「岩男くんっ! 久しぶりっ!」 思わず抱きつきそうになったあたしを、さりげなく右手で制するのはいつものこと。夕方の駅は流れになって動いてるのが分かるほどの人混みで、とてもらぶらぶシーンを展開できるような場面じゃない。それでも、あたしにとっては馴染みのない風景。知ってる人なんていないし、つい大胆になっちゃうわけ。けど、岩男くんの方はどこに知り合いがいるか分からないもんね。 「ゴメンね、無理言って時間を作ってもらって……」 ちらっと足元を見て、大学から直接来てくれたんだって分かった。岩男くんは無頓着なようでいて、なかなかTPOをわきまえてる。通学用には歩きやすいスポーツシューズだけど、お出かけだったらきちんと手入れした革靴を履いてくるんだ。こういうことを、家族とか彼女に指摘されなくても出来ちゃうのってすごいと思う。 「ううん、こっちは大丈夫だけど。……どうしたの? 急に」 いつも思うんだけど、こうして知らない街で会う岩男くんは何だか別の人みたいだ。本物じゃなかったらどうしよう、心配になってくる。抱きつくのは無理でもせめて……と、コートの袖口をきゅっと握りしめた。 「うん……、まあ」 今回、会いたいって連絡したら、最初は困ったな〜って感じだった。土日の予定は、って訊ねると最初は口の中でもごもご言ってる。ああ、駄目なんだと諦めかけたとき「土曜の夕方になれば平気かも」って、返事してくれた。 「どうする、どこかで座って落ち着こうか? ――ええと、この辺だと……」 ただでさえ、大きな岩男くんが背伸びして。あたしたちの距離がまたぐんと広がった気がする。物理的な距離は近くなっても、心の距離が遠い。どうして、いつからこんなことを思うようになったんだろう。 「待って」 「あたし、まずは荷物置きたい。……いい?」 振り向いた岩男くんが、また口の端だけで、ちょっと笑った。
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どうやって説明したらいいんだろう。とにかく、振り向けばそこにいる、って言ってもいいくらい、岩男くんはあたしの周りの風景に溶け込んでいた。 もしもクラスが違ったとしても、同じ校舎で同じ時間に授業を受けている。帰り道、話そうと思って忘れちゃったことを夜になってから思い出しても、また明日でいいやと思えた。朝が来れば、岩男くんがお迎えに来る。慌てて夜中に電話するまでもない。 それなのに、同じ景色の中、岩男くんだけが消えて。話をしたくても、わざわざ携帯や下宿の電話口まで繋がなくてはならない。アナログでしゃべったのなんて、ここ数年どれくらいあるだろうな。通算して丸一日に収まっちゃったらどうしよう。 そう、あたしたちを繋ぐ「電話」も、とても扱いづらいものに思えた。 おばあちゃんとふたり暮らしだった岩男くんだから、テレホンカードの代わりのように携帯電話を早くから使っていた。たしか小学校の高学年の頃には、もう自分専用のものを持っていたはず。あたしたちの中でもかなり早いほうだったと思う。今とは違ってもっとがっしりした旧式だった。 けど、小さい頃から手にしていたせいだろうか。岩男くんにとって携帯電話は公衆電話と同じ感覚だった。不用意に長々と話したりは絶対にしない。用件だけ言ってぷつっと切る。 最初の頃は、それがとても悲しかった。 「彼氏と長電話してたら、そのままあっちが寝ちゃって〜」 とか、そんな風にお友達が言うのよ。毎晩のように、掛かってくる電話を待って、お風呂場にまで携帯を持ち込んじゃうとか。中にはパソコンでチャットみたいにしてる子もいるって聞いたな。一体そんな長い時間、何を話しているのよと聞きたかったけど、出来なかった。そんなの、菜花ちゃんも一緒でしょうとか言われたら困るもん。まさか、用件だけでがちゃんなんて、言えない。 進学して、彼氏と離ればなれになった子は結構多かった。でも、話を聞くと、彼氏さんの方が心配して連絡を入れて来るみたい。粘着で困っちゃうと言いながら、嬉しそうな顔してて。あたしだけが、境遇が違うことに、だんだん心配になってきた。 もしかして、大学生になった岩男くんは別の人に生まれ変わってしまって、もうあたしのことなんてどうでもいいと思っているんじゃないかしら。短大での新生活と相まって、不安で押しつぶされそうになった。その後、GWに戻ってきた岩男くんを見て気抜けしたのを覚えてる。岩男くんは岩男くん、丸のまんまどこも変わってなかった。 でも、話していくうちに、新しい発見もあった。岩男くんの話題が、あたしの全然知らない内容になっているんだ。お友達の名前を出されても、分からない。教授の名前だって、行きつけのお店だって同じこと。「この前、こんなことがあってね……」って、単なる世間話の様な内容でも、いちいち話を遮って説明して貰わないといけない。最初はとても面倒だった。
会えたらどんな話をしようって、指折り数えて待っているのに。いざ、目の前に岩男くんが来ると、もう胸がいっぱいで言葉が出なくなる。 もどかしさの中で、時計の針だけが無情に進む。あたしはいつの間にか、岩男くんと一緒にいられるギリギリの時間まで逆算して考える習慣が付いてしまった。出会った途端に「あと、何時間一緒にいられるんだろう」って、カウントダウンしてる。 もちろん、こっちに戻ってきたからって言って、岩男くんの時間が全てあたしのために使われるわけはない。ずっと通っていた柔道場に行ったり、余裕のあるときは母校の柔道部に顔を出したり。他のお友達と会う予定だって入る。もともと、空気のように時間を共有していたふたりだった。だから、……なのかも知れない。お互いがお互いのためにわざわざ時間を割くっていうのに慣れてなかった気がする。 あたしが岩男くんの住む街に出掛けたときの方が、岩男くんを独り占めできた。けど……それをするとね、行き帰りの新幹線の時間がもったいなくて。特に帰りの車内では、悲しくて悲しくて仕方なかった。 「じゃあ、またね」って、新大阪のホームで、岩男くんが手を振る。 こんな時にもキスしたり抱きしめたりして別れを惜しむなんてこと、絶対にしない人。日曜の夜なんて、もうそこら中が恋人だらけよ。誰もこっちなんか見てないで、自分たちの世界に入ってるんだからいいじゃないと思うのに。そこは岩男くん、本当に自分のスタンスを崩さないんだから。 何度か、考えた。もしかして、岩男くん、別にあたしと「ばいばい」するときも寂しくないのかなって。どうしてまた明日会えるみたいに、あっさりしてるの……?
まあ……昔からそうだったよね。昨日や今日のことじゃない。 ちっちゃい頃、よく岩男くんの家に遊びに行った。ウチに来て貰うと、梨花や樹と岩男くんの取りっこになるから。岩男くんはあたしのお友達なのに、そんなのつまらなかった。 そうしているうちに、ママがお迎えに来る。樹の手を引いて。「ご迷惑になりますよ」って、いつもは優しいママなのに、その時だけは大嫌いになった。あたしはあとちょっとだけ、岩男くんと一緒にいたいのに、オトナは言うことを聞いてくれない。自分の思い通りにしようとする。 あたしがぶうぶう言っていると、それまで黙っていた岩男くんがぽつりと言う。 「菜花ちゃん、もう帰らなくちゃ駄目だよ?」 恋人同士になってからも、そんな感じだったかな。学校の帰りにお茶していても、時計をちらっと見ると「もう帰らなくちゃ」って。もっともっと一緒にいたいなって、言って欲しかったのに。
昨年の4月、あたしが就職して。そしたら、ふたりの物理的な距離は全く変わらないのに、何となく今までよりも遠くなった。 お勤めって不思議。 朝起きて電車に乗って出掛けるのは同じなのに、何か全然感覚が違うの。帰宅時間も講義が終わったあとにバイトしてた頃よりも早いくらいなのに、疲れ方が全然違う。学生時代のお友達と連絡を取り合っても、みんな言ってる。戻ってきても、頭の中がぐるぐるして全然気が休まらないって。 働いてお金を貰うと言うこと、それがいかに大変か。いきなり「一人前の社会人」と見なされて、もしも失敗すれば自分だけじゃなくて周囲の人にまで被害が及ぶ。ぴりぴりといつでも神経を張りつめているみたいな気がした。ウチの職場なんて、フレンドリーな方だと思うけど、それでもそうなんだ。 岩男くんの方は相変わらず大学に通っているわけだけど、やはり三回生になって少しずつ変化が生まれた。 一般教養が多く組み込まれていた講義内容が一新して、専門教科が幅をきかせてくる。自分の研究したい分野もはっきりしてきて、卒業研究のために担当教授とか選ばなくちゃならないんだって。
そして、9月の終わりに岩男くんは大学に戻って。そのあと、会えたのは何と年末! しかも、年の瀬に半日と、年始に半日だった。 我が家でも今年は妹の梨花が大学受験だし、大袈裟にパパやママの田舎に戻ることはしなかった。大晦日はパパの実家、そして元旦はママの実家。一泊ずつしたあとにとんぼ返りして、3日の日に岩男くんも交えて一家で新年のテーブルを囲んだ。
――そう、そうなんだよ。年末年始、ちょっと顔を見てお互いが元気でいることを確認しただけ。ぶっちゃけた話、えっちなこともしてない。最後にしたのは9月、信じられる? 何ヶ月空いてるのかしら。
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大家さんの奥さん以外は女子禁制の場所。いつか、下宿してる学生さんの妹さんが受験で泊めてくれって来たことがあったんだって。急なことで、ホテルとか取れなかったらしくて。そしたらどうしたと思う? 大家さんの部屋に泊めて貰ったんだって。それくらい、きっちりしてるの。 あたしも短大時代はちょくちょくこっちに泊まりに来たんだけど、そんな時は普通のシティーホテルを使った。ツインかダブルか、その時によって変わったんだけど……ようするに、岩男くんとふたりでお泊まりする部屋。ラブホでもいいかなと思うんだけど、パパが「宿泊先の住所と電話番号!」って、うるさいんだもん。携帯あるからいいでしょって言っても、絶対駄目なの。 今回もいつも使ってるホテル。出来るだけ上の方の階を取った。岩男くんの大学からは少し離れた場所。ご飯を外で食べても、誰かに会ったことはない。
「今日と明日がセンター試験でしょう? 会場係を頼まれていたんだ」 ここに来るまでの道のり。歩きながら、岩男くんはさらりと言った。今日も今までやってきたんだって。会場案内とか、外回りが主だったみたいだけど。白衣を上から来ていたから、何度も大学職員と間違えられたそうだ。 「……え、じゃあ。明日も……?」 あたしが不安な面持ちで顔を上げると、岩男くんは静かに笑ってる。 ふたりの身長差は中学の頃から変わらない。遠目に見るとかなりのでこぼこカップルに見えるらしい。ううん、それどころか岩男くんのことを知らない人から「昨日、お兄さんと歩いていたでしょう?」って言われたこともある。恋人同士にはとても見えなかったと言われて、ちょっと落ち込んだな。 「ううん、他の奴に代わってもらったから。結構バイト代いいし、みんなやりたくてうずうずしてるんだからね」 何となく。こういうところが「学生」だなって思う。自分が駄目なら別の人に簡単に回せる、そんなことばかり。そりゃ、それなりに「責任」はついて回るけど、やっぱりのほほんとしてる。 「それに、また来週は九州だし。ここしか自由にならないから、丁度良かったんだよ」 週末になると、県外を飛び回ってる。そんな生活が夏休み明けから続いていると、お正月の時に話してくれた。岩男くんが手がけようとしている研究内容は、野菜の品種改良。野菜と言っても種類が多いけど、岩男くんは担当教授が今力を入れている「ナス」を選んだんだって言う。 どうせなら、ウチの方にも来てくれればいいのに。何だか西側ばかり。天下分け目の関ヶ原ではないけど、教授のお友達も関西からあっちの人がほとんどなのよね。そうかもな、あたしの短大とか、友達が入ってるサークルとかにも四国の人はいても、大阪とか兵庫とか……あっちの人は少なかった。地元にたくさん学校があるんだから、わざわざ遠くに行くことはないってことなのかな。 「そっか〜、忙しいんだね」 今から、こんなでどうなるんだろう。まだ自分の研究には取りかかってない状態なんでしょ? 卒業年度は本当に多忙で、下宿に戻ってくるのも午前様になったり、研究室の簡易ベッドで休むことも多くなるって聞いてる。頑丈に鍛えている岩男くんだから大丈夫だろうけど……もっともっとあたしとの接点はなくなるな、って思っちゃう。
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午後の早い時間の新幹線だったのに、部屋まで辿り着くともう夕暮れ。窓をちょっと開けてみたら、凍り付きそうなひんやりした空気が流れ込んできた。 岩男くんはソファーのところで、早速紅茶なんていれてくれてる。電気ポットからお湯を出して、ティーパックを入れたカップに注ぐ。ここはふたりで借りた部屋だけど、岩男くんの住む街にあたしが来たときは何となくお客様気分になる。
実は――ホテルのお金も、未だにワリカンなんだよね。 何しろ、ちっちゃいときからの習慣だから、特別なとき以外は男の人だからって岩男くんに全部任せるのは抵抗ある。これから食べに行くお夕ご飯も、明日の朝のモーニングも「ひとりずつお願いします」ってレジで言うんだ。店員さん、びっくりした顔する。 そう言えば。昨春、あたしが就職した当初は、何故か岩男くんの方が全額払いたがって困った。
そのままゆっくりと暮れていく窓の外を眺めていたら、背後でチャラチャラと音がする。振り向くと、岩男くんがルームキーをいじっていた。きっともう部屋の番号もきちんと記憶してる。 岩男くんのすごいなあと思うところは、関連づけてとても的確に物事を覚えることだ。そういうのって、才能だと思う。初めて行った場所でも、道に迷うことがほとんどないの。入り口とかエスカレーターがたくさんあるデパートや展示場に行っても、一度通った道はきちんと頭に刻み込まれてる。 「ほら、ここじゃないでしょう? だって、脇に本屋さんがあったはずだから」 何て言われることもしばしば。いつも一緒にいた頃はそれが当たり前だったから、そんなに意識したことはなかった。でも、離れている時間の方がずっとずっと長くなってきた今では「これが岩男くんだ」って言うちっちゃな出来事がすごく新鮮。
そして。 今、岩男くんが何を考えているのかも何となく分かるよ。お夕ご飯のことでしょう? 今夜は寒いから温かいものがいいかなとか、早めに行かないとお店が混んでくるだろうなとか。あたしと過ごす居心地のいい時間を模索してる。 ……それなのに、あたしは。明日の午後、新幹線に乗る瞬間までの時間を逆算してるよ。こぼれ落ちる一秒一秒が、消えていくのが辛い。
「菜花ちゃん、……」 次の言葉が出る前に。あたしは、座ってる岩男くんの背後に回ると、そのまま大きな背中にしがみついた。 「……しよ?」
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