TopNovel未来Top>こうめ・はぼたん・せつぶんそう・3


… 「片側の未来」番外☆菜花編その4…
+ 3 +


 

 絶え間なく流れ落ちる水音を遠く聞きながら、あたしはベッドの端に腰掛けていた。足が床から離れてぶらぶらしてる。髪の毛の先から落ちた雫が、バスローブの肩にぽとぽと落ちていく。先にシャワーを使ったのはあたしだった。

 そのままでも、全然オッケーだと思ったのに。岩男くんはどうしてもシャワーを浴びてから、と言う。昨日の夜は飲み会があって、お風呂屋さんに間に合わなかったんだって。別に菜花ちゃんはそのままでもいいけど、なんて言われても、そんなのやっぱり恥ずかしい。

 

 ――でもなあ。なんか、こうやって待ってるのもやだなあ……。

 

 岩男くんと一緒にいる時間は当たり前だし、えっちなことだってお約束みたいなもの。それでも、何度経験しても慣れなくて、そのたびにドキドキして躊躇ってしまう。
 同じ部屋にいても、ムードが高まることがあんまりなくて「さて、しましょうか」って感じだし。それに……う〜、こんなこと言うと、あたしがインランみたいで嫌なんだけど。岩男くんって見た目ほど、えっちじゃないんだよ?

 よくさ、言われるの。岩男くんを知ってるお友達から。

「菜花ちゃんの彼って、すごそうね」

 あの身体でのしかかられたら、腰に来るでしょうとか。女の子の会話って、結構すごい。時々しか会えないんだよって言ったら、じゃあもう濃縮されて死んじゃいそうねとか。……そ、そんなこと、絶対にないんだけど。みんな、何を想像してるのよ。

 彼女が欲しいのは、身体目当てとか、そんな話もあるけど。岩男くんの場合は全然違うと思うよ。こんな風に、ふたりきりで何をしても許される空間にいたとしても、岩男くんは絶対にあたしの嫌がることはしない。それどころか、あまりにもつれなくて、もっとくっついていたいなと思っちゃう程よ。

 時々、考える。岩男くんって、どうしてあたしと付き合っているんだろうなって。

 あ、もちろん。嫌々じゃないってことは分かるよ。きちんと愛情は感じるもん。岩男くんはいつもすごくやさしいし、あたしのこと大切にしてくれる。えっちだって、回数を重ねても絶対に手抜きしないし。それこそ、身体の隅々まで……うん、愛されてるなあって思う。

 でも、それは。岩男くんの生活のほんの一部であって。

 高校時代まで、あたしは確かに岩男くんにとっての「一番の女の子」だったのかもしれない。でも、岩男くんと離ればなれになってからの約三年間、あたしが色んな男の子と出会ったように、岩男くんだって普通に色んな女の子と巡り会っているはず。同じゼミだったりすれば、飲み会の席で隣になることもあるよね。楽しくおしゃべりすることだってあるだろう。

 あたしの知らない岩男くんの日常を、たくさん知ってる人がいる。それが何となく嫌。馬鹿だなって思われそうだけど、すごく口惜しい。違う環境に引き裂かれて初めて気付いた。お互いが全く異なる空間で過ごす心許なさ。どうにか自分を奮い立たせて、ここまでやって来た。だけど、ほとんどくっつきそうだったはずの道のりが、少しずつ離れていくように感じるのは気のせい?

 

 今まで、ここまで不安になることはなかったのに。

 きっと、今回、岩男くんに「ちょっと忙しいから駄目なんだ」って言われていたら。あたし、壊れちゃっていたかも知れない……よ。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 西の杜の中等部に入学する頃には、あたしの身長は止まってしまった。ミリ単位で伸びたり縮んだりはあるけど、そんなのは背骨の噛み具合の誤差だって言われる。女の子らしく、身体は丸みを帯びたけど、体重もそんなに変わってない。

 

「菜花ちゃんって、本当に成長してないね」

 音大三回生、すっかりジョシダイセーが板に付いた春菜ちゃんは、くるくると綺麗に外巻きカールした髪をかき上げながら言う。お正月に久しぶりに会った。今は大学に教えに来てる講師の先生と付き合ってるんだって。服装とかもちょっとオトナっぽい。

 どうも小学校の時の卒業アルバムとか、お掃除していて見つけたらしいの。あたしの個人写真を見て、おなかの皮がよじれるほど笑ったとか言うんだから、失礼しちゃう。そうですよ、そりゃ、童顔ですよっ! なかなか似合うスーツが見つからなくて大変なんだから。サイズももちろんだけど、デザインも。

 周りはみんなオトナになっていく。あたしも年齢だけはそれなりに重ねてるけど、でもねえ。梨花はもちろん、5学年も年下の樹にすら身長を抜かされて、自分だけが置いてけぼり気分。

 

 まあ、そんなでも。きちんと社会人はしてる。

 あたしの職場は超有名って訳じゃないけど、そこそこの中堅企業。その業界の人なら誰でも名前を知っているレベル。シーズンごとにデザイナーさんを通して新作製品を作って、それをほとんど決まってる取引先に卸す。一応、あたしは営業という肩書きだけど、そんなに難しくはないよ。飛び込みの仕事もないし。大口の注文を取ってくるのはほとんどが男性社員。でも、別に女性蔑視とかじゃないよ。

 それなりに頑張ってやってるなって、自己評価していた。そう……本当に数日前までは。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「いやあ、菜花ちゃんも。だんだん一人前になってきたね〜」

 そう言ってくれるのは、お酒で少し顔の赤くなったあたしの直属の上司、岸田部長。年末には大きな忘年会がいくつもあったけど、年明け最初の週末に「ちっちゃく新年会しようね」って、言ってくれた。取引先にはペアで回ることが多いのだけど、あたしは入社以来、ずっと岸田部長と一緒に行動していた。

 

 ……あ、もしかして。ここで危ないオフィス・ラヴとか想像してないわよね。

 部長はもちろん妻子持ちだから、不倫の匂いも感じたりするのかな。でも、そんなことは絶対ないの。だって、部長はパパの学生時代からのお友達。山岳部で一緒に山に登った同志なんだって。

 あたしがちっちゃい頃から、部長はウチにも何度も遊びに来ていたし、家族ぐるみの交流が続いていた。パパにショーモデルのお仕事をするようになったのにも、一枚噛んでいたみたい。学生時代にバイトしていたのも、部長が懇意にしてるデザイナーさんの事務所だしね。

 こうなってくると、部長はまるで会社にいる監視役のようだ。何かなあ、謀られていると思うのは気のせいかしら。あたしはイマイチ、パパに信用ないのよね。

 岩男くんとのことは仕方なく黙認してくれてるけど、それでも大阪に行くたびにぷちぷちと文句を言われる。それだけじゃないのよ、その都度、コンドームを二箱ずつ渡されるの。これには岩男くんも絶句。どう考えても、一度に使うのは一個か二個。下宿にも余りまくってるって、苦笑いする。もしも、パパのことをよく知ってる岩男くんじゃなかったら、とっくの昔に呆れられているわ。

 

「そ、そうですかっ! 嬉しいです〜」

 どうぞどうぞって、冷酒をお酌する。

 岸田部長って、見るからに「山岳部」って感じなのよね。パパは山男って言葉が一番遠いような人で、四十半ばの今でも「ダンディーな魅力溢れてる」とかご近所さんの評判。お友達がもっさりとした人ばかりで、ちょっとびっくりしちゃう。

「いや、本当に。菜花ちゃんは頑張ってると思うよ、私も随分助けられてるし」
 本当に、何でこんなに嬉しくなっちゃうことを言ってくれるんだろう。出来る男の人って寡黙だとあたしのなかで相場が決まっていたのに、部長と一緒に仕事をするようになって価値観変わった。

 

 食物を専攻していたはずのあたしが、畑違いのアパレルなんて。最初はとても戸惑った。周りは被服科美術関係。服飾の専門学校でたたき上げた人ばかりだったし。専門用語のひとつも分からなくて、どうしようかと思った。でも、そんな時に部長は言ってくれた。

「専門的なことは、デザイナーさんやパタンナー、縫製の人の仕事だから。私たちは、お得意様との橋渡しを上手にすればいいんだ。お話を良く聞いて、何を望んでいるのかを汲み取る。その上で、どうすれば上手く行くかを模索していくんだ。分からないことはひとつひとつ、その都度覚えていけばいいんだからね。逆に知ったかぶりをすれば、あとあと面倒なことになる」

 お得意様の希望はとっても曖昧。「すっきりと好感もてるデザインに」とか、「首周りをすっきりさせたいんだけど」何て言い出す。そのままデザイナーさんに伝えたら、あまりに大まかすぎて混乱しそう。前もってデザインのサンプルを渡されることもあるけど、ここをもっとこうしてとか、細かな要望を取り入れていく。

 ただ、詳しいことは分からなくても、今時の女の子たちのファッションのこととかは少し分かる。あたしのママはいつも流行を取り入れつつも、あまり奇抜すぎないデザインを選んでくれていた。ママのちょっとしたアドバイスが、知らないウチにあたしの中で息づいてる気がする。

 

「あ……そういえば」

 今日、部長が案内してくれたのは、穴場の串焼きやさん。昔の民家のような内装で、お料理も美味しい。串に添えられていたお味噌も、ちょっと他じゃ味わえない感じ。最初に頼んだ数皿が、そろそろ片づこうとしていた。

「どなたか、他にいらっしゃるんですか?」

 実は最初から、気になっていた。

 だって、部長はあたしとふたりでお店に入ったのに、四人用のテーブルを選んだ。いくら大食漢の部長だって、お店が混む時間帯に広い場所を独り占めするほどマナー違反はしない。そう言えば、いつもはこういった居酒屋さんに誘われるときはカウンター席だよなあ。珍しいなとか思ってたの。

「あ〜、うん。そうだった、……そういや、遅いな」

 部長も、ご機嫌ですっかり忘れていたみたい。ごぞごぞと携帯を取り出したとき、後ろから声がした。

「すみません、遅くなって。お待たせしました」
 聞き覚えのある声に振り向くと。そこに立っていたのは同じ部署の先輩、今関さん。

 へええ、何だか意外な取り合わせだな。まあ、職場仲間ではあるけれど。こういう風に誘い合って個人的に呑んだりするんだな、このふたり。そのまんまお父さんと息子みたいな組み合わせだ。

「おお、待っていたぞ。それで、どうだったんだ。新開拓地の手応えは――」

 部長は自分の隣の椅子を勧める。店員さんを呼んで、ビールといくつかのお皿をオーダー。私がメニュー片手に対応している間、テーブルのあちら側では男同士、仕事の話で盛り上がっていた。

 

 ウチの会社は結構ラフな感じだけど、今関さんって何か違う。一昔前も二昔も前のリゲイン飲んで24時間頑張っていた実業家みたい。どうしてそんなに腰が軽いんだろうって言うくらい、良く立ち働く。
 あたしよりも一年先輩になるんだけど、入社以来、もう十件以上の取引先を新しく見つけてきてるとか。ウチの会社ではダントツの成績らしいわ。どうかすると、楽をしよう怠けようって思ってる人の多い現代の若者の中では希有の存在だと思う。

 今日も今まで、新しい取引先を回っていたと言うんだから、新年早々ご苦労様なこと。

 ふたりの話はどんどん盛り上がってくる。近々行われる企業向けの新作披露のショーの話とか、そういうのになってくるともう話題には入っていけない。ぶすっとしていてもいけないだろうなと思って、必死に相づちを打ってみるけど。何かな、きちんとお仕事するなら、もっともっと本気にならなくちゃ駄目かなと反省しちゃう。

 お店の中をきょろきょろしながら、あたしはふたりの話の推移を見守っていた。

 

「あ……、ちょっと待って頂けますか?」

 部長のおごりでお開きになったあと。お店の出口まで来て、今関さんが何か思い出したようにきびすを返した。忘れ物かな、トイレかなと思っているうちにのれんの中に消えていく。あたしと部長は自動ドアの外で待つことにした。

 

 真冬の夜も更けてきて、吐く息も真っ白。

 でもお酒とお料理で火照った身体にはひんやりと心地よい位だ。部長はひとこと断ってから、タバコに火を付ける。そしてあたしと反対側を向いて、ふーっと煙を吐き出したあとに、話し出した。

「奴のこと、どう思う?」
 部長の斜め後ろで、回転式の看板がくるくると回っている。ちらちらと動くネオンに照らされた顔がくしゃっと微笑んで、やさしいおじさんの雰囲気になった。

「は……?」

 あたしは最初、岸田部長が何を言いたいのか分からなかった。「奴」という言葉が誰を指しているのかもすぐには思いつかなかったほど。きょとんとしてると、部長はタバコの灰を足元に落として、それを革靴の先で辿った。

「私の、異動のことは聞いているよね?」

「あ、……はい」

 お正月にお年始にご自宅まで伺ったときに、こっそりと小耳に挟んだこと。春の人事異動で、部長は別の部署に行くことになったんだって。今まではずっと営業の畑にいたけど、そろそろさらに上のポストを目指すため、いわゆる出世の階段を登ることになるって。何か実感も湧かない、部長がいない職場なんて想像できないよ。

「奴が……今関君が、君と組みたいと言ってるんだ。他にも候補は何人かいるんだが、どうかね。私は彼を推したいんだが」

 あたしは無言のまま、部長の顔を見つめた。あんなにお酒を呑んだのに、もうすっかりと普通な感じに戻っている。一人前の社会人は付き合いのお酒に呑まれちゃ駄目なんだって。お酒は人間関係を円滑にする潤滑油のようなモノなんだから、雰囲気を楽しむもので。そこを間違えちゃならない。そういうこともみんな部長が教えてくれた。

 

 部長の代わりに、今関さん? ――何だか、ピンと来ない。

 

 ペアで行動するのが当たり前だったから、きっと春からは他の社員さんと組むことになるんだろうなとは思っていた。でも、実のところ、今関さんはあたしの視野に全然入っていなかったんだ。20人そこそこの営業部の中で、頭に浮かべていた人たち。それはみんなあたしよりもずっと年上の社員さんか、同世代なら3つ上の女性社員さんかなとか思っていた。

 そう言えば、あたしの憧れのその女性社員さん、田中さん。今関さんと学年が一緒だって言ってた。服飾専門学校卒の田中さんは、キャリアでは今関さんより二年先輩。やさしい色合いのパンツスーツを颯爽と着こなして、すごく格好いいの。男性と肩を並べてバリバリ働く「出来る女」なのに、お茶の入れ方とかもとても上手。
いつだったかな。ベージュのスーツから覗いたサーモンピンクのスカーフがとっても素敵で、きっとどこかのブランドのだろうなと思ってた。そしたら、給湯室で田中さんはさらりと言うの。

「ううん、これ。近所のスーパーでワゴンで売ってたの、一枚千円だったわ。でもそうは見えないでしょ? 午前中も出先で『エルメスですか?』って聞かれちゃったわ」

 ぺろんと舌を出して。オトナっぽいなあって思うのに、時々見せるそんなキュートな仕草にどぎまぎしちゃう。田中さんと一緒だったら、すごくいいだろうな。仕事のことだけじゃなくて、同性の先輩としても学ぶところがたくさんありそうだもん。

 仕事に対するまっすぐさはもちろんのこと、恋愛だって。田中さんはあたしの憧れなんだ。入社当初から、気になっていた。田中さんの左の小指にあるピンキーリング。綺麗な石がはめ込んであって、いかにもファッションリングです、って感じだけど、ただ単におしゃれで付けているんじゃないっぽい。だって、右手のリングは日替わりで変わるのに、そのひとつだけがいつも一緒なの。

「あ、これね。連れからのナケナシの逸品みたいよ?」

 その時も彼女はさりげない感じで答えた。「連れ」というのが、彼氏さんを指しているんだと気付くのに何秒かかってしまう。それくらい自然な物言いだったんだ。

 その彼氏さん、今はニューヨーク勤務。七夕様とは行かないまでも、年に二回くらしか会えないんだって。もうそんな話を聞いただけで、胸がドキドキしちゃう。だって外国だよ、外国。あたしと岩男くんとの500キロとは訳が違う。「寂しくないんですか?」って、思わず訊ねてしまった。田中さんは不思議そうに目を見開いてあたしをじーっと見つめたあと、くすくすっと笑う。

「あら、菜花ちゃんは寂しいんだ」

 そう言われると、何だかとっても恥ずかしくなった。一人前の社会人にならなくちゃと思ってるのに、ふっと気が抜けた瞬間とか、ついつい岩男くんのことを考えてるあたし。ちっちゃいリングだけで、パワーを貰えるという田中さんが羨ましい。

 でもね、駄目なんだなあ。

 一生懸命やって、ひとつの大きい仕事をやり終えたとするでしょ? そうすると、まずは岩男くんに会いたくなる。そして、頑張ったあたしを褒めて欲しいなって。こんなじゃ、まだまだなんだな。

 田中さんひとりじゃない、周りの社員さんも、取引先の皆さんもみんなみんなすごい。こういういい方が正しいかどうか分からないけど、まるでゲームのように仕事を楽しんでる。お金を貰うために働いているんじゃなくて、好きなことをやっているとおまけでお金も貰えるって感じ。大変なことももちろんあるけど、それを乗り越えることすら楽しんでるみたいに見えてくる。

 人生を楽しめるのがオトナかなって思う。自分で何もない場所に、新しく道を切り拓いていく。もちろん、企業の社員のひとりとして役目を果たしているんだけど、心がけがってこと。

 

 でも……な。どうして、今関さんが。分からないなあ。今関さんくらい出来る人だったら、春に新しく入ってくる新人君をバシバシと叩き上げるのとか向いてそうなんだけど。

 

「すみません、お待たせして。……さ、次に行きましょうか」

 あたしが返事をしないうちに、今関さんが戻ってきた。そして、岸田部長と連れだってずんずん歩き出す。だから話はそこでおしまい。男性ふたりのコンパスに遅れないように、あたしはちまちまと小走りに後に続いた。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐***‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「――あれ、槇原さん……!」

 週明け。お使いに出た帰り道に、声を掛けられた。振り向くと、そこにいたのは渦中の人、今関さん。あたしの心の中なんて知るはずもなく、真っ青な冬の青空をバックににっこりと微笑んでる。

「何? 外回りだったの?」
 そう言う彼の方も出先から帰ってきた感じだ。大きな紙袋を下げているのは、中にサンプルが入っているんだろう。

「あ……、銀行です。振り込みに行っただけ」
 そう返事をしながら、コートの襟元を押さえた。お天気はいいんだけど、その分気温が下がってる。時々吹き抜けるビル風が、ひときわ冷たく感じるんだ。昼下がりのオフィス街に、人気もまばら。

「ふうん、そうなの」

 今関さんは、腕時計をちらっと見てから、もう一度あたしに向き直る。伸びかけの前髪がふわふわと揺れた。微妙なカラーリング。染めてるのかそうじゃないのか分からないくらい。

「ちょっと、その辺で一息いれない? ……大丈夫、コーヒー一杯だから」


 

<<BACK   NEXT>>

 

Novel Index未来Top>こうめ・はぼたん・せつぶんそう・3