねえ…」
 春菜ちゃんもぎょっとしてる。あたしは今更、驚きもしないけど。あの濃厚なお玄関のちゅーを見てればね、ふたりがらぶらぶなのは当然だと思う。

「だから。春菜ちゃんが想像していることなんて、何もないの。あたしはみんなとは違って、清らかに生きるんだから。岩男くんだって、そんなこと絶対に考えてないよ?」
 あたしはさっぱりとした口調でそれだけ言うと、すたすたと足早に歩き出した。もう、のろのろしていたら、岩男くんの方が先に家に戻っちゃうでしょう? 春菜ちゃんが後ろから追いかけてくる。

「えええええ〜、そうなの? ゴールデンカップルの初えっちなんて、この上ないおいしいニュースなのに。つまんないなあ…岩男くん、本当にそんな感じなかった? 彼のことだから、『18歳になるまでは駄目だよ? 結婚出来ないからね』とか言ってると思ったんだけど…ああ、ぬか喜びか…」

 …当たってるけど。あら、言ってなかったのに。あたしよりも岩男くんの心理に詳しいというのもどうよ?

「それにさ、菜花ちゃん今って、日程的にもベストなんじゃないの?」

「う〜ん…まあねえ…」
 あたしは生徒手帳を取り出すと、スケジュール欄を開いた。

 ウチの学校の家庭科の先生は、高校1年生の授業で基礎体温をつけるように指導してくれる。基礎体温は何も、妊娠可能な期間を知るためのモノだけじゃないのだ。思春期の女の子は体調が不十分のこともあるし、今は無理なダイエットなどがたたって、無月経とか多いみたい。そう言うのは放置しておくとゆくゆく困ることになるそうだから、早めに分かった方がいいんだって。
 それにこれ、便利なんだよ。生理の時期が予想出来るから。ナプキンを忘れて「どしゃ〜」と言うこともない。ウチの制服、淡色だからね…失敗したら悲惨だと思うんだ。ダイエットも低温期の時の方が効果的なんだって言うしね。

「あと、1週間で生理だから。丁度、今が高温期だわ」

 

 生理の第一日目を初日として、次の生理の第一日目までがひとつの周期。生理が終わって、しばらくは「低温期」となる。身体も動きやすくて、アクティブな時期だ。そして、毎日体温を測っていると分かるんだけど、ぎゅーんと上がる時期があるのよね? 最初に自分のグラフを見た時は感動した。それが排卵期の前後。まあ、この日、と断定するのは素人には難しいけど、ぎゅーんとあと3日4日たてば、「排卵」は終わってる。
 精子というのは普通はすぐに死んじゃうもので。まあ、稀に1週間とか2週間とか生きるモノもあるらしいけど、普通は卵子の寿命は1日で精子の寿命は3日。その生きてる精子と丁度胎内から排出された卵子が受精すると赤ちゃんになる。それは子孫を残す上ではとても素晴らしい生命の誕生であるんだけど、まだ妊娠をする時期でないカップルにとっては困ることになる。
 いろんな避妊の方法はあるんだけど、それくらいのことは保健体育や家庭科の授業で習ったし、お友達とのおしゃべりの中にも特に興味深い話題として出てくるけど…何だか恥ずかしいし、自分に関わってこない問題だからスルーしていた。

 一度だけ、岩男くんとふたりでいる時に「ピルを飲もうかな?」と言ったことがある。別に「誘ってる」とかそう言うつもりはなかったんだけど、何だかちょっと不安になって。このごろは扱いやすい種類のモノが出ていることもあって、お友達の中でも飲んでる子がいる。望まない妊娠をして中絶をするよりも、ずっといいんだって。
 変だなあと思うことがある。岩男くんはキスはするけど、その先のことは絶対にしない。ふたりで岩男くんのお家にいて、おばあちゃんがいない時でも…少しくらいなら大丈夫かな? と言う時でも…すごく清らかなんだ。たま〜に、キスする時に胸やおしりに手が触れることもある。でも、あたしがぴくっとすると、すぐに外されちゃうんだ。

 お友達の話を聞くと、付き合いだしてすぐにそう言う関係になる子はすごく多い。あたしたちくらいの男の子はやりたい盛りの10代後半。それが当たり前のことなんだって。

 でも、あたしがピルの話を出した時。岩男くんはものすごい怖い顔をして、絶対に駄目って言った。

「あのね、菜花ちゃん」
 岩男くんはあたしの身体からすすっと離れると、真面目な顔をして説明する。

「ピルには、いいこともたくさんあると思うよ。望まない妊娠を回避することが一番だけど、そのほかにも貧血・良性乳房疾患・骨盤内感染症・子宮外妊娠・良性卵巣嚢腫・子宮体ガン・卵巣ガンなどを予防するメリットがある。でも…その反面に困ったことだってあるでしょう?
 悪心・破綻出血・点状出血・乳房緊満感・頭痛・体重増加などが起こることがあるし、血栓症・心血管障害・脳血管障害・乳癌・子宮頸ガン・良性肝腫瘍を起こす引き金になったりする。菜花ちゃんのようにまだまだ身体がしっかりしていない女の子が常用するのはきわめて危険だと思うよ? いくら日本人向けに低用量ピルが普及してきたと言っても…」

 …これだけのことを、教科書を見ることもなくすらすらと解説してしまう。やはり岩男くんはすごいと思う。基礎体温のことだって、話が出た時にあたしのグラフを見せてあげたことがある。
 綺麗な形状を描いたきっちり28日周期のデーターを見て、岩男くんは感心したように言った。

「へえ…本当に、こんな風になっているんだねえ…」

 

 何度も頷きながら興味深く見入っていたけど、もうあれは半年も前のことだ。28日周期だから、少しずつ前にずれてくる。岩男くんがあたしの今の体調を知るはずもない。

「ああん、もったいないわね〜そりゃ、岩男くんのことだからきちんと避妊はしてくれるでしょうけど。こんなにバッチグーな日程はおいそれとはないわ」

 バッチグーって…。別に、岩男くんが逃げる訳じゃないし。来月もその次もこの先ずっとに「高温期」はやってくるんだから、何も今日必死にならなくてもいい気がする。

「重ね重ね…残念で仕方ないけど。まあ、そう言う時はちゃんと教えてよね? 私たち、親友でしょ? 菜花ちゃんの幸せは私の幸せよ、それだけは忘れないでねっ!」

「…はいはい」

 ああ。あたし、春菜ちゃんの初えっちの話も、その後の話も…何度聞いたか分からない。春菜ちゃんの最初の彼は大学生だったから、えっちもすごく上手だったんだって。まあ、上手いとか下手とかよく分からないけどさ。むしろその次の彼氏が同級生で、その上童貞を捧げられてしまったから、もう大変だったと言っていた。気がついたら自分の方がリードしていて、泣きたくなったって。
 恥ずかしがりながらも嬉々として話してくれる、その神経が信じられない。どうしてそんなナイーブな話をべらべらとしゃべれるのだろう? あたしは岩男くんとのちゅーだって、恥ずかしくて話せないのに。

 坂の下で別れる。これからピアノのレッスンだというのに、一体何を考えているんだろう…? 絶対に何かを期待している背中を見つめながら、あたしはふうっとため息を付いた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「…あらあら、菜花ちゃん。今日はお出かけ?」
 階段を下りてきたあたしの格好を見て、ママがぽややんと訊ねてきた。パパはまたもお店を閉めて、今日は買い出しに行ってる。夜まで戻らないって。

「明日から、テストでしょう? …大丈夫?」

「うん、図書館に行くの、岩男くんと」
 もしも後ろめたい気持ちがあったりしたら、舌を噛んじゃいそうな台詞。でもあっさり言えちゃうのは、喜んでいいのか悲しんでいいのか…。

「ふうん、そうなの」
 ママは相変わらずぽややんと言うと、かたんと席を立った。ダイニングのテーブルで、クッキングの雑誌を読んでいたのだ。いつまで経ってもパパよりもお料理の下手なママだけど、一応努力はしている。そんな健気な態度がまたパパにはたまらない様子だ。

「ねえ、菜花ちゃん…」
 ママは何かを考えるように小首を傾げる。

「そのTシャツは顔映りが今日はいまいちみたい。ほら、前あきのノースリーブのがあったでしょう? それにカーディガンの方が可愛いし、知的だわ」

「へ…?」
 何で、そんなこと言うんだろう。小花模様のピンクのツイン・カットソー…すごく気に入ってるんだけどな。いつもと同じ顔色なのに、どうして?

「それに、ゆらゆら揺れるイヤリングも良くないわ。ちっちゃいのがいいわよ。あと、髪の毛もポニーテールは…」

「え〜?」
 いつもはここまで口うるさくないのに、どうしたんだろ。まさか、今日のママは中身がパパになっているんじゃないでしょうね? 今にスカートはやめてパンツを履いて行きなさい、とか言い出すんじゃないかしら、怖いわ。

 …もう、せっかくすぐに出かけようと思ったのに。何よ〜。

でもママはにこにこ笑いながら、あたしを二階に行かせようとする。

「そうだ、岩男くんちに最初に行くんでしょ? じゃあ、持っていって貰いたいものがあるの。ママもそれを支度するから、その間に着替えちゃって」

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 高校2年生の秋から、高校3年生の秋まで。あたしと岩男くんは生徒会の仕事をしていた。

 岩男くんが生徒会長で、あたしは1期目が書記、2期目が副会長。副会長は2人いて、そのうちのひとりだ。学校生活の全てのスケジュールから考えれば、大したことないかも知れない。でもてきぱきと議題をこなしていく岩男くんのりりしい姿を間近に見るのはとても素敵なことだった。

 …それだけじゃないよ。

 ウチの学校は何故か文化祭が5月にあるんだけど。その時に実施される「ミス西の杜コンテスト」…どういうことか、今年もあたしが選ばれてしまった。そりゃ、中等部の時は3年間キープした。でもこういうのって、彼氏が出来ると不利かな〜ってちょっと思ったのよね。
 街を歩いていても、岩男くんが一緒だとモデルの勧誘とかスカウトの人とか近寄ってこないもん。それはすごく有り難い。ただ、男の子たちにとっては彼氏のいる女子は「対象外」になってしまうんだろうなと思っていたの。堂々の6年間完全制覇。ちょっと信じられなかったわ。

 でねでね。…ああ、思いだしても嬉しくなっちゃう。

 講堂のステージに上がったあたしにでっかい花束を手渡してくれたのが、なんと岩男くんだったの。普通はコレ、文化祭実行委員長の役目なんだよね? でもみんなからの要望でそうなったんだって。さすがにみんなの目の前で、ほっぺにちゅーとかしてくれなかったけど、もう胸がいっぱいになって涙が溢れて来ちゃった。

「おめでとう」
 って、岩男くんのやさしい声が耳元で聞こえて。顔を上げたら、恥ずかしそうに、でも誇らしげに微笑む顔があって。もううっとりだったんだ。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 その時の花束みたいなオレンジ色のブラウス。ちっちゃい水玉模様のノースリーブはフチのところにレースが付いてる。ママはこういうデザインをあたしに着せたがるのだ。子供っぽくてちょっと嫌なんだけど、この服は襟がシャツみたいにかっちりしてるから甘くなり過ぎなくていいんだって。
 カーディガンはレースのなんだけど、コレも袖口とか裾とかにパールが縫いつけてある。ちっちゃい奴でずららっと並んでいて、すごく可愛いんだ。胸にはママの提案で、オレンジとイエローを基調とした大きめのコサージュを付けた。ちょっとピンクハウスみたいだ。
 スカートはデニムのAライン。もちろんミニ。8枚はぎで裾がギザギザしている。そこにもレースが丁度ペティーコートみたいに付いてるんだ。


「ごめんくださ〜い…」
 片手にケーキの箱、片手にママの持たせてくれたでっかい紙袋。あたしはよろよろしながら、岩男くんちのお玄関の引き戸を開けた。

「あっ…ああっ…! 菜花ちゃんっ…!」

 ばたばたばた。何だかものすごい地響きがして、岩男くんがお玄関まで飛んできた。どうしたの、涼しい10月に大汗なんてかいちゃって。あたしが目をぱちくりさせていると、岩男くんが心なしか赤くなったほっぺをひくひくさせながら言った。

「と、とりあえずっ…、上がらない?」

「あ。…うん」
 あたしはちょっと考えてから、岩男くんにケーキの箱を差し出した。

「これね、お持ち帰り時間30分でドライアイスいれて貰ったから。今なら冷え冷えだと思うよ? お紅茶いれて食べようよ」

「あ…ああ、そうだねっ…」
 変だな〜何だか、すごく反応が悪いんだけど。一体どうしたんだ、岩男くんは。

「おばあちゃんは? …お買い物?」
 サンダルを脱いで、向きを変えながら。お台所に入っていった岩男くんに尋ねる。おばあちゃんの草履のない時は、お出かけ中の印なのだ。

「岩男…くん?」
 返事がない。変だなあ、もう。朝は普通だったのに、一体どうしたんだろう? いつもの物静かなオトナの岩男くんはどこに行っちゃったの。

「うっ、うわっ!!」

 …がっちゃ〜ん…!

 あたしがお台所をひょいっとのぞき込んだ瞬間に、お客様用の白いカップがひとつ床に落ちてはじけ飛んだ。

「…あ、大丈夫?」
 岩男くんが呆然と突っ立っているから、あたしの方が冷静になっちゃう。とりあえず、大きな破片だけでも拾おうかなとスリッパを履いたまま床の上を進んでいった。

「ご、ごめんっ! いいよ、怪我でもしたら…」
 数秒遅れてスイッチの入った岩男くんが慌ててあたしのあとに続く。そして、破片に伸ばしていたあたしの右手を慌ただしく掴んだ。

「…岩男…くん…?」
 うわ、手が汗でべったりしてる。どうしたのよ、もう。変だよ、岩男くん。その上、小刻みに震えている。振動がかたかたと腕を伝ってあたしの心臓まで響いてきた。

 あんまりにも心配になって下からのぞき込むと、俯いたままだった岩男くんが観念したように顔を上げた。

「あ、あのねっ…あのね、菜花ちゃん…っ!」

 左手も伸びてきてあたしの右手は岩男くんの両方の手にぎゅうーっと包まれていた。かがんだままの姿勢で、何が何だか分からないあたしは目をぱちくりすることしか出来ない。

 岩男くんは、何だかとっても辛そうに何度か深呼吸をした。それから、震える声でこう言ったのだ。

「実は…おばあさんが、紅葉狩りに出かけたんだ。夜まで戻らないんだって」



 

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